第84話 黒鉄の巨城と、排熱の深淵
山嶺を切り裂く夜風は、凍てつく針の筵のように肌を苛んでいた。
国境を越え、標高二千メートルの急峻な黒鉄の岩肌を背負って屹立するアイゼンガルド要塞。
天を衝くその偉容は、帝国北部軍が誇る不落の象徴であり、外周を覆う分厚い鋼鉄装甲板には、常時展開された魔導探知結界の青白い燐光が脈打つように走っていた。
見張り塔に据え付けられた巨大な探照灯が、規則的な首振り運動を繰り返しながら、千メートルの谷底へと広がる白銀の雪原を冷たく舐め回している。
光条が過ぐるたび、切り立った断崖の岩肌が白日の下に晒されるが、その光の届かぬ極小の窪みに、三つの影が張り付いていた。
ノア、リア、アッシュ。
三人が纏うルナ特注の耐寒魔導外套は、周囲の極寒環境と同調して熱放射を完全に遮断し、探知結界の波長を吸収していた。
探照灯の白い光線が三人の頭上を掠めていくが、警戒の鐘が鳴り響く気配は微塵もない。
「探照灯の旋回周期、五十二秒。死角が生じるタイムラグは十四秒……エルンスト少佐の記憶データと完全に一致しています」
アッシュが外套の隙間から懐中時計の針を確認し、耳元で小声で囁いた。
「十分だ。排熱口へ取り付く」
ノアの低く短い合図とともに、リアの細い腕が閃いた。
手首の射出機から音もなく放たれたのは、極細の耐寒鋼線ワイヤーと四つ爪のアンカー。
岩壁から突き出た直径二メートルの巨大な鋳鉄製パイプ――第二放熱ダクトの縁に、カチリと微かな金属音が噛み合う。
本来、要塞の外郭開口部には熱源感知器や対侵入結界が幾重にも敷設されるのが帝国の鉄則である。
だが、この放熱ダクトから噴き出す数百度の猛烈な高熱蒸気と魔導毒素は、精密な探知魔法の術式そのものを常時飽和させ、無力化していた。
生身の人間ならば肺胞を焼かれて即死する絶対の死地であるがゆえに、帝国技術陣はここを物理的に侵入不可能な『防壁そのもの』と過信し、外部格子の設置すら省略していた。
自然法則を過信した盲点。そこに生じる論理的死角を、ノアは見逃さなかった。
風の咆哮にかき消されるほどの接触音。
三人は滑車を伝うように重力を無視した速度で絶壁を駆け上がり、排熱ダクトの開口部へと滑り込んだ。
ゴォォォォ……!
ダクトの奥深くからは、要塞心臓部で稼働する巨大魔導炉の重低音とともに、肌を焦がすような熱風が猛烈な勢いで吹き荒れていた。
白濁した蒸気には、低純度の魔導触媒が燃焼した際の残留毒素が、紫色の微粒子となって濃密に混ざり合っている。
「くっ……息を吸い込むだけで気管が焼け爛れそうだ」
アッシュがわずかに眉を寄せたが、外套の首元に仕込まれた循環フィルターが即座に起動し、毒気を無害な空気へと濾過していく。
一方のリアは、乱れ狂う熱風と毒気の中にありながら眉一つ動かさず、ただノアの足取りと背中だけを視界に捉え、影のようにピタリと追従していた。主の計算に一片の疑念も抱いていない証拠であった。
「熱振動の相転移――局所絶対零度散布」
ノアが右手を翳し、心臓のアスター・コアを脈動させた。
蒼白い不可視の冷気パルスが、ダクト内を逆流するように撃ち込まれる。
シュゥゥゥ……!
轟音を立てて吹き荒れていた数百度の熱風が、瞬時に熱量を奪い去られ、冷涼な澄んだ空気へと変貌を遂げた。
ダクト内壁に赤熱してへばりついていたタール状の魔導残渣が急速冷却され、ガラスのように白濁して床へと剥がれ落ちていく。
熱量を物理的に奪い尽くし、熱風そのものを常温へ強制固定する人外の魔力制御。
背後でその光景を目の当たりにしたアッシュが、冷や汗とともに小さく息を呑んだ。
(……相変わらず、出鱈目な精密さだ。魔導の理論値をそのまま現実に上書きしている)
「前進する。内部ドックまで距離四百メートル、傾斜三十度の直線だ」
ノアを先頭に、三人は氷結した金属管の内部を滑るように進行した。
靴底に仕込まれた吸音材が摩擦音を完全に殺し、前方に微かな光が見え始めるまで、要塞警備の誰一人気づく者はいなかった。
やがて、ダクトの終端を塞ぐ頑丈な鉄格子へと到達する。
格子の隙間から漏れ出してくるのは、眩いばかりの魔導灯の光と、何百人もの工兵や技師たちの怒号、そして重機が軋む激しい金属音であった。
ノアは息を殺し、格子の隙間から眼下の光景を走査した。
そこは、要塞の地下深くをくり抜いて築かれた、天井高五十メートルを超える巨大な工廠――地下第零ドックであった。
その中央に鎮座していたのは、山のような威容を誇る超大型攻城兵器――【霧氷の巨神】。
四足歩行型の巨大な装甲体。
その背部には、数十メートルに及ぶ長大な魔導攻城砲が据え付けられ、何重もの冷却配管が蛇のように巻き付けられている。
足場の上では、防護服を着た帝国の技師たちがクレーンを操作し、砲身の最終調整に追われていた。
「……あれが、王国の国境防壁を一撃で粉砕するはずの巨砲か」
アッシュが小声で呟く。
「完成度はエルンストの記憶通り、約七十パーセントだ」
ノアの瞳が、蒼氷の光を帯びて巨大兵器の魔力配管を高速で解析していく。
「中核の魔導炉に代替結晶が充填されているが、純度不足により熱循環のバランスが崩壊寸前だ。……外部から一度の過剰冷却パルスを撃ち込めば、炉心そのものが自壊する構造的欠陥を抱えている」
「では、あの砲を破壊するのですか?」
リアの問いに、ノアは薄く冷酷な笑みを浮かべた。
「ただ壊すだけでは能がない。……敵の最高司令官を巻き込み、アイゼンガルド要塞そのものを内部から麻痺させる」
ノアの視線の先――ドックを見下ろす上層の司令室のバルコニーに、胸に幾重もの勲章を佩用した銀髪の将官が姿を現した。
アイゼンガルド要塞最高司令官、ヴァルター中将。
復讐の刃が届く距離へ、帝国の巨魁が自ら足を踏み入れた瞬間であった。
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