第83話 霜雪の死線と、要塞潜入の設計図
霜降り峡谷における帝国重装猟兵隊五十名の殲滅から、三日が経過していた。
国境沿いの峻険な峰々から吹き下ろす寒風は依然として肌を刺す鋭さを保っていたが、アスター公館を取り巻く空気からは、かつての絶望的な停滞感が完全に払拭されていた。
石造りの頑丈な城壁の周囲では、接収された帝国製の武具や軍需物資を満載した大型荷馬車が、乾いた車軸の音を軋ませながら絶え間なく行き交っている。
運ばれてくるのは、精巧な黒鉄の重装甲五十領、無傷で回収された最新式の連発式クロスボウ、そして数百発に及ぶ魔導矢と高純度火薬樽の山であった。
かつて傀儡代官ボルドーやカルステン子爵に酷使され、日々の飢えと厳冬の寒さに怯えながら生気を失っていた旧私兵の男たちは、今や見違えるような精悍さをその相貌に宿していた。
ヴェルナーの号令が練兵場に響き渡るたび、彼らは一糸乱れぬ規律ある隊形を保ち、物資の検分と外郭防護壁への配置換えを無駄のない動作で進めていく。
「信じられん……あの鉄壁を誇る帝国の正規猟兵隊が、本当に一兵も生き残れず壊滅したというのか」
「ああ、しかもこちらの損害は爪の先ほども出ていない。魔導障壁ごと極低温のパルスで一瞬にして粉砕されたそうだ。公館の新しい若き領主様は、ただの暗殺者ではないぞ。神算鬼謀の怪物だ」
作業に当たる元私兵たちの口から漏れ出るのは、恐怖を通り越した絶対的な畏敬と、揺るぎない忠誠心であった。
生きるための微々たる食糧を求めて彷徨っていた辺境の兵たちが、いまや帝国軍を相手に完勝を収める絶対的な支配者の下にいるという自負。それは軍隊としての規律と士気を、驚異的な速度で跳ね上げていた。
公館二階、冷え切った外気が満ちる執務室の窓辺に立つノア・アスターは、耐寒魔導外套の襟元を整えながら、練兵場の光景を無感情に見下ろしていた。
心臓部に埋め込まれたアスター・コアが、微細な脈動とともに体温を最適値に保ち続け、視界の隅には兵士たちの歩調や運搬効率が次々と数値化されていく。
ノアの背後には、長机を囲むように三つの影が控えていた。
夜鴉第一班長アッシュ、第二班長リア、そしてカルステン領の統制を固めつつ急ぎ戻った臨時軍政官ヴェルナーである。
「ノア様、接収した武具の仕分けおよび再配備は八割方完了いたしました」
ヴェルナーが分厚い胸板を張り、帳簿を片手に力強く報告を上げる。
「重装猟兵隊のタワーシールドは破損が激しいものの、素材である魔導合金は再鋳造により公館外壁の局所装甲として転用可能です。また、連発式クロスボウ五十丁は、射撃訓練を施した旧私兵部隊へ支給を完了しました。防壁上の火力密度は、従来の三倍以上に跳ね上がっております」
「十分だ。外郭の防衛線構築はそのままヴェルナーに一任する」
ノアは長机へ歩み寄り、羊皮紙の上に大きく広げられた図面を細い指先で叩いた。
そこに描かれていたのは、標高二千メートルの岩盤をくり抜いて築かれた黒鉄の巨城――アイゼンガルド要塞の詳細な立体断面図であった。
「エルンスト少佐の脳細胞から直接抽出した要塞内部の構造データだ。帝国北部軍が誇る不落の城塞だが、その実態は巨大な密室に過ぎん」
羊皮紙を覗き込むヴェルナーが、息を呑んで目を瞠る。
「外郭の石壁は厚さ五メートル、全周にわたり対物理・対魔導の複合障壁が常時展開……正面からの攻城戦を選択した場合、最低でも王国の正規軍五個師団、三万人規模の犠牲が出ても落とせるか怪しい要塞ですな」
「正面突破などという非効率な手段を講じる気はない。敵の防御がどれほど強固であろうと、熱力学の絶対法則から逃れることは不可能だ」
ノアの指先が、羊皮紙の最下層、断崖絶壁に面した千メートルの谷底へと滑り落ちた。
「ここだ。要塞の基底部、地下百二十メートルに位置する『第二放熱ダクト』。要塞深部の巨大魔導炉、および地下工廠で建造が進む【霧氷の巨神】が発する莫大な熱エネルギーを逃すため、直径二メートルの排気孔が外部へ露出している」
「しかし、排熱孔ということは、内部は数百度の高熱蒸気と魔導触媒の猛毒ガスで満たされているのではありませんか? 人間が足を踏み入れれば、肺胞を焼かれて即座に窒息死します」
ヴェルナーの当然の疑問に、ノアは眉一つ動かさず答えた。
「常人であればそうなる。だが、私の心臓のアスター・コアから放つ局所絶対零度パルスを用いれば、ダクト内の熱量を分子レベルで瞬間冷却し、常温以下の無害な気体へと置換できる。さらに、ルナから支給された耐寒魔導外套の循環フィルターを用いれば、微細な魔導毒素の侵入は完全に遮断される。進入における計算上の生存率は九十九・八パーセントだ」
すべての障害を事前に数値化し、排除する。
アッシュが口元を綻ばせ、リアが無言で短剣の留め具を確かめた。
「潜入部隊の編成は、どうなさいますか」
リアの問いに、ノアは迷いなく告げた。
「私、アッシュ、リアの三名のみ。少人数による完全隠密浸透で中枢へ直行する。目標は二つ。【霧氷の巨神】の魔導炉の破壊、および要塞司令官ヴァルター中将の記憶捕食だ。春の侵攻計画の全貌と、王都に潜む残る内通者の名をすべて暴き出す」
「要塞内部の警備シフトや哨戒ルートの巡回周期は、すでにエルンストの記憶と照合済みですか」
アッシュの確認に、ノアは静かに頷いた。
「要塞内部には三千の兵が駐留しているが、その八割は地上外郭の防壁警備と補給線の管理に割かれている。地下ドックへの出入りを許されているのは、機密保持のために選抜された魔導工兵と、司令官直属の近衛小隊のみだ。人員が限定されているということは、交代時間の空白と死角の発生パターンが極めて規則的であることを意味する。侵入から破壊工作、そして司令官の拘束に至るまで、全行程を四十二分以内に完結させる」
ノアの無機質な宣告には、作戦の失敗という概念そのものが存在していなかった。
「留守の防衛は私にお任せください!」
ヴェルナーが分厚い胸当てを強く叩き、決意の籠もった声で叫んだ。
「接収した五十名分の重装甲と魔導弓を公館の外壁へ配置し、カルステン領とアスター領の防衛線を鉄壁に保ちます。ノア様が留守の間、ネズミ一匹たりとも公館の敷居を跨がせはいたしません!」
「頼むぞ、ヴェルナー。春の雪解けまで残り三十七日。帝国軍が攻勢態勢を完了させる前に、その心臓をえぐり抜く」
ノアは冷淡に告げ、作戦図を巻き取った。
守勢から先制奇襲へ。冷酷なる復讐の刃は、帝国の誇る不落要塞の懐深くへと向けられた。
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