第79話 白銀の令状と、子爵邸の死角
吹雪の唸りが、公館の石壁を震わせていた。
地下の作戦室に広げられた地図の上へ、一枚の公文書が音を立てて置かれた。
羊皮紙の末尾には、王都貴族院の正式な印章と、査察官バルトロメウス男爵の署名が鮮明に刻まれている。
『――帝国との内通および国家反逆の容疑を確認。アスター侯爵家正統後継者ノア・アスター卿に対し、カルステン子爵の即時拘束および同領地の臨時軍事統治権を委ねる』
恐怖で震えるバルトロメウスの首元にリアが短剣を突きつけ、無理矢理に書かせた緊急討伐令状だった。
「完璧な大義名分だ」
ノアは書状を一瞥し、乾いたインクを確かめた。
「王国法において、貴族院査察官の令状による反逆者討伐は正当な軍事行動と認められる。これで、カルステン領を併合しても王都からの法的介入は不可能となった」
「ノア様、出撃部隊の準備は完了しております」
アッシュが進み出て報告した。
「第一班八名、第二班八名、計十六名の夜鴉全員が寒冷地隠密装具を装着完了。……ただし、敵の本拠に駐留する私兵は百五十名。公館詰めの守備兵だけでも五十名を超えます」
「問題ない。カイルの記憶から、公館の兵員配置と哨戒スケジュールは分単位で頭に入っている」
ノアは長机の地図を指し示した。
「正面からの攻城戦など行わない。カルステン子爵邸の裏手、氷結した厨房用排水路から地下倉庫へ侵入する。内部の警備兵は最小限の打撃で無力化し、カルステン子爵の首元へ最短ルートで到達する」
「ヴェルナー、公館の防衛はお前に一任する」
ノアの視線を受けたヴェルナーが、胸に拳を当てて深々と頭を垂れた。
「はっ! 正規兵二十七名、領民工兵部隊百名をもって公館の外壁と検問所を死守いたします! バルトロメウス男爵の監視も怠りません!」
「行くぞ。……夜明けまでにカルステン領の全機能を接収する」
青銀の外套を翻し、ノアと十六名の夜鴉たちは雪嵐の中へと溶け込んでいった。
◇
アスター領から北東へ三十キロメートル。
深い針葉樹林に囲まれたカルステン子爵邸は、堅牢な石壁と鉄柵に囲まれた城塞のような構えを見せていた。
見張り塔の上では、重装備の私兵たちが松明を掲げ、寒さに震えながら周囲の雪原を監視している。
だが、彼らの目は足元の闇を完全に捉え損ねていた。
ザッ、と微かな衣擦れの音が雪に吸い込まれる。
ノア率いる夜鴉部隊は、岩陰と雪の吹き溜まりを縫い、邸宅北側の断崖下へと滑り込んでいた。
そこには、雪に埋もれた鉄格子――厨房から出る汚水を排出するための旧水路が口を開けていた。
「排水管の氷結度、八十パーセント。……解凍および脆性破壊を実行」
ノアが右手を鉄格子へと伸ばした。
心臓のアスター・コアから微細な熱振動パルスが照射され、格子を固めていた分厚い氷盤が一瞬で蒸発。
さらに金属疲労を引き起こす超低温が格子そのものを直撃し、鉄棒がガラスのように音もなくへし折られた。
リアが影のように先行し、水路の奥へと滑り込む。
数秒後、水路の出口から二本の指が合図を出した。
ノアとアッシュ、夜鴉の精鋭たちが音もなく暗がりを潜り抜け、子爵邸の地下食糧庫へと足を踏み入れた。
「……哨戒兵の足音、上階に二。西側廊下に三」
アッシュが耳を澄まし、短剣を構える。
だが、ノアは静かに手制動をかけた。
「殺害による血痕と騒音は無用な警戒を呼ぶ。……神経麻痺冷気を充満させる」
ノアの指先から、目に見えないほど微細な冷気粒子が床下を通じて天井裏の通気口へと送り込まれた。
極低温の霧が、廊下を歩いていた二名の私兵の呼気に混じり、気管を抜けて脳神経を直接冷却する。
トン、トン……ドサリ。
悲鳴すらなく、二名の兵士は突如として意識を失い、絨毯の上へと崩れ落ちた。
後続の夜鴉たちが素早くその体を回収し、物置の奥へと隠蔽していく。
カイルから奪った記憶の通り、公館の防衛線には幾重もの死角が存在していた。
どの扉を開ければ執務室へ最短で到達できるか。
どの見張り兵が交代時間で気が緩んでいるか。
すべてを把握しているノアにとって、この大邸宅は屋根を取り払った鳥籠と何ら変わりがなかった。
突入からわずか八分。
ノアたちは一度の交戦音も立てることなく、子爵邸最上階――主室の重厚な樫木の扉の前へと到達した。
◇
主室内では、暖炉の火が赤々と燃え盛り、贅沢な羊毛の絨毯が敷き詰められていた。
「……遅いな、カイルの奴め。鉱山街道の調査など、半日もあれば済むはずだというのに」
豪華な絹のガウンを羽織り、革張りの長椅子に腰掛けていた男――カルステン子爵は、焦燥に駆られてワインを煽っていた。
卓上には、帝国のアイゼンガルド要塞から届いたばかりの極秘書状が広げられている。
『春の攻勢開始までに、アスター領の第四鉱山を完全に確保せよ。代官ボルドーが不能となった今、貴殿の私兵部隊が北方の先導役を務めるべし』
「ふん、先導役か。……ノア・アスターの若造がどれほど生き延びようと、春になれば帝国軍がすべてを踏み潰す。その時、我がカルステン家がアスター領を併合し、北方最大の領主となるのだ」
男が野心に満ちた笑みを浮かべた、その刹那。
カチリ。
扉の鍵が、内側からひとりでに回るような硬質な音が響いた。
「誰だ? ノックもせずに――」
子爵が不機嫌そうに振り返った瞬間、突風のような冷気が室内へ吹き荒れ、暖炉の炎が一瞬で凍りついて消滅した。
部屋の温度が瞬時に氷点下へと叩き落とされる。
「なっ……!?」
暗闇の中、音もなく現れた二つの影――アッシュとリアが、子爵の背後へと回り込んでいた。
リアのワイヤーが男の首元にピタリと巻き付き、アッシュの冷たい切っ先が心臓の真上へと突きつけられる。
「動けば頸動脈が千切れる。……息の仕方に気をつけろ」
アッシュの氷のような囁きに、子爵の全身から脂汗が吹き飛んだ。
そして、開かれた扉の向こうから、青銀の外套を静かに揺らしながら一人の少年が歩み入ってきた。
「ノ、ノア……アスター……!?」
「久しぶりだな、カルステン子爵」
ノアの蒼氷の瞳が、椅子に縫い付けられた男を見下ろした。
「貴様が帝国のアイゼンガルド要塞と交わしていた侵攻協定書、およびカイル率いる親衛隊はすでに無力化した」
「な……馬鹿な! 我が軍の精鋭百五十名が外にいるのだぞ! こんな真似をして生きて出られると――」
「貴様の配下の指揮系統は、すでに寸断された」
ノアは卓上の極秘書状を手に取り、冷淡に言った。
「貴様と無駄口を叩く気はない。……記憶を直接回収する」
ノアの右手が、子爵の額へと伸ばされた。
「ひっ……やめろ、やめてくれぇぇぇっ!」
絶叫する子爵の額に、ノアの指先が触れた瞬間――アスター・コアが激しく共鳴した。
「【記憶捕食】(メモリ・イーター)――解凍展開」
ゴォォォォ……!
カルステン子爵の脳内アーカイブが、ノアの意識の中へと一気に流れ込んできた。
――屋敷の地下に隠された、帝国からの裏金である金貨二万枚の暗証コード。
――領内の武器庫に保管されていた、帝国製最新式魔導弓五十張と火薬樽百個の保管場所。
――そして、王都のクロムウェル公爵へ送金していた賄賂の正確な裏帳簿。
「……完全掌握」
ノアが手を離すと、子爵は泡を吹いて白目を剥き、その場に崩れ落ちた。
「アッシュ。討伐令状を公館前の広場へ掲げ、私兵たちへ通告しろ」
ノアは冷ややかに命じた。
「『カルステン子爵は帝国内通の現行犯により処刑。武装解除に応じた兵には従前の給与を保証し、抵抗する者は反逆者として即時処分する』とな」
「御意!」
一滴の血も自軍から流すことなく、敵の本拠は完全に陥落した。
アスター領の版図は一気に二倍へと拡大し、北方の冬を支配する絶対的な基盤がここに完成した。
お読みいただきありがとうございます!
査察官バルトロメウスに無理やり書かせた「貴族院討伐令状」を掲げ、カルステン子爵邸への電撃夜襲を敢行したノアと夜鴉部隊!
親衛隊長カイルから喰らった記憶をもとに死角を完璧に突き、私兵150名に気づかれることなく子爵本人を無音急襲。
自軍の損害ゼロでカルステン子爵を捕縛し、【記憶捕食】によって隠し金貨二万枚や魔導兵装の備蓄、王都クロムウェル公爵への賄賂台帳を完全に手中に収めました。
これでアスター領の版図と軍資金は一気に跳ね上がり、北方の支配権は確固たるものに。
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次回、第80話もどうぞよろしくお願いいたします!




