第75話 アスター・コアの臨界突破と、冬越しの基盤
白鴉を排除し、旧第四氷晶坑道から公館へと帰還した部隊を出迎えたのは、夜明けの冷たい静寂だった。
荷馬車から下ろされたのは、奪還された金貨一万枚と、厳重に封印された鉛の木箱二つ。
公館前で夜通しの警備を指揮していたヴェルナーは、荷の全貌を確認した瞬間、武人特有の引き締まった顔を感涙に歪ませた。
「ノア様……! まさか、一兵の損害も出さず、これほどの短時間で全量を……!」
「当然の結果だ。敵の行動半径と逃走限界点はすべて事前に算出されていた。驚く要素はない」
ノアは冷淡に告げ、アッシュへ指示を出した。
「アッシュ。約束通り、金貨三千枚を即座に専用トランクへ再梱包しろ。ローゼンバーグ商会の北方連絡線を通じて、本日正午までに王都のルナへ送金手筈を完了させろ」
「了解しました。第一班の二名を護衛につけ、秘密裏に送り届けます」
「残る金貨七千枚は、公館の地下金庫へ収納。ヴェルナー、内政用の台帳を更新しろ。領民への労働配給枠をさらに二割拡大し、外壁の完全修復と防雪壁の増設を前倒しで進めさせる」
「ははっ! 直ちに手配いたします!」
ヴェルナーが深々と一礼し、兵たちへ手際よく指示を飛ばす。
領地の防衛と内政の歯車が噛み合い、飢えと恐怖に支配されていた公館には、規律ある軍事拠点としての活気が満ちていた。
ノアは二つの鉛の木箱を自ら執務室の奥、地下の私室へと運ばせた。
室内に同席を許されたのは、リア一人だけである。
「リア、扉を二重に施錠しろ。これよりアスター・コアへの魔導鉱石統合演算を開始する。いかなる事態が発生しようと、室内に他者を立ち入らせるな」
「かしこまりました。ノア様が演算を終えられるまで、影一つ通しません」
リアが無表情のまま頷き、短剣を抜いて扉の前に背を向けて直立した。
ノアは作業机の上に置かれた鉛の木箱の封印を外した。
ギィ、と鈍い金属音を立てて蓋が開くと、中から眩いばかりの青白い燐光が溢れ出す。
室内の気温が、物理的な法則を無視して一気に氷点下へと急落する。
綿で厳重に包まれていたのは、大人の拳ほどの大きさをした、純度百パーセントの特殊氷晶石。
太古の超低温魔導が結晶化した遺産。
帝国が王国の外壁を一撃で破壊する決戦兵器【霧氷の巨神】の中核として喉から手が出るほど求めていた、極低温の触媒だ。
「不純物混入率、〇・〇二パーセント以下。……極めて高い結晶対称性を維持している」
ノアは両手を伸ばし、氷晶石を素手で包み込んだ。
皮膚が一瞬で凍傷を起こしかけるほどの超低温が襲いかかる。
だが、ノアの心臓――アスター・コアが、激しい共鳴音を立てて脈動を始めた。
ドクン、ドクン、ドクン……!
「アスター・コア、リミッター解除。……外部魔導核との統合プロトコルを開始」
ノアの瞳が完全な蒼氷の輝きへと染まり、全身の血管が青白く発光した。
特殊氷晶石が放つ極小の魔導粒子が、ノアの手のひらの皮膚組織を透過し、血液の循環に乗って胸元の核へと雪崩れ込んでいく。
パキパキパキ……!
ノアの全身の皮膚に、微細な氷の結晶模様が浮かび上がった。
絶対零度に近い冷気が体内を巡り、神経系を激しい熱量のような錯覚で焼き尽くそうとする。
常人であれば一瞬で細胞が凍結破砕され、絶命する負荷。
だが、ノアは痛覚のフィードバックを脳内で即座に数値化し、切断した。
「演算負荷、許容値の八十二パーセント。……魔力回路の拡張を継続」
冷徹な自己診断。
感情を一切排した精神が、暴れ狂う太古の魔導エネルギーを一本の狂いもなく調律していく。
アスター・コアの回転数が臨界点を突破し、圧縮された超低温魔力が核の中心へと完全に沈殿した。
カチリ。
頭蓋の奥で、何かが噛み合うような硬質な音が響いた。
発光が収まり、室内の気温が緩やかに平温へと戻っていく。
ノアの手の中にあった特殊氷晶石は、すべての魔導エネルギーを吸い尽くされ、ただの透明なガラス玉のような脆い鉱滓となって砂のように崩れ落ちた。
ノアは静かに目を開いた。
瞳の奥に宿る蒼い光は、以前よりも遥かに深奥で、研ぎ澄まされた静寂を湛えている。
「……統合完了。アスター・コアの最大魔力保有量、二・八倍へ拡張。魔導式の展開速度、四・二倍へ高速化。……観測精度および情報処理の並列化を確認」
ノアは軽く右手を握りしめた。
思考するだけで、大気中の熱エネルギーが自在に奪われ、掌の上にミクロ単位の均一な氷刃が音もなく結実する。
詠唱も、予備動作すら不要。
「ノア様……成功されたのですね」
気配の変貌を察知したリアが、振り返って深々と頭を垂れた。
「ああ。これより、北方戦線の主導権は完全にこちらの手中にある」
ノアは立ち上がり、机の上に広げられた領内地図へと視線を戻した。
「ヴェルナーを呼べ。領地復興の第二段階へ移行する」
数分後、執務室へ入ってきたヴェルナーは、ノアの纏う圧倒的な威圧感に気圧され、無意識に姿勢を正した。
「ノア様、お呼びでしょうか」
「ヴェルナー。領内の人口分布と、備蓄食糧の消費ペースを報告しろ」
「はっ! 現在、公館周辺および三つの集落を合わせ、領民の総数は約千四百名。ローゼンバーグ商会から搬入された小麦三千俵と、代官の備蓄庫から接収した干し肉・豆類を合わせれば、現在の労働対価型配給を維持した状態で、向こう四ヶ月――すなわち春の雪解けまで全員を飢えさせずに維持することが可能です!」
ヴェルナーの声には、確信に満ちた熱が籠もっていた。
かつて絶望の淵にあった領地が、たった数日で「確実に冬を越せる」という計算上の確証を手に入れたのだ。
「だが、ただ冬を耐え忍ぶだけでは足りん」
ノアの冷徹な一言が、ヴェルナーの熱気を引き締めた。
「春になれば、雪解けとともに帝国のアイゼンガルド要塞が王国内部へ侵攻を開始する。白鴉の記憶によれば、奴らはアスター領を侵攻の補給拠点として蹂躙する計画だった。……我々は冬の間に、このアスター領を難攻不落の要塞都市へと作り変える」
「要塞都市……!」
「そうだ。明日より、正規兵二十七名を中核とし、領民の中から志願者を募って百名規模の『防空・工兵部隊』を組織しろ。私が街道の岩盤と氷壁を魔導で硬化成形する。公館の周囲に高さ六メートルの複合防壁を構築する」
「なっ……! この厳冬期に、それほどの防壁を……?」
「手作業で行えば不可能だが、私の拡張された魔導を用いれば、氷と岩石を圧縮焼結させることで一日あたり五十メートルの防壁を成形できる。……計算上の工期は二十日だ」
常識外れの土木工学と魔導の融合。
ヴェルナーは息を呑み、そして武官としての血を沸き立たせて敬礼した。
「はっ! 全力を尽くし、領民を指揮いたします!」
ヴェルナーが退室した後、アッシュが執務室へ滑り込んできた。
「ノア様。王都のルナ様より、緊急暗号通信の受信が完了しました」
「読み上げろ」
「『金貨三千枚の配当、確かに受領いたしました。有能すぎる領主様に心からの賛辞を。……ですが、喜んでばかりはいられません。王都の貴族院において、前軍務卿の派閥を束ねていた「クロムウェル公爵」が、アスター領の統治権回復を不当とし、査察使の派遣を決定しました』……とのことです」
アッシュの報告に、リアの眉がわずかに寄った。
だが、ノアの表情には毛筋一本ほどの動揺もなかった。
「クロムウェル公爵か。帝国商館から巨額の賄賂を受け取っていた、王国中央の最大の腐敗源だな」
ノアは薄く冷酷な笑みを浮かべた。
「白鴉の記憶から、クロムウェルが帝国と交わしていた密約書の保管場所はすでに把握している。……王都からやってくる査察使など、手駒の補充に過ぎん」
吹雪が吹き荒れる極寒の執務室で、ノアは静かにペンを走らせた。
雪に閉ざされた領地を舞台に、復讐の盤面は王国中央の巨悪を呑み込むべく、次なる計算へと移行していた。
お読みいただきありがとうございます!
奪還した特殊氷晶石を取り込み、ついに【アスター・コア】の臨界突破を果たしたノア。
演算速度や魔力量が数倍へと跳ね上がり、その力を領地の要塞化・土木工事へと惜しみなく投入していきます。
食糧と資金の計算により領民1,400名の冬越しが確定した一方、王都からは前軍務卿派閥の親玉「クロムウェル公爵」が放った査察使が接近中。
白鴉の記憶から中央の汚職の証拠を握っているノアにとって、この査察使すらも次なる布石に過ぎません。
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