第73話 アッシュ班の合流と、白鴉追跡作戦
労働対価型配給制の布告から二日。
凍結していたアスター侯爵領は、目に見える速度でその血流を取り戻しつつあった。
公館前の広場は綺麗に除雪され、脆弱化された街道の氷盤は領民たちの手によって砕かれ、両脇へと整然と積み上げられている。
煙突からは暖かな薪の煙が幾筋も立ち上り、領民たちの顔にはわずかながらも生気が宿り始めていた。
ヴェルナーが再編した二十七名の正規兵が、槍を携えて街道の要所に立ち、不審者の侵入や作業の混乱を厳重に警戒している。
その平穏を破るように、南の雪煙の向こうから地鳴りのような蹄の音が響いてきた。
見張り台の正規兵が角笛を構えかけた瞬間、公館の正門へ滑り込んできたのは、黒塗りの重厚な四頭立て馬車だった。
車輪には特殊な防滑チェーンが巻かれ、車体全体には冷気遮断の魔導障壁がうっすらと青く展開されている。
ローゼンバーグ商会が誇る、極寒地突破仕様の特注高速馬車だ。
車輪が凍てついた雪を削り、激しい摩擦音とともに公館の前庭で停止した。
扉が開くと同時に、白銀の吹雪を切り裂いて八つの影が雪上へと滑り降りる。
全身を分厚い防寒毛皮と濃灰色の外套で覆い、無駄な息の乱れ一つなく周囲を索敵する少年少女たち――【夜鴉】第一班。
その先頭に立つ青年、アッシュがフードを払った。
頬は寒気で赤く強張っていたが、その眼光は研ぎ澄まされた刃のように鋭い。
練兵場で兵たちを指揮していたヴェルナーが、思わず息を呑んで足を止めた。
――な、なんだ、この子供たちは……。
――リア殿の部隊と同じく、十代半ばに見える。だが、この極寒の雪道を王都から不眠不休で踏破してきたというのに、一人として疲労の隙を見せていない……!
ヴェルナーが肌で感じた戦慄を気にする様子もなく、アッシュはまっすぐに歩みを進め、公館の玄関ホールから現れたノアの正面で片膝をついた。
「王都より参上いたしました、ノア様。……【夜鴉】第一班、八名。一名の脱落もなく、予定時刻より二十分早く到着いたしました」
「ご苦労だった、アッシュ。……移動行程における不確定要素の排除は完璧だったようだな」
ノアの淡々とした労いに、アッシュは薄く笑みを浮かべて頭を垂れた。
その背後から、リアが音もなく影から現れ、アッシュの肩を軽く叩いた。
「遅かったじゃない、アッシュ」
「途中の山道で雪崩が二箇所あった。障害物を物理的に排除しながら走らせたんだ、文句を言うな」
短く言葉を交わす二人。
王都裏社会の過酷な底辺をノアと共に生き抜いてきた二大班長の揃い踏みに、公館の空気が引き締まった。
「立ち話は無意味だ。執務室へ入れ」
ノアの指示により、一同は暖炉の焚かれた執務室へと移動した。
入室を許されたのは、ノア、アッシュ、リア、そして領内防衛の責任者であるヴェルナーの四名のみである。
部屋の中央に置かれた長机の上に、アッシュは抱えていた革張りの頑丈なトランクを置いた。
「ノア様、まずは王都での任務完了報告です。……例の高級煙草『金獅子の紫煙【K-409】』の流通ルートを洗い出しました」
アッシュがトランクの錠前を外し、分厚い帳簿の束を取り出した。
「王都の中央商館の裏帳簿を差し押さえ、卸元を徹底的に吐かせました。このシリアルナンバーの煙草を定期的に箱単位で購入していたのは、処刑された前軍務卿の腹心であった『オズワルド伯爵』の私設口座です」
「軍務卿の残党か」
ノアは帳簿の筆跡と取引記録を瞬時に眼球で走査した。
「はい。帳簿の裏書きと照合した結果、オズワルド伯爵は帝国商館の密貿易船を仲介し、北方のアスター領――すなわち代官ボルドーの元へ【白鴉】を派遣させていました。ボルドーがアスター領で違法採掘していた特殊氷晶石を白鴉が回収し、帝国のアイゼンガルド要塞へ横流しする見返りに、王都側へ巨額のキックバックを流し込む循環構造です」
「完璧な裏付けだな。……王都側のオズワルド伯爵はどう処理した」
「ご安心を。すべてルナ様へご報告し、証拠の帳簿を直接手渡しました。ルナ様は即座に貴族院の緊急監査部会を動かし、オズワルド伯爵の全資産口座を凍結、私邸を包囲させました。奴は今頃、地下牢で王室尋問官に絞り上げられているはずです」
ヴェルナーが横で震え上がっていた。
王都の大貴族が、わずか一日で経済的・政治的に抹殺されたのだ。
ノアの冷徹な知略と、それを支えるルナ・ローゼンバーグの圧倒的な財力・政治力。
この二人が手を組んでいるという事実の恐ろしさを、元近衛兵であるヴェルナーは骨の髄まで理解した。
「それから、ノア様」
アッシュはトランクの底から、青銀色に輝く上質な布包みと、密蝋で封印された一通の手紙を取り出した。
「ルナ様より、ノア様への追加物資と親書をお預かりしております」
リアが手紙を受け取り、封蠟を検分した上でノアへ手渡した。
ノアが手紙を開くと、そこにはルナの流麗で力強い筆跡が並んでいた。
『――親愛なる冷徹な領主様へ。王都のネズミは私の手で綺麗に片付けておきました。貴方が北の極寒地で領民を酷使し、どれほど冷淡に統治を進めているか、アッシュからの通信をとても楽しみに待っています。同封した外套は、ローゼンバーグ商会が極秘裏に開発した「耐寒魔導繊維」で仕立てさせた特注品です。風邪を引いて寝込まれては、私の投資が無駄になりますから。必ず羽織りなさい』
手紙を読み終えたノアは、青銀色の布包みを広げた。
現れたのは、漆黒の毛皮を襟元にあしらい、細身で機能的な仕立てが施された最高級の防寒外套だった。
表面には不可視の極薄魔導回路が編み込まれており、外気の冷気を完全に遮断しつつ、着用者の体温を一定に保つ自動熱循環機構が備わっている。
「……総重量一・二キログラム。従来の毛皮外套と比較して約四十パーセントの軽量化、および熱保持効率は二倍以上か。機動戦闘における運動阻害要因を最小限に抑えている。……合理的だな」
ノアは何の感傷も見せず、実用性のみを評価してその外套に腕を通した。
寸法はミリ単位の狂いもなくノアの体躯に合致しており、羽織った瞬間、体の芯へ穏やかな温もりが満ちていく。
傍らでその様子を見ていたリアの唇が、ほんのわずかに微かに緩んだが、ノアが視線を向けると即座に無表情へと戻った。
「さて。王都の憂患は排除された。……ここからは北方防諜戦の最終演算に入る」
ノアは長机の中央に、アスター領および北方国境地帯の詳細な地形図を広げた。
冷徹な瞳が、白銀の等高線を鋭く射抜く。
「議題は、代官公館から逃走した帝国の密偵【白鴉】――アルブレヒトの追跡および抹殺だ」
「白鴉……奴は代官の金庫から金貨一万枚と、特殊氷晶石の木箱を奪って逃走しています」
ヴェルナーが進み出て報告した。
「しかしノア様、公館が制圧されてからすでに二日半が経過しております。馬を使って北の国境を越え、帝国のアイゼンガルド要塞へ逃げ込まれていた場合、追跡は不可能では……」
「不可能ではない。むしろ、奴はまだ国境を越えられていない」
ノアの断言に、ヴェルナーが目を丸くした。
「な、なぜそう言い切れるのですか……?」
「単純な物理計算だ」
ノアは羽ペンの先で、地図上の公館をコツリと叩いた。
「第一に重量。金貨一万枚の総重量は約八十キログラム。さらに特殊氷晶石が詰まった防護木箱は、鉛の遮蔽板を含めて約四十キログラム。合わせて百二十キログラムの貨物だ。それに成人男性一人の体重と防寒装備が加われば、馬一頭あたりの総積載重量は二百キログラムを超える」
「……馬の最大可搬重量の限界点ですね」
アッシュが頷く。
「そうだ。第二に気象と地形条件。ここ二日間の降雪量は平均四十センチ、積雪深は吹き溜まりで一メートルを超える。傾斜十五度以上の雪山において、二百キログラムの荷を背負った馬の巡航速度は時速三キロメートル以下に激減する。馬を酷使すれば、三十キロメートル走破した時点で心不全を起こして斃死する」
「では、馬を乗り捨てて徒歩で逃げたのでは?」
「それはない」
ノアは即座に否定した。
「奴の任務は『特殊氷晶石の帝国への輸送』だ。鉱石を捨てれば密偵としての価値を失い、帝国軍から処刑される。そして百二十キロの荷を人間一人が背負って深雪を進むことは、魔導身体強化を用いたとしても物理的に不可能だ。……奴が生き延びる手段は一つしかない」
ノアの羽ペンの先が、公館から北西へ三十五キロメートル離れた山岳地帯の一点を指し示した。
険しい岩山に囲まれた、古い鉱山記号。
「荷を一時的に隠蔽し、吹雪が完全に収まるまで身を潜める中継拠点。……アスター領旧鉱山街、【旧第四氷晶坑道】だ」
「あっ……!」
ヴェルナーがハッと息を呑んだ。
「あそこは三十年前に落盤事故で放棄された廃鉱山です! 公館からの距離、積雪時の馬の限界航続距離と完全に一致します……!」
「さらに、アッシュが持ち帰ったオズワルド伯爵の裏帳簿にも符合する」
ノアは帳簿の最終ページを開いた。
「『北緯四七度、旧坑道奥の管理小屋にて補給物資を受領』との暗号記述がある。帝国軍の回収部隊が国境を越えて迎えに来る手筈だったのだろう。……奴は今、あの坑道の奥で、凍えながら帝国の迎えを待っている」
完璧な論理の包囲網。
逃亡から二日半の空白が、ノアの頭脳の中では一本の逃れられない軌跡として完全に再現されていた。
「リア、アッシュ」
「「はっ」」
「第二班より四名、第一班より四名、計八名の精鋭を選抜しろ。装備は寒冷地用隠密外套、短弓、および無音投擲刃。目標は白鴉の完全捕縛、および特殊氷晶石の全量奪還だ。抵抗した場合は四肢を破壊して生存を確保しろ。奴の記憶からは、アイゼンガルド要塞の防衛配置をすべて喰らう」
冷酷無比な宣告に、アッシュとリアの瞳に獰猛な光が宿った。
「ヴェルナー」
「は、はっ!」
「貴様は正規兵二十七名を率い、公館および領民の防衛に専念しろ。除雪と修繕の作業を止めるな。背後は貴様に任せる」
「……! ははっ! この命に代えましても、公館の石一つ、領民のパン一片たりとも侵させはいたしません!」
主君から背中を預けられた武官の誇りが、ヴェルナーの胸を激しく震わせた。
「出撃は今夜二十一時。吹雪の風音が最大となる刻限に、旧第四坑道を急襲する」
ノアはルナから贈られた青銀の外套を翻し、静かに立ち上がった。
「ネズミ狩りの時間だ」
お読みいただきありがとうございます。
王都よりアッシュ率いる第一班が合流し、ルナの手腕によって王都側の内通者(オズワルド伯爵)も迅速に失脚・排除されました。
ルナからの贈り物である特注防寒具の実用性を淡々と計算して羽織るノアと、それを静かに見つめるリアの空気感もお楽しみいただけていれば幸いです。
そして、逃亡した帝国の密偵【白鴉】に対し、積載重量や雪山の移動速度から物理計算で逃走限界点を割り出し、潜伏先を【旧第四氷晶坑道】へと絞り込んだノア。
領地防衛を忠臣ヴェルナーへ託し、いよいよ精鋭部隊による夜間強襲と「記憶喰い」が始まります。
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次回、第74話「旧第四坑道の急襲と、白鴉の尋問」もよろしくお願いいたします。




