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『記憶を喰らう暗殺者の冷徹な復讐劇』  作者: beck2026
第4章:【アスター領復興と、国境の防諜戦 編】

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第72話 旧正規兵の選抜と、労働対価の布告

吹雪が一時的に収まり、鉛色の雲の隙間から鈍い冬の陽光が差し込んでいた。


アスター侯爵公館前の大広場には、数百名に及ぶ領民たちが遠巻きに集まり、怯えたような視線を石造りの演壇へと向けていた。


彼らの頬はこけ、着古したぼろ布のような防寒着を固く抱き締めている。

五年間に及ぶ悪徳代官ボルドーの苛政と、この冬の異常な飢饉。

希望などとっくに摩耗しきった人々の瞳に宿るのは、ただ寒さと飢えに対する原初的な恐怖だけだった。


その沈黙を切り裂き、広場の中央へ巨大な鉄鍋が運び込まれた。

ゴト、と鈍い音を立てて雪の上に据えられた鍋の下に薪がくべられ、魔導火種によって一気に炎が立ち上がる。


ジュウ、と湯気が噴き出し、冷え切った大気の中に穀物と塩、乾燥肉が煮込まれる濃厚な匂いが急速に広がった。

群衆の中から、誰ともなくゴクリと喉を鳴らす音が漏れる。


だが、誰も前に出ようとはしない。

――また代官の気まぐれな罠ではないのか。

――一口食べれば、見返りに途方もない税を課されるのではないか。


疑心暗鬼が広場を支配する中、公館の階段を静かに下りてくる人影があった。

深い漆黒の外套を羽織ったノア・アスター。

その左右には、右脚の痛みを克服して軍靴を踏み鳴らすヴェルナーと、灰色の外套で全身の気配を殺したリアが控えていた。


ノアは演壇の中央に立つと、群衆を一瞥した。

慈悲や哀れみの色は欠片もない。

氷の結晶を思わせる冷徹な声が、凍りついた広場全体へ均等に通るように響き渡った。


「アスター侯爵家正統後継者、ノア・アスターである」


ざわり、と領民たちの間に動揺が走った。

かつて王都へ追放され、死んだと噂されていた若君。

だが、ノアは民の感傷に浸る時間を与えなかった。


「昨夜、不法に領地を占拠し専横を極めていた代官ボルドーおよびその私兵を全員拘束し、公館の地下牢へ収監した。……今この瞬間をもって、アスター領の統治権は完全に私の下へと復帰した」


驚愕の息を呑む領民たち。

しかし、次に出てくるであろう『救済の甘い言葉』を待つ彼らに対し、ノアが冷ややかに告げたのは、残酷なまでの現実だった。


「先に宣告しておく。私は貴様らに無償の慈悲を与える気はない。一粒の麦も、一杯の温水すら、ただで恵むことは断じてしない」


群衆が凍りついた。

絶望の色が、領民たちの顔に一気に広がる。やはり領主が変わったところで搾取されるだけなのだと、背を向けようとする者すらいた。


「だが――」


ノアの鋭い声が、去ろうとする民の足を縫い止めた。


「対価は絶対に支払う。この背後に積み上げられた小麦三千俵、および金貨一万枚は、すべて正当な労働に従事した者へ分配される」


ノアは広場の隅に積み上げられた、ローゼンバーグ商会の刻印が押された夥しい数の小麦俵を指し示した。


「公館の外壁補修、雪崩防止柵の設置、そして鉱山街道の除雪。日当として一人当たり小麦三升、薪五束。さらに、本日の除雪作業に名乗り出た者には、前払いとして今この場で熱い肉スープ一杯と乾パン二個を現物支給する」


明確な数字。曖昧さの一切ない契約条件。

それでも、五年の恐怖に縛られた領民たちは動けない。


その時、広場の前列にいた痩せ細った木こりの男が、震えながら声を絞り出した。


「ほ、本当なのか……? 働けば、本当にそのスープを食わせてくれるのか……? 後から法外な借金にされたりしねえのか……!」

「嘘をつくコストは、真実を告げるコストより常に高くつく。私の辞書に無駄な計算はない」


ノアは木こりの男に目を向けた。


「貴様が手にするスコップで、公館前の石畳を十メートル除雪しろ。完了の検分が済み次第、スープを渡す」


男は飢えに耐えかねたように雪を握り締めると、震える足で駆け出し、がむしゃらに雪を掻き始めた。

骨と皮ばかりの体で、必死に石畳の氷雪を払いのけていく。


数分後、十メートルの路面が露出した。

男は息を切らし、恐る恐るノアを見上げた。


「……検分完了。規定の作業量を満たしている」


ノアの合図で、給仕の兵が湯気の立つ木椀に並々とスープを注ぎ、大ぶりのパンを添えて男の手へ押し渡した。


男は両手で椀を包み込み、貪るようにスープを啜った。

熱い液体が喉を通った瞬間、男の目からボロボロと大粒の涙が零れ落ちた。


「う、美味い……! 熱い……! 本当に……本当にくれたぞ……!」


その叫びが、広場の空気を一変させた。


嘘ではない。働けば、確実に飯が食える。

奪われるだけだった世界が終わり、自らの手で命を繋ぎ止める権利が提示されたのだ。


「お、俺もやる! 雪かきならいくらでもやる!」

「私にも仕事をくれ! 子供たちにスープを飲ませてやりたいんだ!」


雪崩を打つように押し寄せる領民たち。

ノアは表情を崩さぬまま、背後のヴェルナーへ指示を出した。


「ヴェルナー、群衆を十人一組の班に編成しろ。混乱による踏み荒らしを防ぎ、割り当てた区域ごとに作業進捗を記録させろ」

「はっ! 直ちに!」


ヴェルナーが手慣れた号令で兵を動かし、群衆を整然とした列へと誘導していく。


ノアは演壇を降り、凍結して固まった街道の中央へと歩み出た。

人の力だけではツルハシすら弾き返す、厚さ三十センチを超える永久凍土のような氷層だ。


「効率が悪すぎる。……環境補正を実行する」


ノアは右手を雪面へと押し当てた。

心臓のアスター・コアが静かに律動し、絶対零度の極低温魔力が地表の氷分子へと浸透していく。


カチ、カチ、カチ……。


急激な局所冷却による微細な熱収縮。

氷の結晶構造が脆性破壊の限界点へと追い込まれ、街道全体を覆っていた分厚い氷盤に、目に見えない無数のマイクロクラック(微細亀裂)が走った。


バシィィィンッ!


甲高い音とともに、街道一面の氷がまるで砂糖菓子のようにボロボロと砕け散った。

ツルハシを振り下ろすまでもなく、木製のスコップで容易に掻き出せる砂利のような氷片へと変貌を遂げたのだ。


「なっ……!?」


作業を始めようとしていた領民たちが息を呑み、ノアを畏怖の眼差しで見つめた。


「街道の氷の結晶組織を脆弱化させた。作業効率は四倍に上昇するはずだ。日没までに公館から東の集落までの道を開通させろ」


淡々と言い捨て、ノアは公館の練兵場へと足を向けた。


――そこには、ヴェルナーが昨夜から領内を駆け巡って集めてきた、三十名の男たちが整列していた。


かつてアスター侯爵家に仕えていた旧正規兵たちだ。

鎧は錆びつき、衣服も擦り切れているが、その立ち姿には微かに軍人としての規律が残されていた。


だが、ノアの眼は誤魔化せない。

アスター・コアの超高速演算が、男たちの一挙手一投足を走査していく。

筋肉の弛緩度、呼気のアルコール臭、眼球の微細な揺らぎ、そして指先のタコ。


「……三十名か」


ノアの冷たい視線が男たちを射抜いた。


「ヴェルナー。貴様の選抜眼は悪くないが、三名が脱落だ」

「なっ……!?」


ヴェルナーが息を詰める。

ノアは無駄のない足取りで列の前を歩き、三人の男の前でピタリと止まった。


「貴様ら三人。一歩前へ出ろ」


指名された男たちが、顔色を変えて前に進み出た。


「貴様、右の手首に代官私兵が身につける鉄鋲の革腕輪を外したばかりの擦れ痕がある。……直近までボルドーの手先として同胞から略奪を働いていたな」

「ひ、人違いです! 俺は――」

「心拍数の急上昇、瞳孔の散大、および発汗。虚偽申告と判定する」


ノアは一瞥もくれず、隣の二人を指した。


「貴様は腰の刀帯に盗賊ギルド特有の結び目がある。五年間の間に野盗へ身を落とし、ヴェルナーの招集を隠れ蓑にして公館の略奪を狙っていたな。……そして貴様、極度の阿片中毒だ。指先の痙攣と結膜の充血から見て、兵力としての実用に耐えん」


冷徹に暴かれる過去の汚濁。

男たちが逆上し、隠し持っていた短剣を抜こうとした瞬間――。


ヒュッ。


影から滑り出したリアの投擲ナイフが、男たちの足元の石畳を正確に貫いた。

さらに、背後から音もなく現れた夜鴉第二班の短剣が、三人の喉元へミリ単位の狂いもなく突きつけられる。


「動くな。頸動脈を裂く」


リアの感情のない氷の刃に、三人は膝から崩れ落ちた。


「地下牢へ放り込め。……残る二十七名は、五年間で最低限の規律を保ち続けていたと認定する」


ノアの言葉に、残された兵士たちの背筋が雷に打たれたように伸びた。


「貴様らに正規兵としての身分を再付与する。任務は領内の治安維持、および除雪作業に従事する領民の警備だ。日当は銀貨三枚、および家族分の食糧を保障する」


兵士たちの瞳に、失われていた誇りの光が急速に宿っていく。


「ヴェルナー、武器庫の封印を解け。残存している槍と甲冑をこの二十七名に再配備し、直ちに防衛哨戒線を敷かせろ」

「はっ! ヴェルナー、命に代えましても!」


軍隊が、そして領地が、急速に鼓動を取り戻していく。


その時、執務室から戻ってきたリアが、ノアの耳元へ静かに囁いた。


「ノア様。王都のアッシュから緊急暗号通信です。『煙草のシリアルナンバーから、王都の購入元を特定。軍務卿の残党派閥と帝国商館が繋がっていた裏帳簿を押収した』とのことです。現在、第一班の八名を乗せた高速馬車が、予定通りアスター領へ向けて出発しました」


ノアは薄く口角を上げた。


「順調だな。……二日後、アッシュが到着した瞬間から、【白鴉】の本格的な追跡演算を開始する」


極寒のアスター領に、揺るぎない統治の楔が打ち込まれた。


お読みいただきありがとうございます。

無償のパンは依存を生む――甘い言葉を一切排し、「労働に対する確実な対価」を提示することで、凍りついていた領民たちの自尊心と生きる意志に火をつけたノア。

さらに魔導を用いた地盤の脆性破壊や、超高速演算による旧正規兵のスクリーニングなど、徹底したロジックで公館と軍備を立て直していきます。

そして、王都で煙草の手がかりから裏帳簿を押収したアッシュ率いる第一班も、アスター領へ向けて出発しました。

面白いと思っていただけたら、ブクマや★評価、いいねなどいただけますと執筆の大きな励みになります!

次回、第73話「アッシュ班の合流と、白鴉追跡作戦」もよろしくお願いいたします。

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