第70話 氷結の引導と、裏帳簿の押収
大広間に充満していた脂と安酒の臭いは、絶対零度の冷気によって瞬く間に凍結し、白く濁った呼気となって霧散した。
床一面に張られた極薄の氷面の上で、十数名の私兵たちが呻き声を上げている。
関節を凍らされ、武器を砕かれた男たちには、もはや立ち上がる力すら残されていなかった。
奥の上座でへたり込み、脂汗で顔を光らせているのは、悪徳代官ボルドーだ。
その男を見下ろすノアの双眸には、勝利の昂揚も、復讐の愉悦も宿っていない。
ただ、不純物を検分する冷徹な計算の光だけがあった。
「ひ、ひぃぃっ……! た、助けてくれ! 金だ、金ならやる! 王都の軍務卿様への上納金とは別に、俺が貯め込んだ隠し財産が――」
「黙れ。発声による空気の振動が不快だ」
ノアは一瞥もくれず、代官の首筋へと指先を近づけた。
チリチリと白い霜が皮膚を這い、男の肥えた首を凍てつく恐怖が締め上げる。
「体温を段階的に低下させ、神経の伝達速度を三割減衰させた。……五秒以内に答えろ。帳簿と隠し金庫の場所はどこだ」
「ひぃっ、暖炉だ! 奥の執務室の暖炉、左の三番目の煉瓦を押し込めば、地下への隠し扉が開く! 全部そこにある、全部だぁっ!」
恐怖のあまり失禁寸前で喚く代官から、ノアは静かに手を引いた。
「ヴェルナー」
「はっ!」
痛む足を引きずりながらも、直立不動で控えていた元近衛兵が応じた。
「この男と私兵どもを縛り上げ、地下牢へ収監しろ。……凍死させない程度に熱源を与えておけ。後で利用価値がある」
「承知いたしました、ノア様!」
ヴェルナーが手慣れた所作で私兵たちの帯を引きちぎり、縄代わりにボルドーを締め上げていく。
ノアは背を向け、大広間の奥にある執務室の重厚な樫の扉を押し開けた。
かつて父アスター侯爵が使っていた部屋だ。
壁には下品な金泥の装飾が施され、本来置かれていた由緒ある書架は乱暴に荒らされていたが、部屋の空気には奇妙な違和感が漂っていた。
ノアの足が、執務机の手前でぴたりと止まる。
「……なるほど」
机の上には、高価な銀器のティーカップが『二脚』置かれていた。
ノアは手袋を外し、カップの縁と、受け皿にわずかにこぼれた褐色の液体に触れた。
「表面張力、および茶渋の乾燥状態。……液体温度は室温と平衡状態にあるが、底部の沈殿物の凝固具合から逆算して、この茶が淹れられたのは約三時間前」
冷たい独白が、静まり返った部屋に落ちる。
「ボルドーは先ほどまで大広間で酒盛りをしていた。……つまり、今夜この部屋で、ボルドー以外の『もう一人』が高価な北方茶を口にしていた計算になる」
さらに視線を落とすと、卓上の灰皿に、吸い殻が一本だけ残されていた。
白い巻紙の端には、王都の貴族街でしか流通していない最高級煙草の金文字が刻印されている。
――王都の銘柄。だが、吸い殻の燃焼痕は新しい。
――吹雪の夜に、わざわざ王都の煙草を持ち歩く人間が、ボルドーと何を密談していたのか。
思考を一度保留し、ノアは暖炉へと歩み寄った。
左から三番目の煉瓦。
強く押し込むと、壁の奥で重厚な歯車が噛み合う音が響き、暖炉の奥壁が音もなく横へとスライドした。
現れたのは、下へと続く冷暗な石階段だった。
階段を下りた先は、外気温から完全に遮断された、防湿構造の地下金庫室だった。
部屋の壁際には、鉄の鋲で補強された木箱が二十箱以上、整然と積み上げられている。
ノアは掌から薄い氷の刃を生み出し、南京錠の金属組織を凍結させて脆弱化させると、鋭く叩き割った。
バキィンッ。
跳ね上がった蓋の隙間から、鈍い黄金の輝きが漏れ出る。
金貨、銀貨、そして魔導触媒となる貴石のインゴット。
だが、ノアの視線はその莫大な富を素通りし、一番奥の棚に厳重に収められていた五冊の分厚い羊皮紙のファイルへと向かった。
――五年分の徴税記録、および裏帳簿。
ノアは帳簿を引き抜き、机の上に並べた。
胸の奥、心臓と同化している【アスター・コア】が、微かな律動とともに励起する。
視覚から入力された数千行の数字の羅列が、頭蓋の中で極限の速度で演算処理されていく。
「……監査開始」
パラパラと音を立ててめくられるページ。
数字が頭の中で組み替えられ、収支のグラフが網膜の裏に立ち上がる。
――領民からの不当徴税総額:金貨八万四千枚。
――王都・軍務卿派閥への上納金:金貨五万枚。
――私兵の維持費および公館の遊興費:金貨約一万四千枚。
――金庫内の現存資産:金貨換算で一万枚。
そこで、ノアのめくる手が完全に静止した。
冷徹な黒曜石の瞳が、わずかに細められる。
「……数字が合わない」
八万四千枚から、上納金の五万枚、維持費の一万四千枚を引けば、手元に残るべき金額は『二万枚』だ。
だが、この金庫にある金貨と銀貨、宝石をすべて換算しても、一万枚分しか存在しない。
差額、きっかり金貨一万枚。
ボルドーのような強欲な男が、自分の手元に残るはずの純利益の半分を着服されて黙っているはずがない。
つまり、ボルドーの頭越しに、この領地から巨額の富を抜き取っていた『別の第三者』が存在する。
「さらに……これか」
ノアは帳簿の最終頁、革表紙の裏側の綴じ糸に目を留めた。
羊皮紙の繊維の隙間に、わずかな黒ずみがある。通常のインクではない。微弱な魔力を帯びた、熱や時間で揮発する特殊な魔導インクの痕跡だ。
「魔導炙り出し。……だが、熱による励起ではないな」
ノアは指先を紙面に触れさせた。
掌から放たれた極小の絶対零度の波動が、羊皮紙の温度を一気に氷点下へと引き下げる。
急激な冷却によって、繊維の中に閉じ込められていた魔導粒子が青白く結晶化し、見えないはずの文字列が冷たい光を放って浮き上がった。
『取引品目:高純度特殊氷晶石、年間三千カラット』
『仕向地:帝国北部方面軍、アイゼンガルド要塞兵站部』
『受領確認コード:【白鴉】』
「帝国への密輸……それも、正規軍の兵站部直通か」
父を罠に嵌めた軍務卿派閥の悪行だけにとどまらない。
敵国である帝国軍が、このアスター領の古代鉱山が産出する氷晶石を欲し、裏で手を引いていたのだ。
そして、その連絡役のコードネームが【白鴉】。
その時、地下金庫の階段から、鋭く規則正しい足音が響いた。
ヴェルナーの重い足音ではない。
体重を完全に殺し、床の軋みすら発生させない、熟練した暗殺者の歩調。
「――ノア様」
暗がりから音もなく姿を現したのは、灰色の外套を纏った少女、リアだった。
その背後には、ローゼンバーグ商会の荷押し役に偽装していた【夜鴉】第二班の精鋭七名が、完全に気配を消して控えている。
「リアか。公館の周囲は制圧したか」
「はい。外郭で待機していた輜重隊を率いて裏門および通用口を完全封鎖しました。代官の私兵三十四名、すべて無力化し地下牢へ移送完了。……怪我人のヴェルナーは、忠誠心は本物のようですが、念のため見張りをつけてあります」
感情を交えず、淡々と報告を述べるリア。
ノアの絶対の影として動く彼女の動きに、一切の無駄はなかった。
「それと、ノア様。報告すべき痕跡があります」
「言え」
「公館の北側、吹雪で視界の利かない裏門の雪の上に、一頭の馬が駆け抜けた新しい蹄の跡がありました。消えかけていましたが、門を出たのはノア様が正門から突入される三十分から一時間前。……帝国の軍馬特有の、幅広の蹄鉄です」
リアの報告が、執務机に残されていた『二脚の冷めた茶』『王都の高級煙草』、そして『消えた金貨一万枚』のパズルと、完璧に噛み合った。
「……逃げられたか。いや、最初からボルドーを切り捨てる算段だったな」
ノアは帳簿を閉じ、胸の内ポケットへと収めた。
ボルドーは自分が領地を支配していると思い込んでいたただの道化に過ぎなかった。
この公館には、帝国の密偵――【白鴉】が潜り込んでおり、王都での軍務卿失脚の報をいち早く掴んで、金貨一万枚と機密を持ち出し、北の国境へと姿を消したのだ。
「追うべきでしょうか?」
リアが腰の短剣に手をかけ、冷たい瞳で尋ねる。
「不要だ。この猛吹雪の中、馬を走らせて国境の山岳を越えるには最低でも三日はかかる。……それに、逃げた先がアイゼンガルド要塞であるなら、いずれこちらから出向くことになる」
ノアは地下金庫を歩き出し、階段へと足を向けた。
「優先すべきは領地の掌握だ。リア班は公館の防衛線を再構築しろ。ヴェルナーを呼び戻せ。……冬を越すための、冷徹な配分計算を始める」
「御意」
リアが深く頭を下げ、影のように闇の中へと散っていく。
手に入れた帳簿の裏に潜んでいた、帝国の影と謎の密談者。
領地奪還の歓喜など欠片もない。
氷の廃城の中で、ノア・アスターの復讐劇は、より巨大な謀略の渦へとその針路を切り替えていた。
お読みいただきありがとうございます。
公館を急襲し、悪徳代官ボルドーをあっさりと無力化したノア。
しかし、手に入れた裏帳簿の超高速監査によって「消えた金貨一万枚」と「帝国への密輸ルート」、そして直前まで潜んでいた謎の密談者【白鴉】の存在が浮かび上がりました。
王都の敵を排除したのも束の間、今度は国境の向こう――強大な帝国の影が立ちはだかります。
同行していたリア率いる夜鴉第二班も合流し、公館の掌握は完了。いよいよ本格的な領地復興と、ヴェルナーの登用試問が始まります。
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次回、第71話「忠臣ヴェルナーの審査と登用」もよろしくお願いいたします。




