第69話 白銀の廃城と、帰還の足音
王都を離れてから、馬車に揺られること七日。
視界を埋め尽くす色彩は、柔らかな新緑から次第に色を失い、やがて鋭利な白銀一色へと塗り替えられていた。
吹き付ける吹雪が、頑丈な防寒馬車の硝子窓を絶え間なく叩く。
車内には、ルナ・ローゼンバーグが手配した最高級の熱魔導蓄熱器が据えられており、肌を刺すような冷気は遮断されていた。
だが、窓の向こうに広がる景色は、ノアの記憶にある五年前の温もりを完全に失っていた。
「……ひどい有様だな」
膝の上に置いたアスター侯爵家の領地台帳から視線を上げ、ノアは低く呟いた。
眼下に広がるのは、旧アスター領の主都シルフェルト。
かつて父が治めていた頃は、鉱山から湧き出る古代炉の廃熱を利用した融雪路が張り巡らされ、雪国でありながら人々の活気と湯気に満ちた街だった。
しかし今、ノアの瞳に映るのは、屋根の雪下ろしすら放置されて半壊した家屋と、人影の絶えた凍てつく路地ばかりだ。
煙突から立ち上る煙はまばらで、路地を行き交う数少ない領民たちは、擦り切れたボロ布を幾重にも巻きつけ、亡霊のように背を丸めて歩いている。
胸の奥、心臓と同化している【アスター・コア】が、微かな共振音を鳴らした。
怒りではない。
ただ、提示された冷徹な現実に対し、必要な計算式を組み立てるための律動だった。
――人口は推定で全盛期の三分の一まで激減。
――暖房用魔導ラインの九割が機能停止。
――五年間の軍務卿派閥による搾取と横領。残された負債の総額を推計中。
思考の波を静かに収束させながら、ノアは馬車の前窓を軽く叩いた。
「止めてくれ。ここからは歩く」
「は、はい! しかしノア様、公館の周囲にはまだ旧代官の私兵どもが……」
御者を務めるローゼンバーグ家の従者が青ざめた顔で振り返るが、ノアは手元を軽く制した。
「問題ない。お前は物資を満載した輜重車とともに、街の外郭で待機していろ。……狼煙が上がったら入ってくるといい」
馬車の扉を開けると、氷点下の風が一気に車内へと雪崩のように雪片を吹き込んできた。
灰色の厚手の手織り外套のフードを深く被り、ノアは白銀の雪原へと足を踏み下ろした。
軋む雪の音だけが、静まり返った山道に響く。
目指す先は、山裾の丘の上にそびえる旧アスター侯爵邸――白銀の巨城だ。
かつては白亜の美しさを誇ったその公館は、今や外壁の各所が黒ずみ、防壁の魔導灯はことごとく叩き割られていた。
王都で軍務卿アルブレヒトと特務枢機卿ザカリーが公開処刑され、アスター家の冤罪が雪冤されたという凶報は、この辺境の地にまではまだ届いていないらしい。
公館の巨大な鉄門は無造作に開け放たれ、中からは下品な笑い声と、肉を焼く油煙の臭いが漏れ出ていた。
「おいおい、もっと酒を持ってこい! 王都の旦那様方から今月分の『上納金』の催促が来る前に、蔵の酒を飲み干しちまうぞ!」
「へへっ、代官様、アスターの小僧が王都で死んだって話は本当なんですかね?」
「知るかよ! どのみち五年も前の逆賊のガキだ、野垂れ死んでるに決まってらあ! この領地はもう俺たちの私有地みたいなもんよ!」
大広間から響く下卑た嬌声。
ノアは音もなく足音を消し、積もった雪を踏み荒らしながら公館の前庭へと進入した。
その視界の端で、鈍い打撃音と、雪を散らす苦悶の呻きが響いた。
「ぐっ……、がはっ……!」
「おいおい、まだ生きてやがったのかよ、この野良犬が」
中庭の片隅、吹きさらしの雪溜まりの中。
革鎧に身を包んだ私兵二人が、一人の男を雪の中に組み敷き、容赦なく鉄鋲のついたブーツで蹴りつけていた。
踏み躙られている男の躰は、酷いものだった。
擦り切れた旧アスター家の近衛正規兵の外套を纏っているが、その布地は血と泥で黒く汚れ、右足は不自然に折れ曲がっている。
年齢は二十代半ば。削げ落ちた頬と荒れた肌が、五年間の飢餓と過酷な境遇を物語っていた。
「ヴェルナー、だったか? お前も往生際が悪いねえ。領民どもが隠してた穀物のありかを吐きゃあ、温かいスープの一杯くらい恵んでやるって言ってるのによォ!」
「……断る、と……言ったはずだ……」
男――ヴェルナーは、口から血の混じった唾を雪の上に吐き捨て、腫れ上がった右目で私兵を睨み据えた。その瞳の奥には、消え残った熾火のような光が宿っていた。
「あの穀物は……領民が冬を越すための……最後の種籾だ……。貴様らのような……盗賊崩れに渡すものなど……一粒たりとも……ない……!」
「へっ、口だけは達者だなあ! アスター家が滅びて五年、てめえの敬愛する当主様も若君も骨になっちまったってのに、いつまで番犬気取ってやがる!」
私兵の一人が腰の長剣を抜き放ち、ぎらりと冷酷な切っ先をヴェルナーの喉元へと突きつけた。
「死に損ないめ。領民のガキどもの前で見せしめに首を跳ねてやるよ」
振り上げられる白刃。
ヴェルナーは唇を噛み締め、屈辱に震えながらも、決して命乞いすることなく冷たい空を睨みつけた。
その刃が振り下ろされる寸前――。
「――質量、約三・二キログラム。初速、秒速四メートル」
冷徹で、抑揚の一切ない少年の声が、吹雪を裂いて響いた。
「運動エネルギーの減衰率を考慮すれば、制動に必要な冷気熱量は極めて僅かだ」
「あ……?」
私兵が怪訝な声を漏らした瞬間、世界が音を失った。
パキィィィンッ!
甲高い硬質な炸裂音。
振り下ろされようとしていた長剣の刀身が、柄の根元から突如として真っ白に凍りつき、まるで薄氷のように粉々に砕け散った。
無数の氷の破片が、雪原にきらきらと散華する。
「なっ……!? な、なんだぁっ!?」
「右腕、尺骨および橈骨の神経伝達を遮断。……絶対零度への局所減速」
私兵が振り返る間すらなかった。
雪煙を裂いて歩み出てきた灰色の外套の少年が、指先をわずかに払う。
不可視の冷気波動が空気を凍らせながら走り、抜剣していた私兵の右腕を一瞬で蒼白の氷柱へと変えた。
遅れて、激痛の叫びが上がる。
「ぎゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!? う、腕が、俺の腕がぁぁぁっ!?」
「貴様、何者だぁっ!」
もう一人の私兵が血相を変えて腰の戦斧に手を伸ばすが、ノアはすでにその間合いの内側に踏み込んでいた。
感情のない黒曜石の瞳。
ノアの小さな手のひらが、私兵の胸当ての中央にそっと触れる。
「衝撃波の浸透。凍結による金属疲労を誘発」
ドンッ、と低く重い破裂音。
分厚い鉄の胸当てが一瞬で霜に覆われ、次の瞬間には蜘蛛の巣状の亀裂が走って粉々に爆散した。
衝撃をモロに受けた私兵の巨体が、糸の切れた人形のように五メートル以上吹き飛び、公館の外壁に激突して白目を剥いて昏倒した。
わずか二秒。
中庭を支配していた暴力は、完全な絶対零度の静寂によって塗り替えられていた。
「ひ、ぎっ……あ、足が……」
右腕を凍らされた私兵が、雪の上にへたり込み、恐怖に震えながら後ずさる。
ノアは見向きもせず、足元に倒れ伏していた男――ヴェルナーの前へと歩み寄った。
「……が、あ……? お前……坊主、お前は……」
泥と血にまみれたヴェルナーが、呆然とノアを見上げる。
その視線が、ノアが外套の胸元から取り出し、無造作に掲げた一枚の羊皮紙に吸い寄せられた。
王室直筆の黄金の封蝋。
刻まれているのは、五年間封印されていた【アスター侯爵家】の正統な家紋と、国王の署名だった。
「アスター侯爵家の全冤罪は王都にて晴らされ、すべての所領、財産、統治権は正統なる後継者へと返還された」
ノアは静かにフードを脱ぎ捨てた。
冷たい吹雪に揺れる黒髪と、底知れぬ静謐を湛えた冷徹な双眸。
五年前、父アスター卿の背中の後ろに隠れていた幼き面影が、研ぎ澄まされた刃のような鋭さを纏ってそこに立っていた。
「わ、若君……? ノア……様……? 本当に……若君なのですか……!?」
ヴェルナーの乾いた瞳から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出し、血で汚れた頬を伝って雪を濡らした。
男は折れた足をものともせず、雪の中に額を擦り付けるようにして、全身を震わせて平伏した。
「生きて……生きておられた……! アスター卿の血筋は、まだ絶えていなかった……! う、うわぁぁぁぁっ……!」
慟哭する旧臣。
だが、ノアの表情は一切崩れなかった。
慰めの言葉も、感動の抱擁も差し伸べない。ただ、冷厳な声で問いかけた。
「立て、ヴェルナー。泣くのは後だ」
「は、はいっ……!」
「お前の傷、右足の骨折、肋骨二本のヒビ、内臓の軽微な出血を確認した。……生存確率は九割以上。職務の遂行に重大な支障はないな?」
「め、滅相もございません……! この命、アスター家のために捧げると誓った身……骨の一本や二本、屁でもございません……!」
ノアは小さく息を吐き、ポケットからルナから預かっていた高純度の治癒軟膏をヴェルナーの胸元へ放り投げた。
「傷に塗れ。痛みは三秒で引く」
「はっ……感謝いたします……!」
「お前に最初の任務を与える」
ノアの冷たい視線が、騒ぎを聞きつけて公館の玄関から慌てふためいて出てきた、でっぷりと太った悪徳代官とその取り巻きたちへと向けられた。
「この公館を不法占拠していた害虫どもを地下牢へ収監する。その後、直ちに五年分の横領金、隠匿された食糧、および帝国への密輸帳簿の全目録を作成しろ」
「――ッ! 御意にございます、ノア様!」
ヴェルナーが立ち上がる。その顔からは先ほどまでの絶望と苦痛の色は消え失せ、主君を得た狂犬のような獰猛な光が宿っていた。
ノアは凍結した大地を踏みしめ、騒ぎ立てる代官たちに向かって、静かに氷の刃を掌に生み出した。
「精算を始めよう。……僕の領地から、奪われたすべてを取り戻す」
白銀の廃城に、復讐者の帰還を告げる冷徹な足音が、高く響き渡った。
お読みいただきありがとうございます。
ここから新章【第4章:アスター領復興と、国境の防諜戦 編】が開幕となります。
王都での冤罪を晴らし、ついに故郷であるアスター領へと帰還したノア。
しかし、五年の歳月がもたらした傷跡は深く、領地は荒れ果て、かつての忠臣たちも過酷な境遇に追いやられていました。
感動の再会……かと思いきや、泣き崩れる元近衛兵ヴェルナーに対しても、ノアは一切の容赦なく「生存確率」と「任務」を突きつけるいつもの冷徹ぶりです。
奪われたすべてを取り戻すための、合理的で容赦のない領地再建と粛清がここから始まります。
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次回、第70話「氷結の引導と、裏帳簿の押収」もよろしくお願いいたします。




