【第67話:「大聖堂の落日と、冷気の密談室」】
白亜の大聖堂、その最深部に位置する特務枢機卿ザカリーの密談室。
吹き込む風もない完全な密室であるはずの空間で、燭台の灯火が不穏に揺らめいていた。
豪奢な絨毯が敷かれた大理石の床面から、じわりと這い寄るような、耐え難い極冷の気配が立ち昇ってくる。
「……ギルバートはどうした!? 中枢炉の掌握はどうなっているのだ!」
ザカリーは執務机を激しく叩き、通信用の魔導球へ怒号を浴びせた。
だが、返ってくるのは冷え切った空気が擦れ合うような、不気味なノイズだけだった。
数分前、王都地下水路の全域を走る魔導ラインの波長が突如として跳ね上がり、教会の通信網がことごとく遮断された。
それと同時に、筆頭処刑執行官ギルバートを含む十六名の手練れからの魔力反応が、まるで最初から存在しなかったかのように一瞬で消失したのだ。
「ええい、使えん無能どもめが……! ギルバートだけでなく、外の番兵まで沈められたというのか……!?」
老人は舌打ちし、壁面に隠された秘密脱出用の古代鉄扉へと駆け寄った。
大聖堂の外周、教会が秘密裏に保有する隠れ家へと直通する極秘の抜け道。
ザカリーが真鍮の鍵を差し込み、力任せにノブを回そうとした――その時。
ギィィィ……パキンッ!
甲高い金属音が響き、鍵が根元から真っ二つにへし折れた。
見れば、鍵穴の奥から微小な氷結晶が吹き出し、厚さ十センチの古代鉄扉そのものが壁面ごと青白い霜に覆われて凍結固着していた。
「な……扉が、凍りついている……!? 馬鹿な、扉の鍵は閉ざされていたはずだ。部屋の結界が破られた警報すら鳴っていないのだぞ――」
「退路の探索は、無駄な計算だ」
背後から、静かな、あまりにも整然とした少年の声が響いた。
ザカリーの全身の毛穴が、恐怖で一斉に開いた。
老人が戦慄しながら振り返ると、密談室の中央、大理石の床に刻まれていた換気用の魔導溝から、青白い冷気の霧が音もなく吹き上がっていた。
霧を割って姿を現したのは、濡れ羽色の黒髪を揺らした、漆黒の外套の少年。
その左胸の奥では、神々しくも冷徹な燐光を放つ【アスター・コア】が、大聖堂の真下の地脈と完全に同調して脈動していた。
「き……貴様、どこから入ってきた!? 誰の差し金だ!」
「中枢炉を経由した。王都の地下水路は、いま僕の管理下にある」
ノアは一歩、また一歩と、冷え切った大理石の床を踏みしめて前進した。
少年が歩くたびに、部屋の壁に掛けられた歴代教皇の肖像画がピシピシと音を立てて凍りついていく。
「ギルバートなら、父上の炉の前で砕け散ったよ」
「ぎ……ギルバートが……? バカな……! あ奴は教会の筆頭処刑人だぞ!? 子供ごときに始末できるはずが――」
「子供ではない。……アスターだ」
ノアの瞳の奥で、幾何学の演算陣が青く輝いた。
「五年ぶりだな、ザカリー枢機卿。……偽造告発状の作成、旧鉱山の強奪指示、そして古代炉への不法アクセス。すべての負債を、回収しに来た」
「アスター……!? あの病弱な、死に損ないの小僧だと……!?」
五年前、父アスター卿の処刑の裏で、確かにその存在を把握していたはずの幼い病弱な子供。
それが、なぜ教会の精鋭をことごとく屠り、死神のような威圧感を放って目の前に立っているのか。
ザカリーの脳内で、築き上げてきた権力と常識が音を立てて崩壊していった。
「お、のれ……! 神聖なる我が聖域を汚し、神の代弁者たるこの私を脅迫するかァッ!」
老人は狂乱した目で叫び、懐から禍々しい赤紫色の宝珠を取り出した。
教会の禁忌指定遺物――【深紅の聖遺核】。
使用者の生命力と引き換えに、周囲百メートルの全生命の魔力を強制還元し、無差別に消滅させる自爆型の広域浄化兵器。
「死ねッ! アスターの亡霊が! 神の御前で灰燼へと還るがいい!!」
ザカリーの指先が、聖遺核の起動符へ触れようとした。
放たれる熱量、膨張する破滅の魔力。
――だが。
「起動シークエンス、三点八秒。魔力収束の冗長率、四十二パーセント」
ノアは、まばたき一つしなかった。
「……僕の零度なら、零点零五秒で足りる」
パチン。
ノアが右手の指を軽く鳴らした。
キィィィィン――!!
密談室の空間そのものが凍りつくような、超極低温の衝撃波が一直線に奔った。
ザカリーが持っていた【深紅の聖遺核】は、魔力を解放する隙すら与えられず、表面の術式回路ごと青白く凍結。
その冷気は一瞬で老人の右腕へと駆け上がり、皮膚、筋肉、血管、骨に至るまでを瞬時にガラス化させた。
「ぎゃ……あ……がァッ!?」
カラン……パリンッ!
凍結した聖遺核が、感覚を失った指先から床へ零れ落ち、粉々に砕け散った。
右腕全体を真っ白な氷の塊に変えられたザカリーは、激痛と冷気のショックで床へと崩れ落ち、無様に転がり回った。
「ひ……ヒィィッ……! う、腕が……私の腕がァァッ!!」
「神経を凍結させた。出血死はしない。……まだ、意識を失ってもらっては困る」
ノアは冷徹に見下ろしながら、執務机の前へと歩み寄った。
引き出しに施されていた三重の対魔導ロックを、氷のメスで豆腐のように切り裂く。
中から引き出されたのは、血塗られた封蝋が押された数通の羊皮紙、そして――帝国直通の古代通信結晶盤。
「……照合」
ノアの指先が結晶盤に触れる。
「帝国宰相府との暗号交信記録、計四十八件。五年前のアスター領襲撃における帝国軍事顧問の派遣契約書原本。……そして、王都地下中枢炉を帝国へ引き渡す見返りとしての、次期教皇推挙の密約」
「な……なぜ貴様が、その暗号を解読できる……ッ!?」
床に這いつくばるザカリーが、恐怖に顔を引きつらせた。
教会の闇、神を売って帝国と結託していた絶対の裏切りが、少年の冷たい瞳によって完全に解読されていた。
「これでお前の神聖性も、教会の治外法権も消滅した。……あとは、逃げ場のない決算だけだ」
ノアが淡々と告げた、まさにその時。
ドォォォォンッ!
密談室の正面大扉が、外側からの強烈な魔導衝撃波によって吹き飛ばされた。
「ごきげんよう、教会の最高権力者様。動かないでいただけますかしら?」
煙の立ち込める入口から響いたのは、凛然たる鈴の音のような美声。
抜剣した王都近衛騎士団と監査部の特務兵を従え、深紅のストールを翻して入ってきたのは、紫紺の瞳を冷ややかに研ぎ澄ませたルナ・ローゼンバーグだった。
「ル、ルナ・ローゼンバーグ……貴様、聖域たる大聖堂に兵を率いて乱入するなど……!」
「聖域? 笑わせないでいただきたいですわね」
ルナは優雅に歩み寄り、手にした貴族院の緊急査察令状をザカリーの顔先へと投げ捨てた。
「国家反逆および敵国通謀の容疑で、貴族院監査部ならびに近衛騎士団による強制捜査が可決されましたわ。……大聖堂を取り囲んでいた教会の私兵どもは、すでに武装解除させました。貴方に味方する神など、この王都のどこにもおりませんの」
ルナの冷たい宣告。
地上の権力を完全に掌握した少女と、地下の退路をすべて凍結させた少年。
二人の完全な包囲網の前に、ザカリー枢機卿はもはや一言の言い逃れもできず、絶望に顔面を蒼白にして震えることしかできなかった。
「……ノア。地下の掃除、ご苦労様でしたわ」
ルナがノアへ視線を向け、柔らかく、しかしどこか酷薄な笑みを向けた。
「地上は片付きました。……この老いぼれの処分、どうなさいます?」
ノアは手にした帝国の密約書を懐に収めると、床のザカリーを一瞥した。
「公爵家の牢で、帝国の全容をすべて吐かせる。……そして、アスターの名のもとに、公開処刑台へ送る」
十歳の少年の冷たい声が、大聖堂の闇の底に静かに響き渡った。
父を陥れた二大元凶――軍部と教会の断罪が、いま完全に完了したのだ。
いつもお読みいただき、本当にありがとうございます!
第3章クライマックス、教会の特務枢機卿ザカリーへの決算を描いた第67話でした。
自爆型の聖遺物を起動する隙すら与えず、0.05秒の絶対零度で腕ごと凍結粉砕するノアと、地上から堂々と踏み込んで退路を塞いだルナ様。二人の連携によって、五年前の濡れ衣の主犯格を完全に追い詰めることができました。
軍部と教会という王都の二大巨悪を断罪し、物語はいよいよ背後に潜む「帝国」との決戦へ向けて動き出します。
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