【第65話:「大聖堂の深奥と、澱みの地下暗渠」】
王都の東地区、雲を突くようにそびえ立つ白亜の大聖堂。
ステンドグラスから差し込む神聖な陽光が礼拝堂の白大理石を照らす表舞台とは裏腹に、その真下――地下数十メートルの深奥には、外光の届かない漆黒の密談室が存在していた。
燭台の揺らめく灯火に照らし出されたその部屋で、豪奢な白銀と深紅の法衣に身を包んだ老人が、冷めた紅茶に口をつけていた。
光の教会・特務枢機卿――ザカリー。
深い皺の刻まれた顔、骨張った指先。
だが、その窪んだ双眸には、神に仕える聖職者のものとは到底思えない、冷酷にして底知れぬ狂気が淀んでいた。
「……軍務卿アルブレヒトが投獄されたか」
ザカリーの前に跪く黒衣の異端審問官へ、老人は感情の起伏を一切感じさせない低い声で問いかけた。
「はっ。貴族院大評議会にて、ローゼンバーグ公爵家の令嬢ルナによって完全な物的証拠を突きつけられ、即時失脚いたしました。……公爵邸へ差し向けた我が審問特務部隊も、誰一人として帰還しておりません」
「そうか。……壊れた玩具が、ゴミ箱に放り込まれただけの話だな」
ザカリーは眉一つ動かさず、乾いた笑みを漏らした。
長年にわたり軍部の権力と予算を教会へ横流しさせてきた盟友の失脚を、老人はただの消耗品の損耗として片付けていた。
「所詮はただの軍人気取りの豚よ。ローゼンバーグの小娘ごときに外堀を埋められる無能など、これ以上生かしておく価値もない。……重要なのは、王都の地下だ」
ザカリーは立ち上がり、壁面に掛けられた王都の詳細な古地図へと視線を向けた。
そこには、王都の地下水路のさらに深層を走る、蜘蛛の巣のような古代魔導ラインが赤インクで記されていた。
「五年前、旧アスター領の鉱山を狙ったのも、すべてはこの古代魔導ラインを完全に再起動するための予備動力源に過ぎなかった。……軍務省の看板が外れた以上、悠長な手続きは不要だ。地下水路に潜伏中の審問部隊に命じろ。古代中枢炉への侵入を急ぎ、王都の全魔導循環を教会の掌握下に置くのだ」
「御意に。……しかし枢機卿閣下、ローゼンバーグ公爵家が教会の特権にまで査察のメスを入れようと動いております。もし地下の計画を嗅ぎつけられれば――」
「神の御前に、地上の法など何の意味も持たん」
ザカリーの目が、底冷えのする光を帯びて細められた。
「教会に仇なす者はすべて異端。……小娘が嗅ぎ回るというのなら、その魂ごと地下の闇に沈めてしまえばよい。神は、愚者を赦しはせぬよ」
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同じ頃、王都貴族街――ローゼンバーグ公爵邸・当主執務室。
机の上には、軍務卿アルブレヒトの邸宅および執務室から差し押さえられた、膨大な極秘機密書類が積み上げられていた。
窓辺のソファーに腰掛け、羊皮紙の一枚を瞳の奥の幾何学陣でスキャンしていたノアは、淡々と視線を上げた。
「……照合完了。五年前、アスター領に対する『国家反逆の偽造告発状』――軍務省へそれを持ち込み、王都警備隊の救援を物理的に封殺するよう指示したのは、光の教会・特務枢機卿ザカリーの直筆コードだ」
「やはり、あの生臭坊主でしたのね」
執務机で羽ペンを走らせていたルナが、酷薄な冷笑を唇に浮かべた。
豪奢なドレスの袖を払い、紫紺の瞳を細める。
「軍務卿の失脚で、王都の貴族連中は完全にローゼンバーグ公爵家の威光に平伏しておりますわ。……ですが、教会だけは別。彼らは神の権威と民衆の狂信を盾に、治外法権の城塞に閉じこもっておりますの。表の法で叩こうとすれば、民衆暴動を煽りかねませんわね」
「表の法で裁く必要はない」
ノアは静かに立ち上がった。
漆黒の外套が、少年の小柄な背中で衣擦れの音を立てる。
「法が届かない場所なら、暗殺者の領域だ。……教会の狙いは王都の地下水路、旧迷宮層にある古代魔導ラインの中枢炉だな」
「ええ。アルブレヒトの隠し金庫から、王都の古代水利工学図面が押収されましたわ。教会は軍務省の予算を使い、地下深くで極秘の発掘作業を進めていたようです。……あそこには、五年前にお父様が封印された『王都の魔導心臓』が眠っているのでしょう?」
「ああ。父上がかつて遺した防衛機構の一つだ。……ネズミどもに触れさせるわけにはいかない」
ノアの言葉に、ルナは満足そうに微笑み、一通の羊皮紙を机に置いた。
「地上は私が抑えますわ。教会の免税特権と不法な特務兵力について、貴族院監査部を通じて徹底的に締め上げ、ザカリーの身動きを封じて差し上げます。……ですからノア」
ルナが席を立ち、ノアの眼前に歩み寄る。
至近距離で交錯する、紫紺と漆黒の瞳。
「地下に巣食う汚らわしい害虫どもは、貴方の手で一匹残らず凍りつかせていらっしゃいな」
「了解した。……根こそぎ清算してくる」
ノアは短く告げると、音もなく執務室の窓から夜の闇へと身を躍らせた。
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王都の繁華街から遠く離れた旧下水道区画。
鉄格子の嵌められた排水口の奥、腐敗した澱みの臭気と、重苦しい魔力ガスが立ち込める地下暗渠へ、ノアは単身で足を踏み入れていた。
足元には、黒ずんだ汚水が膝下まで流れている。
だが、ノアが一歩を踏み出すたびに、汚水の表面には極小の氷板が張られ、泥水も飛沫も少年のブーツを一滴たりとも汚すことはない。
(……脈拍、毎分五十五で安定。体温、三十六度二分。魔力循環、全損耗率ゼロ)
ノアは自らの左胸にそっと手を当てた。
以前であれば、有毒な魔力ガスが充満するような閉鎖空間に数分身を置くだけで、先天性の器官不全が悲鳴を上げ、激しい喀血と不整脈に苛まれていたはずだった。
だが、いま胸の奥で脈動しているのは、至宝【星霊石】と完全に一体化した【アスター・コア】。
呼吸をするだけで、大気中の不純な魔力は絶対零度の冷気によって瞬時に浄化され、純粋な生体エネルギーへと変換されて全身の血管を駆け巡る。
疲れも、痛みも、息切れすらも存在しない。
世界から疎まれ、借り物の命で繋ぎ止めていた虚弱な少年は、いまや完全無欠の『絶対零度の生体兵器』として完成していた。
「……広域冷気探査、展開」
ノアが右手の指先を、冷たい地下暗渠の石壁へと軽く触れさせた。
――キィィィィン……。
目に見えない極微小の冷気パルスが、湿った大気と水流を媒介にして、地下迷宮の全方位へと蜘蛛の巣のように張り巡らされていく。
三秒。
わずか三秒の演算で、半径五百メートル以内の反響ログが、ノアの脳内に立体地図として構築された。
(……前方三百二十メートル、合流地点の大空洞。生体反応、計八名。全員が高純度の光属性魔力循環を保持。――教会の異端審問官小隊だな)
ノアの瞳の奥で、冷徹な幾何学模様が回転を速めた。
少年は水たまりを音もなく滑るように、漆黒の回廊の奥へと影のように加速した。
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地下暗渠の深奥、ドーム状に広がる巨大な排水貯水槽。
古代の石組みが剥き出しになった壁面には、複数の魔導採掘機が設置され、青白い火花を散らしながら分厚い防護隔壁を削り取っていた。
「急げ! 魔導隔壁の第十層まであと少しだ! 夜明けまでに古代ラインの第一接続口を開放しろ!」
白銀の法衣の上に鎖帷子を纏った審問小隊長が、松明を掲げて部下たちを怒鳴りつけていた。
部下たちは光の加護を帯びた魔導ノミを壁面に打ち込み、必死に作業を続けている。
「隊長! 王都警備隊の巡回はどうなっておりますか? 軍務省の連絡員が途絶えてから、すでに半日が――」
「怯むな! ここは教会の絶対聖域だ! たとえ警備隊が来ようと、異端の罪を被せて地下の肥やしにしてしまえばよい! 神の御業を成し遂げる我らに、何者の裁きも届かんのだ!」
小隊長が狂信的な高笑いを上げた、その時だった。
――ポタ……リ。
天井から滴り落ちる水滴の音が、不意に途切れた。
洞窟内の湿度が、急激に奪われていく。
吐き出す息が、見る見るうちに真っ白な霧へと変わった。
「な……んだ? 急に冷えて――」
作業員の一人が首をかしげた瞬間。
カチリ。
作業員の手の中で激しく回転していた魔導採掘機が、突如として動きを止めた。
内部の潤滑油も、稼働熱を帯びていた魔導回路も、一瞬にして完全に凍結停止したのだ。
「ひ、火花が……止まった!? 装置が凍りついて――」
「誰だッ!?」
小隊長が剣を抜き、暗渠の闇へ向けて吼えた。
淀んだ水面を割って、静かな足音が近づいてくる。
水しぶきの音すら立てず、黒い外套を翻して歩み出てきたのは、十歳ほどの小柄な影。
薄暗い松明の光が照らし出したのは、青白い燐光を放つ二振りの氷晶短剣を提げた、漆黒の少年だった。
「こ、子供……!? 貴様、どこから紛れ込んだ!?」
「生体反応、八。武器の規格、教会の対異端制式装備」
ノアは彼らの問いかけに答えることなく、ただ淡々と自らの内面で計算式を読み上げていた。
「……五年前、アスター領に対する告発偽造を実行した現場部隊の識別コードと一致。――対象の全数消去、および機密保全プロトコルを実行する」
「何をわけの分からんことを……! 生意気なガキが、神聖な作業現場に立ち入った罪をその命で償えッ! 殺せ!」
小隊長の号令と共に、四名の審問官が光の魔力を刀身に纏わせ、一斉にノアへと殺到した。
狭い地下空洞を切り裂く、四条の閃光。
逃げ場のない包囲突進。
だが、ノアは眉一つ動かさなかった。
(……足運びのラグ、〇・二秒。光魔力の指向性、直線的。回避行動、不要)
ノアは右足で、凍りついた水面を軽く叩いた。
――【絶対凍土・局所侵食】。
バキキキキキッ!!
突進してきた四名の足元から、無数の鋭利な氷柱が槍のように一斉に噴き上がった。
叫ぶ暇すらなかった。
四名の肉体は足首から胸部までを一瞬で貫かれ、氷の槍に串刺しにされたまま、宙で青白い彫像となって完全静止した。
「な……な、何だこれはァッ!?」
後ろに控えていた小隊長が、信じられない光景に絶叫した。
光の加護を纏った教会の精鋭が、剣を合わせることすらできず、一瞬でオブジェに変えられたのだ。
「ひ、光の神よ、我が敵を焼き尽くせェェッ!」
狂乱した小隊長が両手を掲げ、最大出力の光属性魔導砲を展開しようとした。
聖なる光球がドームを満たそうとした――その刹那。
シュンッ。
ノアの姿が、網膜から完全に消滅した。
「え――?」
「熱量の収束プロセスが、あまりにも鈍重だ」
耳元で、絶対零度の吐息が囁かれた。
小隊長が振り返ろうとした時には、すでにノアの氷晶短剣の切っ先が、男の喉笛へと寸分の狂いもなく触れていた。
冷気が皮膚から頸動脈へ浸透し、血液の流れを瞬時に止める。
「ひ……あ……お前は……アスターの……」
「神の許しなど、初めから求めていない」
ノアは冷徹に告げると、短剣をわずかに押し込んだ。
パキリ。
小隊長の肉体は喉元から真っ白に凍りつき、そのまま石畳の上へと崩れ落ちて砕け散った。
残された作業員たちも、逃げ出す暇すら与えられず、背後から放たれた氷の礫によって音もなく無力化された。
戦闘開始から、わずか八秒。
地下空洞には、再び絶対零度の静寂が戻っていた。
ノアは短剣を収めると、教会の部隊が削りかけていた分厚い防護隔壁の前へ歩み寄った。
古代の金属で覆われたその壁には、五年前、父アスター卿が自らの手で刻み込んだ、懐かしい家紋の封印術式が微かに光を放っていた。
(……父上。教会が暴こうとした貴方の遺産は、僕が回収する)
少年は隔壁の冷たい感触を確かめると、さらにその先――王都の地下深くへと続く、底知れぬ暗闇の奥を見据えた。
光の教会・ザカリー枢機卿との全面戦争。
その血塗られた清算の歯車が、いま王都の闇の底で、確実に噛み合おうとしていた。
いつもお読みいただき、本当にありがとうございます!
いよいよ第2部「光の教会・ザカリー枢機卿編」が開幕した第65話でした。
【アスター・コア】によって万全の身体となったノアが、有毒ガスと悪臭の漂う地下暗渠で教会の審問官小隊をわずか8秒で完全解体する圧倒的なスペック差は、書いていてとても爽快でした。
父が遺した王都の防衛機構を巡り、いよいよ教会の深奥へと迫るノア。
少しでも楽しんでいただけましたら、ブクマ登録や下部の【☆☆☆☆☆】から応援の評価をいただけますと大きな励みになります! 次回もどうぞお楽しみに!




