【第63話:「三日間の空白と、零度の覚醒」】
クライン男爵の拘束から、わずか数時間後。 深夜のローゼンバーグ公爵邸、その最深部に位置する地下古代術式室。 周囲を厚さ三メートルの対魔導岩盤で囲まれた円形の部屋は、外界の喧騒も豪雨の音も一切通さない完全な静寂に包まれていた。
部屋の中央に設置された石造りの術式台。 その前に立つノアの指先が、空間に幾何学の青白い魔導陣を正確無比に刻み込んでいく。
「……隔離結界、全七層の展開完了。魔力漏洩率、零点零三パーセント未満」
ノアは淡々と告げ、術式卓の上に置かれた黒塗りの魔導鍵を手に取った。 それは、外からこの部屋を物理的・魔導的に完全遮断し、内側からの暴走を抑制するための唯一の緊急停止装置。
振り返った先には、濡れた毛皮のストールを解き、冷たい紫紺の瞳を湛えたルナ・ローゼンバーグが立っていた。
「預ける、ルナ。……これより七十二時間、僕の意識は外界から完全に断絶する」
ノアは魔導鍵をルナの掌へ落とした。
「術式の最中、心臓の全回路を一度停止させ、他者から奪った不純な魔力をすべて切除する。……僕の身体は、ただの動かない肉塊になる。外の計算は、すべてお前に一任する」
「ええ、任せなさいな、私の死神様」
ルナは鍵を細い指先でしっかりと握り締め、冷徹にして優雅な笑みを浮かべた。
「貴方が安心して眠れるよう、外の害虫どもは私がすべて法と権力の檻に叩き込んで差し上げますわ。……軍務卿がどれほど足掻こうとも、貴方が目覚めるまで、この敷居を跨ぐことは神にすら許しません」
「頼む」
ノアは感情を交えずに短く応じると、外套を脱ぎ捨て、術式台の上へと仰向けに身を横たえた。 ルナは音もなく部屋を出て、分厚い古代鉄扉が重々しい地響きと共に密閉された。
完全な孤立。 ノアは懐から、青白く脈動する純白の宝球――【星霊石】を取り出し、自らの胸の上へと置いた。
「……自己執刀プロトコル、開始」
少年の瞳の奥で、幾何学の演算格子が冷たく発光した。 ノアは自らの【絶対凍土】を、皮膚ではなく自らの『全身の神経網』へと直接流し込んだ。
痛覚神経の完全遮断。 体温を急激に低下させ、氷点下四十度へ同期。 脈拍数を毎分三回まで圧縮し、仮死状態の境界線上へと意識を固定する。 普通の人体であれば即死する極限の自傷プロセスを、ノアは単なる数値合わせの作業のように淡々と処理していった。
少年の右手から、鋭利な氷のメスが形成される。 ノアは迷いなく、自らの胸の中央へと刃を立てた。 血は流れない。切り裂かれた皮膚も筋肉も、切断された瞬間に絶対零度の冷気で瞬時に凍結され、細胞の破壊を免れている。
露出した、ノアの病弱な心臓。 そこには、これまで生き延びるために他者から奪い取り、継ぎ接ぎしてきた無数の歪な魔力回路が、赤黒い毒素のように絡みついていた。
「……切除」
ノアの指先が動く。 バルトアンデルスの記憶、ゼノンの残滓、過去に屠ってきた敵たちの不純な回路を、氷のメスがミリ単位で削ぎ落としていく。 激痛の信号が脳を焼き焦がそうとするが、ノアの冷徹な演算思考は、その苦痛すら単なるデータとして切り捨てていた。
トクン……。
心拍が、完全に停止した。 漆黒の空洞となった胸の中央へ、ノアは両手で【星霊石】を押し込んだ。
キィィィィィンッ――!
眩いばかりの純白の閃光が、術式室の全域を呑み込んだ。
意識の深淵。 音も光も存在しない絶対零度の暗黒の中で、ノアは漂っていた。
胸の奥から溢れ出す、莫大な古代の魔力奔流。 それは少年を拒絶する毒ではなく、まるで五年間待ち続けていた主を慈しむかのように、ノアの凍てついた血管と神経系へ寸分の狂いもなく染み渡っていく。
その光の奔流の向こう側、見慣れた執務机の前に座る、一人の男の背中が見えた。
――父、アスター卿。
色褪せたインクの匂い。 幼いノアが病床で咳き込むたび、夜通し息子の手を握り締めながら、設計図を引き続けていた几帳面な男の横顔。
『ノア、お前が大人になる日まで、この心臓がお前を守り続けるだろう』
星霊石に残されていた、父の最後の思念が少年の脳裏に静かに響く。 世界を滅ぼす兵器などではない。 ただ、生まれつき生きることを許されなかった我が子を、明日の光の中へ送り出すためだけに命を削って作られた、奇跡の核。
――生きてくれ、ノア。
温かい、あまりにも無償の愛の記憶。 だが、十歳の暗殺者は、その記憶を前にして涙を流すことはなかった。 ノアの瞳は、どこまでも澄み切った深海の漆黒のまま、父の背中を見つめていた。
「……理解した、父上」
少年の冷徹な意志が、精神世界の大気を震わせた。
「貴方がくれたこの命で、僕は生きる。……そして、貴方の無垢な願いを踏みにじり、我が家を奪ったこの世界の歪んだ理を、僕の計算ですべて解体する」
感傷ではなく、血の契約としての継承。 その言葉に応えるように、父の幻影が微かに笑って光の粒子へと溶けていった。 そして――。
ドクンッ!!
五年間、一度として正常に打たれることのなかったノアの心臓が、世界を震撼させるような強烈な熱量と冷気を伴って、力強く脈動を開始した。
ノアの心臓換装から、七十時間が経過した深夜。 王都ローゼンバーグ公爵邸の地上部では、激しい魔力の衝突音が夜空を切り裂いていた。
「防衛ライン第三区画、突破されました! 敵は軍務省直属の処刑班、および――教会の異端審問特務部隊です!」
公爵邸の庭園で、短剣を振るうリアが叫んだ。 降りしきる雨の中、血塗られた白銀の法衣と黒鉄の甲冑を纏った二十名以上の手練れが、狂信的な速度で地下への回廊へ雪崩れ込んでいく。
クライン男爵の拘束によって完全に後がなくなった軍務卿と、裏で繋がっていた教会のザカリー枢機卿派閥が放った、証拠隠滅と口封じのための最後の捨て身部隊だった。
「通さん!」
地下回廊の前、剛腕を振るって敵の甲冑を叩き割るシオン。 だが、教会の異端審問官が放つ呪詛の光条がシオンの肩を穿ち、巨漢の身体が膝をついた。
「ククク……所詮は小娘の私兵よ! 公爵の小娘を殺し、押収された密約書を焼き払え!」
異端審問部隊の隊長が狂笑を浮かべ、地下術式室の分厚い扉の前へ躍り出た。 その扉の前には、紫紺の瞳を鋭利に研ぎ澄ませたルナ・ローゼンバーグが、たった一人で立っていた。 手には、公爵家の自衛用魔導拳銃。
「そこを退け、ローゼンバーグの娘! 貴様の首を手土産に、教会の栄光を――」
「五月蝿いですわね、野良犬ども」
ルナは眉一つ動かさず、冷たく言い放った。 その背後の鉄扉の隙間から、信じがたいほどの濃密な『冷気』が漏れ出し始めていることに、少女だけが気づいていた。
カチリ。
時計の針が、七十二時間を刻み終えた。
「――お待たせいたしましたわ、皆様」
ルナが嘲笑うように微笑んだ、次の瞬間。
ドゴォォォォォンッ!!
厚さ三十センチの古代鉄扉が、触れるものすべてをガラスのように脆化させる超極低温の衝撃波によって、内側から粉々に爆散した。
「な……何事だァッ!?」
吹き荒れる白銀の絶対零度猛吹雪。 廊下にいた審問官たちの法衣が一瞬で凍りつき、床の石畳がバキバキと白い霜に覆われていく。
立ち込める冷気の霧の奥から、静かな、あまりにも整然とした足音が響いた。
コツ、コツ、と。
霧を割って姿を現したのは、濡れ羽色の黒髪を微かに揺らした、十歳の少年。 その胸元には、傷跡一つ残っていない。 少年の胸の奥からは、神々しくも冷冽な青白い燐光が、規則正しく、力強く脈動していた。
――【固有スキル:アスター・コア(恒久魔力循環核)】、完全覚醒。 ――【生体魔力不全症】、完全消滅。
ノアが一歩を踏み出しただけで、回廊内の大気中の水分がすべて鋭利な氷晶へと変わり、空間全体がきしむような異音を立てた。 以前とは比較にすらならない、純粋にして無尽蔵の魔力プレッシャー。
「き、貴様……誰だ!? この子供は一体――」
敵の隊長が恐怖に顔を引きつらせ、剣を構えようとした。 だが、ノアは彼らに視線すら向けない。
「……五分遅れたな。ルナ」
平坦な、どこまでも澄んだ少年の声。
「いいえ。……完璧なタイミングですわ、ノア」
ルナが満足げに目を細めた。 ノアの右手が、無造作に虚空へと掲げられる。
「騒音が多すぎる。……排除する」
パチン。
少年が指を一度鳴らした瞬間――。 地下回廊を満たしていた二十名を超える教会の刺客たち全員が、断末魔の叫びを上げることすら許されず、足元から頭頂部まで一瞬にして完全な青白い氷柱へと変貌した。
物理法則を超越した、絶対零度の世界。 真の心臓を手に入れた十歳の死神が、ついに王都のすべてを清算するための完全な力を解き放ったのだ。
いつもお読みいただき、ありがとうございます!
自らの手で胸を開く自己執刀と、至宝【星霊石】による完全覚醒を描いた第63話でした。
病弱な身体の呪縛を解き放ち、固有スキル【アスター・コア】を宿して指先一つで教会の刺客を瞬殺するノアの姿は、書いていて最高の爽快感でした!
いよいよ次回、押収した証拠を突きつけ、軍務卿を貴族院の公開法廷で破滅へと追い詰める王都断罪のクライマックスです!
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