【第62話:「冷たい雨と、証拠隠滅の夜」】
深夜一時。
王都の上空を覆う重厚な雨雲から、鉛色の冷たい豪雨が降り注いでいた。
石畳を叩く激しい雨音が、貴族街に立ち並ぶ白亜の邸宅群の静寂を無慈悲に塗り潰していく。
その一角、軍務卿派閥の重鎮――クライン男爵邸。
周囲を囲む高い鉄柵の向こうでは、普段の倍以上の私兵たちが、雨合羽を着込んで魔導ライフルを構え、異様な殺気を漂わせながら巡回していた。
「……周囲の警戒を緩めるな! 門を固めろ、怪しい影があれば警告なしで射殺して構わん!」
私兵隊長が張り上げる怒号は、雷鳴にかき消されていく。
彼らが恐れているのは、王都警備隊ではない。
北の雪嶺で、あの冷酷無比な帝国正規軍百二十名をたった一夜で全滅させたという――正体不明の『死神』の噂だった。
だが、彼らがどれほど神経を尖らせようと、死神の足音を聞くことなど不可能だった。
敷地の北側、雨水が滝のように流れ落ちる排水溝の影。
水たまりを踏む音すら立てず、漆黒の外套を纏った小柄な影が滑り込む。
(……外周歩哨、計三十二名。配置の間隔、十二メートル。雨音による聴覚マスキング率、八十八パーセント)
ノアの瞳の奥で、冷徹な幾何学模様が瞬時に敵の配置図を描き出していた。
耳元に仕込まれた極小の通信石から、低く引き締まった声が届く。
『――ノア様。外周の監視櫓二箇所、無力化完了いたしました』
シオンの声だった。
『南門の脱出経路、リア班が完全封鎖。……屋敷のネズミは、一匹たりとも外へ逃がしません』
「了解した。……突入を開始する」
ノアは右足で水たまりを踏み抜いた。
だが、水飛沫は一滴も上がらない。
足が触れた瞬間、泥水は極小の氷板へと変わり、ノアの体重を推進力へと変換して前方へ弾き飛ばした。
裏門を守っていた二名の私兵。
彼らが視界の端に黒い影を捉えた時には、すでにすべてが終わっていた。
――ヒュッ、ヒュッ。
雨粒を切り裂いて放たれた二本の氷晶針。
私兵たちの首筋の頸椎へと吸い込まれ、中枢神経を一瞬で凍結切断する。
叫ぶことも、引き金に指をかけることもできず、二つの肉体は崩れ落ちる寸前にノアの手によって支えられ、物陰へと音もなく引き倒された。
ノアは一度も歩調を緩めず、豪雨の庭園を駆け抜ける。
裏口の鉄扉の前。
ノアが左手を鍵穴へかざすと、【絶対凍土】の魔力がシリンダー内部へと浸透した。
金属が超低温で収縮し、内部のピンがパキリと音を立てて破断する。
カチャリ。
無音で開け放たれた扉から、十歳の暗殺者は屋敷の胎内へと滑り込んだ。
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屋敷の地下最深部――耐火防壁に守られた地下大金庫室。
室内には息苦しいほどの熱気が立ち込め、部屋の中央に備え付けられた巨大な魔導焼却炉が、轟々と真っ赤な炎を噴き上げていた。
「早くしろ! 何をぐずぐずしている、全部だ! 一枚残らず灰にしろッ!」
上等のシルクのシャツを汗と煤で汚し、血走った目で怒鳴り散らしていたのは、クライン男爵その人だった。
贅肉のついた顔は青白く引きつり、指先は小刻みに震えている。
その足元には、鉄のトランクから乱雑に引っ張り出された、膨大な書類の山。
「だ、男爵閣下! これらは軍務卿閣下への上納金帳簿や、帝国の特務機関との直通暗号表です! これを燃やしてしまえば、我らの後ろ盾も――」
「馬鹿者がッ! 後ろ盾どころか、我が身の首が飛ぶんだよ!」
クラインは側近の頬を平手打ちし、自ら書類の束を掴んで焼却炉の火口へと放り込んだ。
「バルトアンデルスの豚が鉱山で死んだ! 帝国軍のガレリアス本隊も全滅した! 王都ではあのローゼンバーグの小娘が、貴族院監査部を動かして嗅ぎ回っておるのだ! この帳簿が公爵家や監査部に渡ってみろ、国家反逆罪で一族郎党ギロチン行きだぞッ!」
男爵の叫びには、狂気じみた焦燥が滲んでいた。
ガレリアスから定期的に送られていた黒嶺鉱山の密輸鉱石配分表、教会のザカリー枢機卿派閥との裏取引記録、そしてアスター家襲撃の際、王都側の防衛隊の配備を意図的に遅延させた手引きの密書。
己が栄華を極めるために積み上げてきた裏切りの証拠すべてを、男は必死に炎の中へとくべ続けていた。
「おい、闇ギルドの連中はどうした!? 『黒百足』の連中は配置についたのか!?」
「は、はい! 王都裏社会で最強と謳われる暗殺術士五名、地下回廊の防衛ラインに――」
側近が答えようとした、その時だった。
ドォォォォンッ!!
地下金庫の分厚い防護扉が、凄まじい衝撃音と共に内側へと吹き飛んだ。
いや、吹き飛んだのではない。
扉の蝶番と閂が真っ白に凍結脆化し、蹴り破られた衝撃で粉々に砕け散ったのだ。
濛々と立ち込める冷気の煙の中から、転がり込んできたものがあった。
それは、五つの青黒い氷塊。
男爵が莫大な報酬で雇い入れたはずの、闇ギルド『黒百足』の暗殺術士たちだった。
誰一人として武器を抜く暇すら与えられず、首をへし折られ、全身を凍結された状態で、ただの瓦礫のように床へ転がされたのだ。
「ひ……っ!?」
クライン男爵の喉から、蛙を握り潰したような悲鳴が漏れた。
冷気の霧を割り、濡れた外套を翻して歩み出てきたのは、一人の少年。
手には、青白い燐光を放つ二振りの氷晶短剣。
「き、貴様……誰だ!? どこから入った!?」
男爵の護衛兵四名が、恐怖を振り払うように剣を抜いてノアへと突進した。
「曲者だ、閣下をお守りしろォッ!」
だが、ノアは彼らに視線すら向けない。
(【超精密解析】――筋力強化術式の起動遅延、〇・三秒。筋肉の硬化ポイント、頸動脈および鳩尾)
ノアの身体が微かに揺らいだ。
残像。
突進してきた四名の兵士の横を、ノアは風のようにすり抜けた。
――ザシュッ。
微かな氷の破砕音。
四名の兵士は、誰一人としてノアの外套を捉えることすらできず、喉元を一直線に切り裂かれて硬直した。
吹き出そうとした鮮血は空中で赤い氷となって固まり、四本の氷柱となって床に倒れ伏す。
突入から、わずか二秒。
「ヒィィィィッ……!? ば、化物……ッ!」
クライン男爵は尻餅をつきながら、背後の焼却炉へ手を伸ばした。
その手には、帝国宰相補佐バルツァーの直筆サインが入った、最重要の密輸契約書。
「これさえ……これさえ燃やせば、私を裁く証拠など……! 燃えろ! 灰になれェェェッ!」
男爵が契約書を真っ赤な炎の中へ投げ入れた。
紙の端が熱に巻かれ、黒く焦げ始めようとした――その刹那。
「……遅い」
ノアが右足の踵を、床へ強く打ち下ろした。
――【絶対凍土・指向性極冷波】。
ゴォォォォッ!!
白銀の猛吹雪が、金庫室の床を津波のように駆け抜けた。
冷気は焼却炉の火口へと一直線に突入し、千二百度を超えて燃え盛っていた紅蓮の火炎を、一瞬にして青白い氷の彫像へと変貌させた。
燃焼反応の完全な物理停止。
火の粉すら凍りつき、宙に舞っていた契約書は、焦げ跡一つ広げることなく、カチリと音を立てて冷たい床へと落ちた。
「な……ほ、炎が……凍った……!?」
男爵は信じられないものを見る目で目を見開いた。
熱力学を無視した、理外の絶対零度。
ノアは音もなく歩み寄り、床に落ちた契約書を拾い上げた。
目を通すまでもない。
カルディス、黒嶺鉱山、そして王都を結ぶ、巨大な国家反逆の環。その最後のピースが、少年の掌の中に完全に保全された。
「証拠価値の保全、完了」
ノアは冷ややかに告げると、短剣を逆手に構え、へたり込むクライン男爵の眼前へ立った。
「五年前、アスター領への討伐軍進軍を許可し、王都警備隊の救援を握り潰した軍務省の決済印。……貴様のサインだったな、クライン男爵」
「お、前……なぜそれを……まさか、アスターの生き残り……!? ひ、待て、待ってくれ! あれは軍務卿閣下の命令だったんだ! 私は逆らえなかっただけだ! 金ならいくらでもやる、命だけは――」
「五年前の決算を行おう」
ノアは感情を交えず、氷晶短剣の切っ先を男爵の両膝へと振り下ろした。
グシャッ、メキメキッ!
「ぎゃああああああああっ!!」
膝関節を粉々に凍結破砕され、男爵が絶叫しながらのたうち回る。
だが、その叫び声すら、地下金庫の外へ漏れることはなかった。
「……五年前、我が家にかけられた無実の罪。その利息と滞納分、まずは貴様の社会的生命で清算する」
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ガギィィィィンッ!
地下回廊の階段の上から、整然とした甲冑の足音と、重厚な金属音が響き渡った。
階段を駆け下りてきたのは、抜剣した王都警備隊の精鋭騎士たち。
そして、その中央を優雅に歩み降りてくる、一人の麗人。
雨に濡れた黒い毛皮のストールを肩にかけ、紫紺の瞳を冷ややかに輝かせた少女――ルナ・ローゼンバーグだった。
「深夜の書類整理、お疲れ様ですわ、クライン男爵」
ルナの透き通るような美声が、静まり返った金庫室に涼やかに響いた。
少女の手には、貴族院監査部と国王特務監査局の朱印が押された、分厚い令状。
「貴族院監査部筆頭補佐、ルナ・ローゼンバーグです。……帝国との不法密貿易、国家機密漏洩、ならびに旧アスター領における違法採掘への共謀容疑により、当屋敷の即時差し押さえと、貴方の身柄拘束を執行いたしますわ」
「ル、ルナ……貴様……! 謀ったな……!」
膝を砕かれ、血の涙を流すクライン男爵を見下ろし、ルナは極上の酷薄な微笑を浮かべた。
「謀るなどと人聞きの悪い。……自ら火の中に飛び込んで証拠を集めてくださったのは、男爵、貴方ではなくて?」
ルナは床にまとめられた無傷の極秘書類――帝国との密約書や軍務卿への裏金帳簿を一瞥し、満足げに目を細めた。
そして、金庫室の薄暗い柱の影に立つ、漆黒の少年にだけ、誰にも気づかれない微かな視線を送る。
(――見事ですわ、ノア)
声なき賞賛。
ノアは無言のまま、短剣の血を拭い、外套の影へと深く身を沈めた。
(――これで、外堀はすべて埋まった)
クライン男爵の失脚により、軍務卿派閥の資金源と密輸網は今夜をもって完全に断ち切られた。
王都に潜む最大の脅威を排除した今、アスター家の至宝【星霊石】による、ノアの心臓完全換装術式への道が、遂に開かれようとしていた。
いつもお読みいただき、本当にありがとうございます!
王都の売国貴族筆頭・クライン男爵邸への電撃急襲と、証拠隠滅の阻止を描いた第62話でした。
必死に証拠を灰にしようとする男爵に対し、燃え盛る焼却炉の火炎ごと物理的に停止させて証拠を完全保全するノアの【絶対凍土】。「炎すら凍らせる」という理外の冷徹な制圧劇は、書いていてとても爽快でした。そして裏でノアが片付けた現場へ、完璧なタイミングで令状を手に踏み込んでくるルナ様。二人の表裏一体の連携が最高に決まった瞬間です。
軍務卿派閥の資金・密輸網を完全に断ち切り、王都の脅威を排除したことで――いよいよ次回、アスター家の至宝【星霊石】による、ノアの心臓完全換装術式(真の覚醒)へと物語が動き出します!
「炎を凍らせるシーンが痛快だった!」「ルナとノアのコンビが最高すぎる!」と思っていただけましたら、ブックマーク登録や下部の【☆☆☆☆☆】から応援のポイント評価をいただけますと執筆の大きな励みになります!
次回、星霊石の心臓移植と真の覚醒。どうぞお楽しみに!




