第6話:「仮面の夜と、沈黙の狩人」
血とカビの匂いが充満する、闇市の古ぼけた個室。
ノアは、自身が先ほど返り討ちにした始末屋たちの黒焦げた死体を一瞥した後、テーブルに突っ伏して絶命している情報屋の老人に歩み寄った。
「……悪いな、じいさん。あんたの知識、無駄にはしない」
ノアは静かに老人の首筋に手を当て、【冥界神の捕食】を発動した。
掌からドス黒い魔力の靄が広がり、老人の死の淵に残された魔力と記憶の残滓を貪り喰らう。
膨大な『暗号解読の知識』が、幾何学模様と無数の文字のノイズとなって、ノアの脳髄に直接流れ込んでくる。
他人の生涯をかけた専門知識を強制的に己の脳に書き込む作業は、焼きごてを押し当てられるような激痛を伴う。だが、ノアは僅かに顔を顰めただけで、その複雑なロジックを瞬時に自身の思考回路へと定着させた。
そして、始末屋から奪い取った羊皮紙の暗号文へと視線を落とす。
数秒の沈黙。
ノアの瞳に、仄暗い理解の光が宿った。
「……なるほどな。本邸の連中が、あれほど手回し良く始末屋を差し向けてきた理由が分かった」
「何が書いてあったの?」
背後で息を呑んでいたルナが、恐る恐る覗き込む。ノアは羊皮紙をテーブルに放り投げた。
「三日後、王都の地下で『非合法の闇オークション』が開かれる。主催者は本邸の女主人……お前の継母、イザベラだ。表には出せない呪物や、没落貴族から巻き上げた品を売り捌き、裏金を稼ぐためのドス黒い夜会らしい」
「お義母様が……。でも、それがどうして私たちの命を狙うことと繋がるの?」
「このオークションの出品リストの目玉に、『ルナ・ローゼンバーグの別邸の権利書』が含まれているからだ」
ルナの息が、ヒュッと鳴った。
「お前が病死したことにして、あの別邸ごと裏社会のパトロンに売り払うつもりだったんだろう。だから、別邸の支配権を取り戻したお前を、今夜のうちに急いで消す必要があった」
あまりにも身勝手で、冷酷な継母の企み。
だが、ノアが真に注目していたのは、そこではなかった。
ノアの指先が、リストの最後尾、一際厳重に暗号化されていた一行をなぞる。
そこには『アスター侯爵家の遺物・星天の羅針盤』と記されていた。
五年前。両親が濡れ衣を着せられて殺されたあの夜、本邸の宝物庫から奪い去られたアスター家の至宝だ。
ノアの深海の瞳に、絶対零度の青い炎が宿った。
「本邸の隠し資金源を根こそぎ奪い、俺の家の遺物を取り返す。……ルナ、三日後、少し着飾ってもらうぞ」
***
それから三日後の夜。
王都の地下深く。かつて廃棄された地下神殿を改装したという秘密のサロンは、地上よりも遥かに豪奢なシャンデリアの光で照らし出されていた。
高級な葉巻の煙と、むせ返るような香水の匂い。そして、貴族たちの退廃的な欲望の熱気。
身分を隠すための豪奢な仮面をつけた男女が、グラスを片手に下卑た談笑を交わしている。
その喧騒の片隅に、一際目を引く二人の姿があった。
深い夜空を思わせる濃紺のドレスに身を包んだ、銀髪の少女。
そして彼女をエスコートする、仕立ての良い黒いスーツ姿の少年。
ルナとノアだった。
過去に暗殺者から奪った強靭な生命力によって、同年代の少年よりも遥かに整った体躯に成長しているノアは、スーツを着こなすと、十歳とは思えない奇妙な色気と洗練された空気を纏っていた。
(……息が、詰まりそう)
優雅に微笑んで歩きながらも、仮面の下でルナは微かに震えていた。
すれ違う貴族たちの声。ワインの匂い。扇子で口元を隠して嗤う仕草。
そのすべてが、彼女を別邸で虐げてきた継母や、異母兄たちを連想させる。過去のトラウマが、ルナの心臓を冷たい手で締め上げてくるようだった。
グラスを持つ指先が震え、呼吸が浅くなる。
逃げ出したい。暗い部屋の隅で、一人で膝を抱えていたい。
そう思ってハイヒールの足が竦みかけた、その時だった。
「……堂々としていろ」
スッ、と。
ノアの手が、ルナの細い腰に添えられた。
決して力強くはない。だが、絶対に揺らぐことのない、分厚い岩盤のような確かな支え。
「お前はもう、鳥籠の中で怯えるだけの無力な令嬢じゃない。……俺が隣にいる」
耳元で囁かれた、冷たくも熱い少年の声。
その瞬間、ルナの中のどす黒い恐怖が、スーッと嘘のように引いていった。
そうだ。私にはこの狂犬がついている。
私のために圧倒的な暴力とロジックを振るい、私を苦しめる者すべてを粉砕してくれる、最強の共犯者が。
「……ええ。分かっているわ、ノア」
ルナの震えは完全に止まっていた。彼女は仮面の下で、悪逆令嬢としての艶やかで傲慢な笑みを浮かべ直し、ノアの腕にそっと自身の手を絡ませた。
***
「少し、離れる。ここから動くなよ」
ノアはルナを安全なボックス席に残し、一人で喧騒の中から姿を消した。
向かう先は、会場の奥にある『関係者以外立入禁止』の扉。オークションの出品物と、裏金が保管されている金庫室へと続く通路だ。
扉の前に立つと、ノアの眼にはっきりと『魔法の糸』が見えた。
通路の入り口には、不可視化された『警戒の結界』が幾重にも張り巡らされていたのだ。
物理的に触れれば即座に警報が鳴り響き、会場中の私兵が押し寄せてくる。非常に緻密なロジックで組まれた防犯術式だ。
「……三流の術式だ。結び目が丸見えだぞ」
ノアは一切の躊躇なく、その不可視の糸の束へと手を伸ばした。
【冥界神の捕食】を発動する。
術式を構成する魔力の糸を、警報を鳴らすロジックが作動する暇すら与えずに、根元から文字通り『喰いちぎる』。
音もなく、結界が崩壊して消滅した。
扉を開けて薄暗い通路に侵入すると、奥から二人の屈強な警備兵が歩いてくるのが見えた。
彼らは優れた魔力感知能力を持つ、本邸から派遣されたエリートの私兵だ。
「ん? 誰だお前は。ここは客の立ち入る場所では——」
警備兵が声を上げるより早く、ノアの姿が掻き消えた。
暗殺者から奪い取り、完全に定着させた強靭な脚力による、不可視の歩法。
「なっ——」
警備兵の背後に音もなく着地したノアは、両手に『氷の魔力』を集中させていた。
ただ闇雲に凍らせるのではない。
彼らの首筋に触れた瞬間、声帯と脳に向かう血流だけをピンポイントで『絶対零度』に落とし込んだのだ。
「が……ッ……」
二人の警備兵は、悲鳴を上げることも、倒れる音を立てることも許されず、氷の彫像のように立ったまま完全に意識を刈り取られた。
無駄な殺しは、血の匂いで警戒されるリスクがある。
ノアは静かに彼らの身体を壁際に立てかけ、その残留魔力を喰らう。
「……金庫室のパスワード、いただいたぞ」
ノアは無表情のまま、通路のさらに奥、最深部の金庫室へと歩みを進める。
一方、表の会場では、いよいよ闇オークションの開催を告げる、華やかな鐘の音が響き渡っていた。
きらびやかな欲望に酔いしれる貴族たちは、まだ誰も気づいていない。
彼らのすぐ足元で、底辺から這い上がってきた名もなき少年による、冷酷で完璧な『狩り』がすでに始まっていることに。
お読みいただきありがとうございます!
今回は少し雰囲気を変えて、貴族の闇オークションへの潜入回でした。
ドレスアップしたルナと、スーツでエスコートするノア。この二人の少し背伸びした危うい雰囲気を書くのは、個人的にすごく楽しかったです(笑)。
後半はノアの得意なステルスアクション。ただ力押しするのではなく、ロジックで敵の罠を無効化していく彼の有能さが伝わっていれば嬉しいです!
いよいよ次回、本邸の隠し資金とノアの実家の遺物を巡って、オークション会場で派手に暴れてもらいます。
もし「潜入ミッション好き!」「ドレス姿のルナが目に浮かぶ!」「続きが楽しみ」など、少しでも楽しんでいただけましたら、
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