第5話:「夜の底の誓いと、裏社会の牙」
マーサたち使者を追い返し、別邸から本邸の勢力を完全に一掃したその夜。
自室の豪奢なベッドの端に座り込んだルナは、ガチガチと鳴る自身の歯の音を抑えることができずにいた。
「はぁっ、あ……っ、う……」
過呼吸のように浅い息が漏れる。
自分の両腕をきつく抱きしめても、全身の激しい震えは全く止まらなかった。
昼間、本邸の使者に向かって『身の程を弁えなさい』と言い放った時の、あの万能感と高揚感はすでに微塵も残っていない。
アドレナリンの波が引き、静寂な夜が訪れた瞬間、長年彼女の心に植え付けられてきた『本邸(継母)への絶対的な恐怖』が、黒い泥水のようにどっと押し寄せてきたのだ。
(取り返しのつかないことを、してしまった)
継母のイザベラは、逆らう者を決して許さない冷酷な女だ。
明日になれば、あるいは今夜にでも、自分の首を刎ねるために本邸から恐ろしい刺客が放たれるかもしれない。いや、確実に放たれる。
恐怖で胃が痙攣し、喉の奥から嗚咽が漏れそうになった、その時だった。
「……随分と無様な顔だな。昼間の威勢はどうした」
ノックの音もなく、バルコニーの窓から音もなく室内に滑り込んできた影があった。
夜の闇と同じ色の服を着た、十歳の少年。ノアだった。
「ノア……っ」
「反逆の代償を想像して、怖くなったか。……長年虐げられてきた人間が、突発的に牙を剥いた後に必ず陥る『揺り戻し』だ。お前の脳が、過去のトラウマを引っ張り出して生存本能に警鐘を鳴らしている」
ノアは感情の読めない冷たい瞳で、震えるルナを見下ろした。
「今からでも遅くないぞ。俺の首を刎ねて本邸に差し出し、涙を流して『すべてこの狂犬が勝手にやったことです』と命乞いをすれば、お前だけは許してもらえるかもしれない」
それは、あまりにも残酷で、冷徹なロジックだった。
だが、そのノアの『微塵も揺らがない絶対的な存在感』が、ルナのパニックに陥っていた心を、冷水のように強制的に鎮めていく。
ルナは震える手を伸ばし、ノアの服の裾を、指の関節が白くなるほど強く握りしめた。
「……誰が、命乞いなんか、するものですか……っ」
涙目でノアを睨み上げながら、ルナはギリッと奥歯を噛み締めた。
「私はもう、あんな鳥籠の中には戻らない。……殺されるくらいなら、一緒に地獄まで落ちて」
「……上等だ」
ノアは薄く笑い、ルナの手を引いて立ち上がらせた。
「なら、震えている暇はない。俺たちが本邸に喧嘩を売った以上、奴らは必ず次の手を打ってくる。その前に、俺たちも『武器』を手に入れるぞ」
***
ノアがルナに黒い地味なローブを羽織らせ、屋敷の抜け道を通って向かった先は、王都の地下水路のさらに奥深く。
光の神々の加護など微塵も届かない、王都の裏社会――『闇市』だった。
「ひっ……」
血と、カビと、安酒の混ざった強烈な悪臭。
すれ違う者たちの目は一様に濁り、あちこちの路地裏から呻き声や暴力の音が聞こえてくる。
きらびやかな貴族社会でしか生きてこなかったルナにとって、そこはまさに異界だった。ルナはローブのフードを目深に被り、ノアの背中にぴったりと張り付くようにして歩いた。
だが、ノアの足取りには一切の迷いがない。
スラムで泥水をすすってきたノアにとって、この淀んだ空気こそが『勝手知ったる庭』なのだ。
「……着いたぞ」
ノアが足を止めたのは、看板もない古ぼけた酒場の奥の個室だった。
そこには、片目に奇妙な魔道具の義眼をはめた、小柄な老人が座っていた。王都の裏社会で一番の腕を持つと言われる『情報屋』であり、元・軍の暗号解読官だ。
「じいさん。こいつの解読を頼みたい」
ノアは、クラウスの金庫から見つけた『暗殺リストの切れ端』をテーブルに投げ出した。
老人は義眼をギョロリと動かし、羊皮紙の切れ端を一瞥すると、顔色を変えた。
「おいおい坊主……こりゃあ、王宮か大貴族の特級暗号だぜ。どこでこんなヤバい代物を――」
老人が言いかけた、次の瞬間だった。
ドスッ!!
鈍い音と共に、老人の胸から『黒く濡れた刃の先端』が突き出した。
老人は声も出せずにテーブルに突っ伏し、その背後の壁から、まるで影が溶け出すようにして『三つの黒い人影』が姿を現した。
「なっ……!?」
ルナが悲鳴を上げそうになるのを、ノアが強引に腕を引いて後方へと跳んだ。
直後、ノアたちが先ほどまで立っていた空間を、不可視の魔力刃が音もなく切り裂く。
「……本邸の『始末屋』か。仕事が早いな」
ノアの瞳に、絶対零度の殺意が灯る。
現れた三人は、昼間に来たような表舞台の騎士ではない。音も、気配も、魔力の残滓すら極限まで消し去ることに特化した、完全な暗殺のプロフェッショナルだ。
継母のイザベラは、ルナを別邸で生かしておくつもりは毛頭なかったのだ。
「ルナ、下がっていろ」
ノアは短い指示を出し、丸腰のまま三人の始末屋に向かってゆっくりと歩み出た。
「ガキが。死ね」
始末屋の一人が、目にも止まらぬ速さで距離を詰め、猛毒の塗られた曲刀をノアの首へと振り抜く。
回避不可能な神速の一撃。
だが、ノアはそれを『避ける』ことすらしなかった。
ガキィィィンッ!!!
曲刀がノアの首筋に触れる寸前、空中に突然生成された『分厚い氷の壁』が、その一撃を完全に弾き返した。
かつて暗殺者から喰らい尽くし、己の血肉として完全に定着させた『氷結の魔力』だ。
「なっ……無詠唱で氷結魔法だと!?」
驚愕で動きが止まった始末屋の顔面に、ノアの手が無造作に掴みかかった。
「お前らの戦い方は、綺麗すぎるんだよ」
ノアは相手の顔面を掴んだまま、すぐ横にあった酒場の『頑丈な石柱』へと、その頭部を全力で叩きつけた。
メシャッ、という頭蓋の砕ける嫌な音が響き、始末屋の一人が即死する。
貴族の御前試合のような剣術ではない。
相手の急所を最も効率的に、最も残酷に破壊する。それこそが、最底辺のスラムで生き抜いてきたノアの『泥臭い暴力』だった。
「き、貴様ぁっ!!」
残る二人の始末屋が激昂し、同時に両手から『高熱の炎弾』を放った。
狭い室内では逃げ場がない。
だが、ノアは逃げるどころか、迫り来る炎弾に向かって真っ直ぐに手を伸ばした。
【冥界神の捕食】。
ドス黒い魔力の渦がノアの掌から展開され、放たれた炎弾を『魔法術式そのもの』から文字通り喰らい尽くし、跡形もなく消滅させた。
「ば、馬鹿な……!? 俺たちの魔法が、喰われた……!?」
「ごちそうさん。……そのまま返すぞ」
始末屋たちが絶望に目を見開いた直後。
ノアの掌から、今しがた喰らったばかりの炎の魔力が、彼らのものよりも遥かに高密度で圧縮された『黒炎の槍』となって撃ち出された。
「ぎぃゃあああああっ!!」
黒炎は二人の始末屋の胴体を軽々と貫き、一瞬にして彼らを黒焦げの炭へと変えた。
焦げた肉の臭いと、静寂が室内に降り降りる。
戦闘開始から、わずか十数秒。
圧倒的で、悪魔的なまでの蹂躙劇。
ノアは自身の頬に飛んだ返り血を手の甲で無造作に拭うと、黒焦げになった死体の懐から、いくつかの書類や魔道具を手際よく剥ぎ取っていった。
「……これで、少しは本邸の連中の内情が探れそうだな」
血だまりの中に立つノアの姿は、まるで冥界から這い上がってきた本物の悪鬼のようだった。
だが、部屋の隅でその様子を見ていたルナの瞳に、恐怖の色は全くなかった。
彼女の瞳は、圧倒的な力で自分を脅かす敵を粉砕してくれたノアの背中に、狂おしいほどの魅惑と、絶対的な信頼を向けていた。
「……ええ。私たちの反撃は、これからよ」
血と泥と悪臭にまみれた地下の闇市で。
底辺の少年と悪逆令嬢の、決して引き返せない凄惨な復讐劇が、ついに本格的な火蓋を切ったのだった。
お読みいただきありがとうございます!
今回はルナの繊細な心理描写(反発したあとの揺り戻し)と、ノアのスラム仕込みの泥臭いバトルを書いてみました。
スマートな魔法戦もいいですが、ノアのように「使えるものは何でも使って、容赦なく敵を粉砕する」という戦い方は、書いていてすごく筆が乗ります(笑)。
闇市での襲撃を退け、本邸からの刺客を返り討ちにした二人。
ここから二人は手に入れた情報を武器に、いよいよローゼンバーグ家の核心(本邸の貴族たち)へと牙を剥いていきます!
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