【第59話:「絶対零度のチェスゲームと、狩人の領域」】
氷点下四十度。 黒嶺鉱山の第壱層を埋め尽くす白銀の冷気は、呼吸する肺胞すら凍結させるほどの死の世界と化していた。
「た、隊長! 第三分隊の魔導ライフルの撃発機構が凍結破損! 重装甲の関節サーボが凍りつき、歩行速度が通常の三分の一まで低下しています!」 「馬鹿者が、加熱魔導石を装甲の内側に押し込め! 体温を維持しろ!」
特務執行官ガレリアスの怒号が、霜で白く覆われた坑道に木霊した。 だが、その怒号すらも、分厚い冷気の帳に呑み込まれて鈍く減衰していく。
ガギィィィィン……ッ!
突如、坑道の前後左右から重厚な金属音が連鎖した。 古代黒鉄の隔壁が次々と落下し、縦横に張り巡らされた坑道通路を無慈悲に分断していく。
「なっ……退路だけでなく、横の連絡通路まで遮断されただと!?」 「第二小隊、応答せよ! ……だめです、魔導通信が完全に妨害されています!」
百二十名いたはずの部隊が、迷路のような隔壁の閉鎖によって、二十名から三十名単位の孤立した小集団へと強制的に切り分けられていく。
――分断統制。
大軍の優位性は、閉鎖された極限環境において完全に無力化されていた。 そして、その分断された暗闇のただ中に、音もなく滑り込むひとつの影があった。
第二小隊、二十四名。 重装魔導兵たちは背中を合わせ、視界ゼロの濃霧めいた白銀の冷気に向かって銃口を構えていた。
「誰かいるのか!? 出てこい!」
先頭の歩兵が恐怖に駆られて叫んだ瞬間。 その背後、一切の衣擦れの音すら立てず、ノアが影から現れた。
少年の瞳には、冷徹な幾何学模様が浮かび上がっている。 【超精密解析】が、重装甲兵たちの体温放散ポイント――装甲の継ぎ目、頸動脈、膝裏の腱を瞬時に浮き彫りにしていた。
ヒュッ。
微小な風鳴り。 ノアの指先から撃ち出された絶対零度の氷結晶針が、最後尾の兵士の延髄へと正確に侵入した。 叫ぶ隙すら与えられない。 中枢神経を一瞬で凍結遮断された兵士は、糸の切れた人形のように、音もなく崩れ落ちた。
ドサリ。
「おい、どうした!? ……ひっ!?」
振り返った隣の兵士の視界に映ったのは、青白く凍りついて沈黙した同僚の骸と、そこに立つ小さな少年の姿だった。 兵士がライフルの引き金を引こうとしたコンマ三秒前。
ノアの踏み込みは、もはや人間のそれではない。 胸元の【星霊石】から供給される原初の冷気が、ノアの神経伝達を極限まで加速させていた。
――ピキィィンッ!
ノアの氷晶短剣が、兵士のライフルの弾倉部と右腕の装甲を撫でるように滑る。 熱衝撃脆化。 赤熱していた魔導火薬が一瞬にして極冷と衝突し、爆発すら起こせず内部結晶化を起こして破砕された。 続いて放たれた氷の刃が、喉元を音もなく切り裂く。
「て、敵だぁぁぁッ! 囲め、撃破しろッ!」
残る二十名が一斉にノアへ向けて銃口を向け、魔導ライフルを乱射する。 だが、ノアがその場に留まるはずもなかった。 新スキル【鉱山統制・地脈共鳴】により、ノアは足元の岩盤の凹凸からダクトの位置までを完璧に把握している。
(足場反転。上方通気シャフトへ退避)
ノアの小柄な身体が重力を無視したように跳躍し、天井の排気ダクトへと消え去った。 兵士たちの放った魔導光弾は、虚しく岩壁を砕いただけだった。
「消えた……!? どこへ行った!?」
パニックに陥り、背中合わせの陣形を崩す兵士たち。 天井の闇から、ノアの冷徹な声が降る。
「……計算終了。排除を開始する」
次の瞬間、天井の古代冷気ノズルから、高圧の液体窒素にも似た超極冷蒸気が一気に噴き下ろされた。 阿鼻叫喚の叫びすら瞬時に凍てつき、第二小隊の熱源反応は、わずか一分足らずで完全に消失した。
第壱層、中央主坑道。 ガレリアスの通信水晶から、次々と悲痛な報告と雑音が途絶えていく。
『こちら第三小隊! 敵の姿が見えま――ガガッ……!』 『第四小隊、全滅! 化け物だ、あり得ない、氷が……ひ、ヒィィィッ!』 『隊長! 生存兵力、すでに四十名を割り込みました!』
「馬鹿な……! 我が精鋭部隊が、たった一匹のネズミ相手に……!?」
ガレリアスの額から、冷え切った汗が噴き出した。 五年前、火の海の中で無力に立ち尽くしていた病弱な少年。 その生き残りが、五年後に百二十名の帝国正規軍を密室で一方的に解体するなど、誰が想像できたか。
「くそっ、コソコソと小細工ばかりを……! おい、魔導技師!」
ガレリアスは生き残った技術兵の胸倉を掴み上げた。
「この要塞化されたトラップを止める方法はないのか!?」
「ひ、ひぃっ! こ、この冷気供給と隔壁の自動開閉は、鉱山の最深部……地下第六層の中央管制室からの一括遠隔制御です! 管制室の炉を物理的に破壊するか、中枢を制圧しない限り、我々はここで凍え死ぬしかありません!」
「第六層か……!」
ガレリアスの瞳に、狂気の光が宿った。 元より、鉱山の最奥に眠る【星霊石】を奪うことが本国の至上命題なのだ。
「残存の全兵力、我が周りに集結しろ! 対要塞徹甲弾を一発だけ人力装填しろ! 第六層へ強行突入するぞ! 中央管制室を吹き飛ばし、あのガキの首を獲る!」
生き残った三十余名の精鋭が、恐怖を振り払うように鬨の声を上げ、下層へと続く大螺旋階段へ向けて突進を開始した。
だが――彼らが血眼になって目指すその進軍路こそが。 ノアの頭蓋内で、最初から一本の線として描かれていた『誘導路』であった。
地下第六層――古代中央管制室。 かつて父アスター卿が最期を迎え、純白の至宝が眠っていた聖域。
ゴォォォォンッ!!
防壁の扉が、帝国軍の対要塞徹甲弾によって力ずくで吹き飛ばされた。 濛々と立ち込める煙をかき分け、ガレリアスが息を切らしながら大剣を抜いて踏み込んでくる。 その後ろには、極寒に耐え抜いた最後の重装兵二十名。
「ハァ……ハァ……追い詰めたぞ、アスターの残党め……ッ!」
ガレリアスが勝ち誇ったように大空洞を見渡した。 だが、その喉元が凍りついたように動きを止める。
中央の巨大な環状魔導炉の前。 青白く脈動する【星霊石】の光を背に受け、一人の少年が静かに佇んでいた。 手には二振りの氷晶短剣。 その足元には、無数の幾何学演算陣が、まるで主を称えるかのように蒼く発光していた。
「……逃げ場を失って、こんな袋小路に追い詰められたか、ネズミが」
震える声を張り上げ、自らを鼓舞するようにガレリアスが大剣の切っ先をノアへと突きつけた。
「五年前、父親の後を追わせてやるべきだったな! 貴様の首を皇帝陛下への手土産にし、その心臓を帝国の魔導兵器の礎にしてやる!」
喚き散らす仇敵を前に、ノアは眉一つ動かさなかった。 深海の闇をたたえた瞳が、静かにガレリアスを射抜く。
「勘違いをしているな、ガレリアス執行官」
ノアの声が、空洞の静寂を冷たく支配した。
「追い詰められたのではない。……貴様を確実に、外の目を排して縊り殺すために、ここまで招き入れたのだ」
十歳の暗殺者が、氷の短剣を水平に構えた。 五年の歳月を超えた、真の最終決算が始まろうとしていた。
いつもお読みいただき、本当にありがとうございます!
120名の帝国正規部隊を古代要塞の密室で一方的に解体していく、絶対零度のチェスゲームが描かれた第59話でした。
暗闇と極寒を利用した各個撃破、そして「追い詰めた」と狂喜して第六層へ飛び込んできた仇敵ガレリアスに対し、「縊り殺すために招き入れた」と冷徹に宣告するノア――。五年前の因縁に決着をつける舞台は、完全に整いました。
いよいよ次回、父の命を奪った宿敵ガレリアスとの最終決戦と処刑の執行です!
「ノアの誘導とハメ殺しが痛快だった!」「ガレリアスへの完全決算が待ちきれない!」と思っていただけましたら、ブックマーク登録や下部の【☆☆☆☆☆】から評価をいただけますと執筆の大きな励みになります!
次回、五年前の決算・執行。どうぞお楽しみに!




