【第56話:「雪嶺の撤退戦と、追撃の巨狼」】
南の廃坑道出口を抜けた瞬間、叩きつけるような猛吹雪が視界を白一色に染め上げた。 外気温は氷点下十五度。吹き荒れるブリザードが、骨の髄まで凍てつかせるような唸り声を上げている。
「急げ、足を止めるな! 前の者の背中を見失うな!」
シオンの怒号が風雪を切り裂いた。 地下から脱出させた避難民七十名。長年の過酷な労働で衰弱した老人や女性たちの足取りは重く、足を取られる深雪に何度もよろめきそうになる。 だが、夜鴉の隊員たちが両脇から素早く抱え上げ、一人として脱落者を出すことなく雪尾根を進ませていた。
「温熱薬を全員に二錠ずつ配れ。体温低下による筋硬直を予防しろ」
リアの的確な指示のもと、高濃度の温熱ポーションが配給される。 泥だらけの手で薬瓶を受け取った元厨房長マルタは、荒い息を吐きながら、付き添うシオンの袖口を震える手で掴んだ。
「あ、あの……シオンさん……ノア坊ちゃんは……あの子はどこにいるんだい……!? 一緒に逃げてはくれないのかい……!?」
かつて本邸で自らが作ったスープを偏食がちに口に運んでいた、あの幼い少年の面影。 自らを救い出してくれたのが他ならぬノアであると察した老女の瞳には、安堵と同時に、深い悲壮と心配の色が滲んでいた。 シオンは足を止めることなく、硬質な声で告げた。
「無用な詮索をするな。あのお方は、貴様ら七十名の荷物を安全に麓の馬車へ届けるため、ただ一人で背後を遮断しに残られた」
「そんな……! まだあんなに小さいのに……! あの子一人を置き去りにして逃げるなんて――」
「生き延びることが、あのお方の計算に対する唯一の支払いだ」
シオンは前方の暗雲を見据え、冷徹に言い放った。
「命を捨てて坊ちゃんの算段を狂わせるな。……前を見ろ。あと二キロで公爵家の待機地点だ」
その頃、黒嶺山脈から数百キロ離れた王都――ローゼンバーグ公爵邸の執務室。 暖炉の薪がパチパチと爆ぜる静寂の中、ルナ・ローゼンバーグは豪奢な革張りの椅子に深く腰掛け、一枚の羊皮紙に鋭利な万年筆を走らせていた。
「……これで三十四通目。バルトアンデルス伯爵による不法労働、私兵武装、および帝国への横領物資密輸の告発書。……文句のつけようがありませんわね」
ルナが冷ややかに視線を落とした先。 部屋の隅で、かつて公爵邸の女主人として君臨していた継母イザベラが、青ざめた顔で震えながら、告発文書の束に次々と公爵家の正式な承認印を押し続けていた。
「ひ、ひぃ……ル、ルナ……もう、手首が限界よ……頼むから、少し休ませて……」
「あら、手が止まりましてよ、お義母様」
ルナの唇が、氷のように冷たい弧を描く。
「貴女が実家の商会を通じて横領していた裏金の帳簿、今夜のうちに貴族院の監査部へ提出する手筈になっておりますの。……夜明けまでにこの書類の認可印を全て押し終えなければ、明日の朝一番で貴女は公爵家を追放され、冷たい地下牢で一生を終えることになりますけれど?」
「押します!押すわ! だから地下牢だけは……!」
狂ったように印鑑を叩きつけるイザベラを見下ろしながら、ルナは机の片隅に置かれた青い水晶――暗号通信端末へと指先を滑らせた。
(……帝国の正規殲滅部隊『白銀の猟犬』。先遣隊の到達予想まで三十六時間、でしたかしら)
通信越しに聞いたノアの声を反芻する。 感情を削ぎ落とした少年の声。だが、彼が背負う故郷の重みと、取り戻した星霊石の熱量を、ルナは肌で理解していた。
「……必ず生き延びて戻りなさいな、私の冷徹な死神様」
ルナは冷ややかに独りごちた。
「貴方が命懸けで持ち帰る星霊石の価値を、私がこの王都の豚どもに骨の髄まで思い知らせて差し上げますから」
同時刻、黒嶺山脈の中腹、断崖絶壁に挟まれた狭隘な渓谷路。 避難民たちが進む南ルートの背後、尾根の上で猛吹雪を浴びながら、ノアは単身佇んでいた。
新しく奪ったスキル【鉱山統制・地脈共鳴】が、大地の微細な振動を正確にノアの脳髄へと伝達していた。 視覚が奪われる猛吹雪の中。しかしノアの頭蓋内には、黒嶺山脈全域の三次元マップが精密に展開されている。
(……来たか)
北の尾根沿い。雪煙を巻き上げながら、常軌を逸した速度で接近する熱源反応。 数は十二。 帝国製の雪上魔導走車と、極寒適応の戦闘獣【白銀猟犬】に跨った重装甲の兵士たち――帝国特務部隊『白銀の猟犬』の先遣強襲班。
「本隊到着の三十六時間前を待たず、逃亡者の足跡を追って先遣隊を飛ばしてきたか。……帝国のマニュアル通りの迅速さだな」
敵の狙いは明確だった。 南へ向かう避難民七十名を追いつき次第、全員虐殺して口を封じること。 このまま進めば、あと十五分で避難民の最後尾に捕捉される。
「だが――この山はすでに、アスターの領域だ」
ノアは右手を雪面に突き立てた。 【鉱山統制】の魔力ラインを、地下数百メートルに眠る古代の地熱排気シャフトへと直結させる。
(第三排熱ダクト、内圧限界まで充填。主バルブ、強制開放)
ズズズズ……ッ!
地底深くから、巨大な蒸気機関が咆哮するような轟音が響いた。 次の瞬間、谷底を疾走していた帝国先遣隊の足元――雪で覆われていた古代の排熱孔から、超高圧の熱水蒸気が凄まじい勢いで天へと噴き上がった。
ドォォォォォンッ!
「なっ……何だ、これはァッ!?」
先頭を走っていた雪上走車が、噴き上がった間欠泉のような熱蒸気の直撃を受け、宙を舞って側壁の岩盤へと叩きつけられた。 さらに、熱蒸気が周囲の雪庇を一瞬で融解させ、大規模な雪崩の起点を作り出す。
ゴロゴロゴロ……ッ!!
山肌を削り取るような白銀の濁流が、逃げ惑う先遣隊の半数を一瞬で呑み込み、深い谷底へと叩き落とした。
完璧な遅滞トラップ。 だが――。
「チッ……コソ泥ネズミが、小癪な細工を……ッ!」
猛烈な雪崩の奔流を真っ向から切り裂き、一体の巨大な影が跳躍してきた。 身の丈二メートル半を超える巨大な戦闘獣【装甲白狼】。 その背に跨り、赤黒い魔導大剣を片手で構える男――『白銀の猟犬』先遣部隊長、ヴェルナー。
男の全身を覆う帝国式重装甲は、雪崩の直撃を受けてすら傷一つ負っていなかった。 白狼が雪煙を踏み砕いて着地し、獰猛な赤眼でノアを射抜く。
「見つけたぞ、アスターの残党か……? バルトアンデルスの豚を始末したのは貴様だな」
ヴェルナーの大剣から、灼熱の魔力蒸気が立ち上る。
「ガキ一匹に手間取らされたと知れれば、本隊の査問にかかわる。……ここで首をへし折って、山ごと灰にしてやる!」
猛吹雪の中、白狼が大地を蹴った。 音速に迫る突進。 だが、ノアの瞳には動揺の欠片もなかった。
胸元に収めた【星霊石】が、冷たく、そして鋭利に脈動する。
「……三十六時間の猶予など、最初から期待していない」
ノアは二振りの氷晶短剣を構え、白銀の吹雪の中へと身を沈めた。 領民たちの退路を守るための、極寒の迎撃戦の幕が切って落とされた。
いつもお読みいただき、本当にありがとうございます!
猛吹雪の中での過酷な領民脱出戦、そして背後を守るノアの迎撃戦が幕を開けた第56話でした。
王都でイザベラを冷徹に締め上げつつ盤石な受け入れ態勢を整えるルナと、新スキルを駆使して雪崩を引き起こし、追撃の先遣隊を単身迎え撃つノア。離れていても完璧に噛み合う二人の共犯関係と、立ち塞がる帝国先遣隊長ヴェルナーとの激突に注目していただけたら嬉しいです。
「ルナ様の悪女っぷりが最高!」「雪山のバトルが熱い!」と思っていただけましたら、ブックマーク登録や下部の【☆☆☆☆☆】から評価をいただけますと執筆の大きな励みになります!
次回、装甲白狼を駆るヴェルナーとの極寒一騎打ち。どうぞお楽しみに!




