【第55話:「冷徹な決算と、暴かれた深淵」】
地下第六層、冷気が澱む大空洞。
バルトアンデルス伯爵の血走った瞳が、異様な充血を見せていた。
震える右手には、鉱山全域の主支柱を吹き飛ばす親信管スイッチ。その親指が、狂気に駆られてスイッチの起爆突起へと押し込まれようとしていた。
「死ねッ! ガキも、鉱山も、全て吹き飛べぇぇぇッ!」
伯爵の指が筋肉を収縮させた瞬間。
ノアの瞳の奥で、幾何学模様の演算魔方陣が超高速で結実していた。
(【超精密・魔導工学解析】完了。対象の腕神経叢への信号伝達、残り零・一八秒)
ヒュッ、と極小の風鳴りが空洞を走る。
放たれたのは、ノアが指先から撃ち出した四本の不可視の氷結晶針。
針は正確無比に、伯爵の右腕の要所――正中神経、尺骨神経、橈骨神経、そして筋皮神経へと深々と突き刺さった。
プチ、と神経繊維が凍結寸断される微細な音が響く。
「……あ?」
伯爵の親指から、突如として一切の感覚と力が消失した。
指先はスイッチに触れたまま、一ミリも押し込むことができない。
重力に従い、黒塗りの起爆スイッチが男の手からポロリとこぼれ落ちる。
落下するスイッチ。
それが地面に触れるよりも早く、影のように間合いを詰めたノアの左手が、空中で音もなくそれをキャッチしていた。
「な……が、あ……っ!? う、腕が……動か、ん……!?」
伯爵は自らのぶら下がった右腕を左手で抱え、錯乱したように叫んだ。
感覚がない。痛みすらない。
ただ、肩から先が冷たい鉛の塊と化していた。
ノアは手にした起爆スイッチの魔導水晶を、親指の軽い圧力でパキリと砕いて無力化した。
そして、獲物を逃す気など微塵もない平坦な歩調で、へたり込む伯爵の眼前へと歩み寄る。
「ひ、ヒィィッ……! ば、化物……! 誰なんだ貴様は……!? 金か!? 金が欲しいのか!? 足元のトランクを見ろ! 帝国紙幣も金貨も宝石も、全部貴様にやる! だから命だけは――」
「五年前の決算を行おう」
ノアの声は、深海の水底のようにどこまでも冷徹だった。
十歳の少年の姿。だが、その外套の隙間から滲み出る濃密な殺気は、百人を斬り伏せた歴戦の処刑人すら裸足で逃げ出すほどの威圧感を放っていた。
「アスター家副当主としての五年間。……公金の横領額、金貨三万四千枚。帝国の特務機関【黒鉄】への裏密告による受託金、銀貨二百枚。……不当労働および証拠隠滅によって殺害、あるいは死に至らしめた領民の総数、四百十二名」
淡々と読み上げられる数値。
それは感情に任せた怨嗟ではなく、冷徹な監査官が読み上げる帳簿の数字そのものだった。
「お、お前……なぜ、それを……まさか、本当に……ノア……なのか……?」
伯爵の顔から、完全に血の気が引いた。
死んだはずの、あの病弱で部屋から出ることすらできなかった五歳の神童。
その少年が、今、血に飢えた死神となって目の前に立っている。
「悪かった! わ、私が悪かった! だが私だって帝国に脅されていたんだ! 逆らえば殺すと脅されて……アスター卿を、兄上を裏切るしかなかったんだ! 頼む、ノア! 私はお前の叔父だぞ! 肉親の情というものが――」
「計算が合わない」
ノアの短剣が、伯爵の喉元へと突きつけられた。
切っ先から零れる冷気が、男の首筋の皮膚を瞬時に白く凍りつかせる。
「父上は貴様の借財を二度肩代わりし、副当主の地位を与えた。領民は貴様の私欲のために極寒の坑道で血を吐きながら死んでいった。……その収支決算において、貴様の命の残存価値は完全にマイナスだ」
「ひっ、あ――」
「これ以上の対話は無駄なコストだ。……貴様の五年間、我が血肉として回収する」
ノアの右手五頭が、伯爵の額を鷲掴みにした。
「【記憶捕食】」
ズチュ、と脳髄を直接掴まれたような異音が大気に響いた。
伯爵の瞳が白目を剥き、全身が激しい痙攣を起こす。
「ア、ギィィィィィッ……!? あ、頭が……わ、私の、記憶が……ッ!?」
ノアの頭蓋へ、濁流のような情報が流れ込んでくる。
バルトアンデルスが帝国と結んだ密約の記録。
横領した資産の隠し場所。
旧アスター領の鉱脈地図。
そして――伯爵が保有していた固有スキル【鉱山統制・地脈共鳴】の回路が、ノアの体内に強引に再構築されていく。
だが、ノアの意識を鋭く引いたのは、伯爵の脳裏に刻まれた『最新の記憶』だった。
(……これは……?)
王都でルナが仕掛けた貴族院の緊急監査。
その動きを察知した帝国特務機関【黒鉄】は、すでにバルトアンデルスを捨て駒として見切っていた。
それだけではない。
鉱山に眠る【星霊石】の奪還と、アスター領の生証人を皆殺しにして証拠を完全隠滅するため――帝国の正規殲滅部隊『白銀の猟犬』が、すでに国境を越え、黒嶺山脈の麓へと進軍を開始していた。
(到達予想時刻……猛吹雪の減速を考慮しても、あと三十六時間後)
伯爵が鉱山の自爆を急いでいたのは、ノアたちの襲撃のせいだけではなかった。
帝国からの口封じ部隊に怯え、山ごと吹き飛ばして逃亡する算段だったのだ。
「……情報価値の回収、完了」
ノアが淡々と呟き、手を離した。
記憶と生体魔力を根こそぎ奪われたバルトアンデルス伯爵の肉体は、すでに生命活動を停止していた。
ノアの指先から放たれた極小の冷気が、その死体を一瞬で青白い氷塊へと変貌させる。
パキリ。
次の瞬間、氷塊は自らの重みに耐えかねて砕け散り、微細な氷の塵となって坑道の底へと消え去った。
裏切り者に対する、墓標すらない完全なる消滅。
ノアは外套の内側から、ルナと直通している暗号魔導通信機を取り出した。
周波数を合わせ、指先で短く暗号コードを刻む。
「……ルナ。こちらノアだ。バルトアンデルスを排除した」
わずか数秒の沈黙の後、水晶越しに涼やかな、そして僅かに毒を含んだ美声が響いた。
『――ふふ。相変わらず手際だけは悪魔的ですわね、ノア。そちらの気配が王都の探査網から消えてから、ちょうど三時間といったところかしら』
「無駄口を叩いている時間はない。伯爵の記憶を喰らった。……帝国の特務殲滅部隊が、すでに国境を越えている。先頭部隊の到着まで、残り三十六時間」
『……あら。帝国の蜥蜴どもも、尻尾切りには随分と素早い動きを見せることですこと』
ルナの声に動揺はなかった。
ただ、冷徹な貴族令嬢の怜悧な思考が、通信越しに加速するのが伝わってくる。
『安心なさいな。貴方から連絡を受けた時点で、公爵家の国境警備隊と私兵輸送団を動かしてありますわ。南の廃坑道出口から出る避難民七十名は、公爵家の正規輸送馬車に収容し、偽装戸籍を与えて王都へ迂回させます。……検問の役人は、私の金と印鑑で完全に飼い慣らしてありますことよ』
「助かる。避難が完了すれば、こちらは防衛戦に専念できる」
『ええ。……ですが、無茶は許しませんわよ。星霊石を手に入れたら、山ごと爆破してでも逃げなさい。貴方に死なれたら、私の復讐計画の採算が合わなくなりますから』
「善処する。……通信を終了する」
通話を切ると、ノアは通信機を仕舞い、第六層の最奥――古代の封印大扉へと視線を向けた。
父アスター卿が命を賭して護り抜いた、古代アスター家の秘宝。
ノアは血塗られた手袋を脱ぎ、幼い掌を大扉の中央の刻印へと押し当てた。
かつて父から受け継いだ、アスターの血と、ゼノンから奪った魔導工学解析の鍵。
ゴゴゴゴ……ッ!
重厚な石扉が、数年の沈黙を破ってゆっくりと左右に開かれていく。
溢れ出してきたのは、洞窟を満たしていた不浄な硫黄臭を瞬時に浄化する、純白にして蒼穹の魔力光だった。
部屋の中央、空中に浮かんでいたのは、人の拳大の蒼く透き通る結晶――【星霊石】。
原初の氷結魔力を内包する、世界に一つだけの至宝。
ノアがその光の中へ一歩足を踏み入れた瞬間。
懐に収めていた、カルディスで回収した『三枚の設計図』が微かに熱を帯びた。
そして――ノア自身の胸の奥。
五歳の頃からずっと冷え切り、魔力を欠損させ、少年を死の淵に留め置き続けていた脆弱な心臓が、トクン、と力強い熱を帯びて脈動した。
(……設計図と、星霊石が……共鳴している)
父が遺した、病弱な息子の命を救うための心臓補助器【アスター・コア】。
その最後の鍵が、今、少年の掌の中に収まろうとしていた。
ノアは蒼白い結晶に手を伸ばし、それをしっかりと握り締めた。
絶対零度の結晶。だがその中心には、かつて父が息子へ遺した、痛いほどの温もりが宿っていた。
「……父上。一つ目の遺産を回収した」
十歳の暗殺者は静かに呟き、結晶を胸元へ納めた。
その瞳の奥、黒い深海が、迫り来る帝国の軍勢を見据えて研ぎ澄まされていく。
白銀の凍土を舞台にした、第二の死線が始まろうとしていた。
いつもお読みいただき、本当にありがとうございます!
ついに裏切り者バルトアンデルス伯爵の決算・処刑が執行された第55話でした。
見苦しい命乞いを「計算が合わない」と冷酷に切り捨て、記憶ごと喰らい尽くすノア。さらに王都から完璧に脱出路を整えていたルナとの冷徹な共犯関係や、ついに回収された父の遺産【星霊石】の脈動と、盛りだくさんの回となりました。
しかし、帝国の正規殲滅部隊『白銀の猟犬』の接近まで残り36時間――物語はここから、「極寒の黒嶺防衛戦&領民大脱出」へと突入します!
「伯爵へのざまぁがスカッとした!」「今後の防衛戦が楽しみ!」と思っていただけましたら、ブックマーク登録や下部の【☆☆☆☆☆】から評価をいただけますと執筆の大きな励みになります!
次回、迫り来る帝国の精鋭と、迎撃の罠。どうぞお楽しみに!




