【第53話:「吹雪の死線と、零度の温もり」】
深夜二時。 黒嶺山脈を吹き抜ける風雪は、予告されていた通りその獰猛さを極限まで高めていた。大気を引き裂く轟音が山肌を揺らし、舞い狂う雪煙が視界を数メートル先にまで奪い去っている。 鉱山街を取り囲む外郭防壁の上、松明の火はとっくに吹き消され、魔導灯の淡い燐光だけが吹雪の合間にぼんやりと滲んでいた。
その白銀の猛威のただ中を、一本の影が滑るように進む。 ノアは漆黒の魔導外套をフードごと深く被り、純白の雪原に足を踏み入れていた。 歩行速度は通常と変わらない。だが、その足元に足跡は残らない。踏みしめた瞬間に雪面を極小の魔力で硬化させ、体重の痕跡すら消し去る暗殺歩行。
(……外気温、氷点下十七・二度。【絶対凍土】による皮膚表面温度の同期完了。熱放射誤差、〇・〇二度未満)
ノアの呼吸は極めて浅く、白い息すら吐き出さない。 カルディスで奪ったゼノンの演算領域が、冷たい風の流れ、空気中の水分量、そして前方にそびえる見張り主塔から照射されている不可視の魔導波を立体的にトレースしていた。 外郭を見下ろす魔導探査レーダー(サーマル・レーダー)。熱源と魔力濃度の揺らぎを感知する帝国の最新式監視装置だが、体温を吹雪と同化させ、魔力を極限まで収束させたノアは、機械の網にとって「ただの雪の塊」に過ぎない。
ノアは主塔の基部、雪に埋もれた送電魔導管の真横へ音もなく滑り込んだ。 手袋を外し、凍りついた金属管へ指先を触れさせる。
(【超精密・魔導工学解析】展開。……バイパス回路の特定完了。周波数を逆流させ、感知器の水晶体を内部凍結させる)
ノアの瞳の奥で幾何学模様が高速回転した。 チ、と極小の火花すら散らさず、外郭全域を走る探査波が音もなく沈黙した。制御室のモニター上では「全方位異常なし」の緑色信号を維持させたまま、その眼球だけを凍死させたのだ。
「……レーダー停止。各班、侵入を開始しろ」
ノアの指先が、通信用の魔導石を短く弾いた。 応答は声ではなく、通信石に返ってきた二回の規則的な脈動のみ。 東塔からはリアの第三潜入諜報班、西塔からはシオンの第二強襲突撃班が、寸分の狂いもなく同時に動き出していた。
東の監視塔では、リアの率いる影鴉たちが吹雪の死角から滑り込み、二名の歩哨の背後に音もなく張り付いていた。 首筋に押し当てられた極薄の氷刃。歩哨が息を吸い込む隙すら与えず、気管と声帯を瞬時に凍結切断する。苦悶の声を漏らすことも、体温を床に散らすこともなく、二つの肉体はただの物言わぬ荷物として暗がりに引き倒された。 西の監視塔では、シオン班の剛腕が火を噴いていた。防寒鎧を着込んだ傭兵の首を、後方から分厚い手甲で抱え込み、一瞬の捻りで頚椎をへし折る。ボキリ、という鈍い骨鳴りは、外で吹き荒れる突風の轟音の中に綺麗に掻き消された。
敵の誰一人として、死神が防壁を越えたことに気づいていない。 完璧なまでのサイレント急襲。
ノアは短剣を抜き、中央見張り塔の物資搬入口へと続く地下回廊へ足を踏み入れた。 鉱山街と塔を繋ぐ薄暗い石造りの通路。外の寒風が吹き込み、壁面には霜が白くへばりついている。 その通路の先から、乱暴な怒声と、何かが床に叩きつけられる鈍い音が響いた。
「立てっつってんだろ、この役立たずの老いぼれが!」
重々しい革靴が、倒れ伏す肉体を蹴り飛ばす音。 通路の角の先、私設傭兵団【白狼隊】の毛皮付き防寒着を着た屈強な男が、手にした鉄パイプを床の老人へ突きつけていた。 その足元には、砕け散った木箱と、転がり出た重い魔導石燃料が散乱している。
「ひ、ひぃっ……す、すまねぇ……足が、凍えて……動かねぇんだ……」
煤けた粗末な貫頭衣を纏い、雪と泥にまみれて床に倒れていたのは、白髪の老人だった。 骨と皮ばかりに痩せ細った体。胸元には、バルトアンデルス伯爵が焼き付けた強制労働者の囚人番号が赤黒く爛れている。 老人は小刻みに全身を震わせ、吐き出す息すら浅く途切れかけていた。低体温症による末期の症状。
ノアの足が、通路の影で止まった。 暗視の瞳が、老人の老いた横顔を捉える。 記憶のデータベースと照合するまでもない。 かつてアスター邸の広大な庭園で、三歳だったノアに木彫りの小鳥を手渡し、「坊ちゃん、春になれば庭に本物の小鳥が参りますよ」と、皺だらけの顔を綻ばせていた老庭師――バルトだった。
「動かねえなら死体と同じだ! 伯爵様の邪魔になるゴミは、吹雪の谷底に放り込んでやるよ!」
傭兵が冷酷に笑い、鉄パイプを老人の後頭部目掛けて振り下ろした。 老人は目を閉じ、死を覚悟して小さく丸まった。
――その瞬間。
ヒュン、という微風の鳴動すら通路にはなかった。 ただ、大気が一瞬にして絶対零度へと急降下した。
ガキン、と硬質な氷結音が響く。 振り下ろされるはずだった傭兵の腕は、肩口から先が真っ白な霜に包まれ、宙でピタリと静止していた。 いや、静止していたのではない。 肩の筋肉も、血管も、骨すらも、ノアが放った不可視の冷気針によってコンマ一秒で完全凍結されていたのだ。
「……あ? な、んだ……これ……?」
傭兵が呆然と自らの腕を見上げた。 その喉元へ、影から現れた小さな手が、そっと触れた。
「――声帯の凍結、完了」
平坦な、十歳の少年の声。 傭兵が悲鳴を上げようと口を開いた瞬間、喉の奥から肺に至る気道全体が一瞬にして凍りつき、音の代わりに砕けた血の氷粒が口から溢れ出した。 ノアは短剣を傭兵の心臓へ無造作に突き入れ、一気に体内温度を奪い去る。 傭兵の巨体は、崩れ落ちる音すら立てず、ノアの左手によって静かに床へと横たえられた。
殺害に要した時間は、わずか一・四秒。
床に倒れていた老庭師バルトは、薄れゆく意識の中で、目の前に立つ小さな人影を見上げた。 煤と血に汚れた床の上に立つ、漆黒の外套を纏った少年。 フードの奥から覗く、深海の底のように感情のない、鋭利な黒い瞳。
「あ……あ、貴方は……?」
老人の震える唇から、掠れた声が漏れた。 五年前に死んだはずの、アスター家の幼き後継者。 その冷徹な顔立ちには、かつて命の灯火が消えかけていた病弱な少年の面影が、あまりにも鮮烈に残っていた。
「坊……ちゃ……まさか、ノア坊ちゃん……なのか……?」
老人の濁った瞳から、ボロボロと大粒の涙が零れ落ちる。 救われたことへの歓喜ではない。我が身を盾にしてでも守るべきだった主家の幼子が、生きて目の前に立っているという奇跡に、老人の魂が震えていた。 バルトは泥まみれの手を伸ばし、ノアの足元に縋り付こうとした。
だが。 ノアの瞳は、一ミリの揺らぎすら見せなかった。 伸ばされた老人の手を、ノアは半歩後ろへ下がって冷淡に避けた。
「……誰のことだ」
吐き出された声は、外の吹雪よりも冷え切っていた。
「見間違いだ。……貴様の知り合いに、このような死神はいない」
名乗りもしない。 かつての思い出を語り合うことも、優しく肩を抱くこともしない。 ノアは冷え切った視線で、床に転がる老人の痩せ細った四肢を一瞥した。
「……邪魔だ。通路の中央に転がっていれば、後続部隊の歩行動線が塞がる。死ぬなら壁際で死ね」
突き放すような、残酷極まる宣告。 そしてノアは、倒した傭兵の懐から剥ぎ取った革袋――極寒地用の高純度温熱ポーションの小瓶を、乱暴に放り投げた。 ガラス瓶はカランと音を立て、老人の胸元の上着の隙間へと滑り落ちる。
「……体温が氷点下まで下がれば、死体が硬化して運搬の邪魔になる。それを飲んで、三分以内に壁の窪みへ這い入れ。三日後の朝までそこを動くな」
ノアはそれ以上、一度たりとも老人を見ようとはしなかった。 黒い外套を翻し、無感情に通路の奥へと歩き出す。
「ぼ、坊ちゃん……っ!」
背後で、老庭師が床に額を擦り付け、押し殺した嗚咽を漏らしていた。 冷たい言葉。突き放すような態度。 だが、老人の胸元には、凍えた内臓を一瞬で温め直す最高級の霊薬が確かに握り締められていた。 かつて病床の少年に木彫りの小鳥を渡した時、ノアは何も言わずにその玩具を布団の奥へ隠した。感謝の言葉すら知らなかった幼子が、今、姿を変えて命を繋ぐ薬を投げ与えていった。
「生きて……おられた……。アスターの灯火は……消えてなど、いなかった……!」
老人の流す涙は、床の泥を溶かして熱く広がっていった。 だが、その声はもう、暗闇の奥へと消えていく少年の耳には届かない。
ノアは中央見張り塔の最上階、司令室の扉の前に立っていた。 部屋の中には、机に突っ伏して酒を煽っていた白狼隊の副隊長が一人。 ノアは音もなく扉を抜け、男が振り向く間もなく、その首筋を氷の刃で撫で切った。
ピシャリと壁に血が散り、副隊長が崩れ落ちる。 ノアは男の胸ポケットから、蝋で封じられた一束の書類を引き抜いた。 バルトアンデルス伯爵の私印が押された、最深坑道の爆破計画書。
ノアの瞳が、紙面に記された火薬の配合比と設置座標を走る。 ゼノンの【超精密・魔導工学解析】が、瞬時に鉱山全体の地質データを演算し、爆発の衝撃波をシミュレートした。
次の瞬間、ノアの眉が微かに引き結ばれた。
(……計算が合わない)
計画書に記された魔導火薬の量は、第六層の頑強な封印扉を吹き飛ばすだけの規模ではない。 鉱脈を支える主支柱三十本を全て破壊し、山体そのものを内部崩落させるだけの過剰な破砕エネルギー。
(……扉の開錠ではない。これは、証拠隠滅だ)
バルトアンデルスは、星霊石を奪い去った後、鉱山深部で強制労働させている数百人の領民も、秘密を知る白狼隊の傭兵たちも、山麓の村ごと全て土砂の下へ生き埋めにする気だ。 帝国の査察も、王都のルナの追及も、全てを巨大な崩落事故として葬り去るための自爆計画。
パサリ、と書類が床に落ちた。 司令室の窓の外、猛吹雪の向こう側に、不気味に黒く口を開ける黒嶺鉱山の本坑口が見えていた。
「ルナの監査官到着まで、あと四十八時間。……だが、あの男の狂気はそこまで待たない」
ノアは冷たく呟き、短剣の血を外套で拭った。 かつての領民を家畜のように使い潰し、最後は山ごと圧殺しようとする裏切り者の伯爵。 その首を刈り取るためのタイムリミットは、想定よりも遥かに狭まっていた。 十歳の死神は、凍てつく闇の中へ静かに身を投げ出した。
いつもお読みいただき、本当にありがとうございます!
外郭見張り塔のサイレント急襲、そしてかつての老庭師バルトとの再会を描いた第53話でした。
「死ぬなら壁際で死ね」と冷酷に切り捨てながらも、奪った温熱ポーションを放り投げて命を繋がせるノアの姿に、復讐鬼としての冷徹さと、奥底に眠る不器用な情念の歪みを感じていただけたら嬉しいです。
そして判明した、バルトアンデルス伯爵による「鉱山ごと領民も傭兵も生き埋めにする」という最悪の証拠隠滅計画。
タイムリミットが大幅に狭まる中、ノアたち夜鴉はいかにして本丸を陥落させ、星霊石を奪還するのか――。
「ノアのツンデレ(?)な救い方が刺さる!」「伯爵を早くギタギタにしてほしい!」と思っていただけましたら、
ブックマーク登録や下部の【☆☆☆☆☆】からポイント評価をポチッといただけますと、執筆の最大の原動力になります!
次回、鉱山本坑口突入と、火薬信管の解体戦。どうぞお楽しみに!




