【第52話:「白銀の境界と、影鴉の報告」】
視界の全てを塗り潰す、吹き荒れる白銀の風雪。 王都から北へ馬車と転移陣を乗り継ぎ、帝国との国境近くに位置する旧アスター領の霊峰――黒嶺山脈の山麓へ足を踏み入れた瞬間、肌を刺すような極寒が外気を支配した。外気温は氷点下十五度。吐き出した息は白く濁る暇もなく、微細な氷粒となって猛吹雪の闇へと吸い込まれていく。
その白の世界を、音もなく進む影があった。 雪中迷彩のマントを羽織った大柄な男たち――シオン率いる第二強襲突撃班の七名が、一定の間隔を保ちながら周囲を警戒している。雪を踏みしめる靴音すら風の音に溶け込ませ、魔力波の漏洩は最小限に遮断されていた。
その隊列の先頭を歩くのは、十歳の少年――ノア・アスターだった。 ノアの肩を覆うのは、王都の公爵邸でルナから無言で手渡された漆黒の魔導防寒外套。銀糸で縫い込まれた最高級の保温術式が、猛吹雪の冷気を完全に遮断し、内側の温度を一定に保ち続けている。
(……外部魔力伝導率、誤差〇・〇八%未満。体温低下に伴う筋肉の収縮ロスは皆無。合理的な装備だ)
ノアは首元の襟に指を触れ、淡々とその性能を脳内の演算領域へ記録した。 少女がどんな想いでその外套を仕立て直したのかなど、ノアの思考には微塵も入らない。ただ、冷酷な任務を遂行するための「優秀な防具」としてのみ、その温もりを認識していた。
チ、と懐の小型受信石が微かに震え、青い燐光を放った。 カルディス沖合の海上要塞【鉄の棺】に残したアッシュからの、定時短縮パルス暗号だった。 『要塞全システム掌握完了。ゼノン生存の電子的偽装、完全適合。特務機関【黒鉄】の定期監査を無傷で欺瞞通過。防衛結界の周波数変調、予定通り継続中』
ノアは受信石を握り潰すようにして光を消した。 後方の憂いは完全に断たれている。アッシュたち工兵班がカルディスに釘を刺し続けている限り、帝国の正規部隊がこの極北の地へ急行してくることはない。
「……ノア様、座標に到達いたしました」
背後で足を止めたシオンが、低く押し殺した声で囁いた。 吹き溜まりとなった万年雪の斜面。一見するとただの岩肌と雪山に見える場所に、かつて旧アスター家が鉱山開発の初期に築いた排気ダクトの抜け穴が存在していた。 シオンが分厚い手甲で雪を払い、岩肌の特定の魔導回路へ魔力を流すと、雪の塊だと思われた岩壁が軋みもなくスライドし、黒々とした洞窟の口を開けた。
ノアが一歩足を踏み入れると、即座に背後の氷壁が閉じ、猛吹雪の轟音が完全に遮断された。 薄暗い坑道の中に、微かな火の灯りと、炭鉱特有の硫黄と石炭の匂いが漂っていた。 生活反応を完全に消すため、無煙炭とノアの冷却術式を併用して設営された、夜鴉の現地セーフハウス。
「――お帰りなさいませ、ノア様」
坑道の暗がりから、音もなく姿を現したのはリアだった。 いつもの身軽な暗殺装束ではなく、煤と泥にまみれた炭鉱の下働き用のボロ布を纏っている。爪の隙間には黒い石炭の粉がこびりつき、衣服の裾には乾いた血痕が点々と滲んでいた。 背後には、同じように炭鉱夫や運搬人に変装した第三潜入諜報班の七名が、息を潜めて跪いている。
「先行潜入の成果を聞こう。リア」
「はっ」
リアは懐から、油と炭で汚れた羊皮紙の束を取り出し、木箱の上に広げた。
「黒嶺鉱山および領主館の動線、警備配置、全容を把握いたしました。……現在、旧アスター領を実効支配しているバルトアンデルス伯爵は、完全に正気を失いかけております」
「カルディスの件か」
「はい。ヴァネッサとゼノンが処分されたことで、カルディス港を経由した星霊石の闇密輸ルートが完全に途絶えました。特務機関【黒鉄】からは『契約履行が遅延すれば、伯爵家一門を極刑に処す』との最後通牒が届いており、さらに追い打ちをかけるように、王都のローゼンバーグ公爵家から『領地不正経理に伴う緊急査察』の公式文書が送達されたとのことです」
ルナの冷徹な政治工作が、すでに王都から裏切り者の首を絞め上げていた。 逃げ場を失ったネズミのように、バルトアンデルスは四面楚歌の檻の中に閉じ込められている。
「……それで、あの男はどう動く」
「三日後です」
リアは冷たい指先で、鉱山内部の立体見取り図の一角を指し示した。
「帝国の査察と王都の監査官が到着する前に、禁制品である星霊石を根こそぎ掘り出し、国外へ亡命する算段です。そのため伯爵は、かつて先代アスター卿が採掘を禁じ、厳重に封印した『最深坑道・第六層』の封印扉を、三日後の夜に大量の魔導火薬で強制爆破すると決定いたしました」
「愚かな」
シオンが低く唸るような声を漏らした。
「第六層の封印は、星霊石が放つ超低温の魔力毒素が地表へ漏れ出さないためのものだ。力づくで吹き飛ばせば、坑道全域に致死性の凍結毒が充満する。採掘作業員など、一刻も持たずに肺を凍らせて全滅するぞ」
「伯爵にとって、領民の命など最初から計算に入っていません」
リアは無感情に告げた。
「すでに山麓の村々から数百人の領民を強制連行し、使い捨ての突貫作業員として地下へ送り込んでいます。……これをご覧ください」
リアが差し出したもう一枚の書類。 それは、最深部の突貫採掘へ投入される予定の『強制労働者名簿』だった。
ノアの瞳が、その煤けた紙面を走る。 ゼノンを捕食して獲得した【超精密・魔導工学解析】と、自らの脳内ログが連動し、名簿に記された文字を瞬時に記憶のデータベースと照合した。
『バルト・七十二歳・旧アスター本邸庭師』 『マルタ・六十八歳・旧アスター本邸厨房長』 『エルマー・四十五歳・元家令補佐』
かつて、ノアがまだ感情を持っていた三歳の頃。 病弱で屋敷の離れから出られなかった少年に、木を削った小さな小鳥の玩具を手渡してくれた老庭師の皺だらけの手。 熱を出して食事が喉を通らない夜、胃に優しい林檎の葛湯を泣きそうな顔で運んできてくれた老婆の温もり。
その者たちが今、囚人番号を胸に焼かれ、氷点下の暗闇で鞭打たれながら、毒の充満する死の穴へと放り込まれようとしている。
張り詰めた沈黙が、廃坑道を支配した。 シオンの拳が、ギリ、と軋んだ音を立てる。 リアはノアの無機質な黒い瞳を見つめ、静かに問いかけた。
「……ノア様。彼らはかつて、アスター家に命を捧げていた者たちです。暗殺の動線上で、救出の手筈を整えますか? 私の班員を二名割けば、爆破前の混乱に乗じて裏道から逃がすことは可能です」
救出。 かつて自分に優しさを注いでくれた者たちへの、主君としての情け。
だが――。 ノアの表情には、何の波風も立たなかった。 瞳の奥に宿る深海の氷は、一ミリの揺らぎすら見せない。
「……不要だ」
吐き出された声は、吹き荒れる吹雪よりも冷徹だった。
「救出工作を行えば、警備兵の警戒レベルが跳ね上がる。リア班の動線が露見する確率は一二%上昇し、星霊石の回収作戦に余計な時間的ロスが生じる。……我々の目的は二つだけだ。星霊石の無傷での奪還、そしてバルトアンデルス伯爵の完全なる排除。それ以外の行動は、全て任務遂行のノイズになる」
「ノア様……」
シオンが思わず息を呑む。 だが、ノアは名簿から視線を外し、木箱の上に置かれた鉱山の見取り図を冷淡に見据えた。
「死にたくなければ、自らの足で這い出せばいい。他人の情けに縋る者に、この極寒の雪山を生き延びる資格はない」
切り捨てるような一言。 幼き主君のあまりの非情さに、シオンもリアもそれ以上言葉を挟むことはできなかった。 ノアにとって、過去の思い出も、かつての恩義も、全ては復讐という絶対的な計算式の前では切り捨てるべき誤差に過ぎないのだと。 そう、その場にいる全員が信じるしかなかった。
ノアは懐から冷たい短剣を引き抜き、見取り図の外郭に記された三つの見張り塔をコン、と叩いた。
「三日後の爆破を待つ理由はない。敵が混乱と恐怖に怯えている今こそ、最も防壁が脆弱だ」
ノアの瞳に、獲物の喉笛を見据えた捕食者の光が宿る。
「今夜、吹雪の勢いが最も強まる深夜二時。外郭の魔導探査レーダーを沈黙させ、外周の見張り塔三箇所を音もなく落とす。……シオン班は侵入口の確保、リア班は坑道内部の巡回兵の間引きを開始しろ」
「「はっ!」」
十六名の夜鴉たちが、一斉に平伏した。
ノアは黒い外套を翻し、再び坑道の出口へと歩き出した。 外では今も、故郷の冷たい風が狂ったように吹き荒れている。 父の愛を奪い、領民を使い潰し、己の保身のために遺産を泥靴で踏みにじる裏切り者。 その喉元へ刃を突き立てるため、十歳の死神は音もなく、白銀の闇へと溶け込んでいった。
いつもお読みいただき、本当にありがとうございます!
極寒の地・黒嶺山脈にて、リア率いる影鴉たちと合流を果たした第52話でした。
かつて自分を慈しんでくれた屋敷の人々の名前を見ても、「私情はノイズだ」と冷たく切り捨てるノア。
心を完全に凍りつかせて復讐の計算機となった10歳の姿に、書いていて胸が締め付けられる思いでした……。
果たしてこの冷徹な言葉の裏に、一切の迷いはないのか。それとも――。
そしていよいよ今夜、猛吹雪に乗じて裏切り者バルトアンデルス伯爵への外郭強襲が始まります!
音もなく首を刈り取っていく夜鴉たちの連携と、ノアの冷酷な暗殺行をぜひお楽しみに。
「ノアの冷徹さがたまらない!」「元使用人たちとの再会が気になる……!」と思っていただけましたら、
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次回、外郭見張り塔のサイレント急襲。どうぞお楽しみに!




