【第51話:「凍てついた体温と、夜明けの棺」】
海上要塞【鉄の棺】の最上層、中枢管制室。
破損した窓枠の向こうから冷たい海風が吹き込み、炭化した絨毯の煤を微かに巻き上げていた。
水平線から射し込む朝の光が、粉々に砕け散ったゼノンの機械骸と、床に広がる青黒い魔力液の染みを冷淡に照らし出している。
「……午前四時二十分。カルディス沖合全域、海流および魔力波形、安定」
ノアは管制コンソールの前で、淡々と計測数値を読み上げていた。
冷たい光を放つモニターには、王都の特務機関【黒鉄】本部へ送信された偽装通信ログが記録されている。
定期監査ログは完全な正常値。
この要塞の中で起きた惨劇も、三人の幹部が全員物言わぬ屍となった事実も、外の世界には何一つ届いていない。
コツ、と背後で乾いた足音が響いた。
血刀を鞘へ収めたアッシュと、短剣の刃を拭い終えたリアが入ってきた。
二人の視線は、部屋の中央に立つ小さな背中へと注がれる。
漆黒の外套は左脇腹のあたりが大きく引き裂かれ、乾きかけた鮮血と、その傷口を肉ごと覆い尽くす青白い氷の結晶が露出していた。
ゼノンの高周波ブレードによって抉られた肉を、自らの【絶対凍土】で無理やり凍結させて止血した痕跡。
アッシュの眉が、わずかにピクリと動いた。
リアの指先が、無意識に短剣の柄を強く握り締め、白くなる。
だが、二人は駆け寄ることも、取り乱して声を上げることもなかった。
痛々しい傷口に触れることすら、この冷徹な十歳の主君に対する侮辱であると知っているからだ。
アッシュは無言のまま歩み寄り、抱えていた工兵用の分厚い毛布を、ノアが立つ冷たい鉄の床板の上にそっと敷いた。冷気が足元から体温を奪わないように。
リアは腰から布を取り出すと、ノアの足元に散っていたゼノンのオイルと血の破片を、無言のまま手早く拭い去った。主君の足元を汚させないように。
二人が行ったのは、ただそれだけの、日常の清掃と変わらない無機質な動作だった。
「……アッシュ」
ノアは振り返りもせず、モニターから目を離さずに言った。
「はっ」
「ゼノンの偽装コードは要塞の演算機に固定した。だが、本部の監査官が不審を抱く可能性はゼロではない。お前は工兵班の七名を率い、この要塞に残れ。防衛結界の周波数を微小に変動させ続け、外部からの不正アクセスはすべてルナへ回線を通すんだ」
「承知いたしました。我ら工兵班八名、ゼノンの生存偽装と要塞外壁の修復を昼までに完了させ、ここを完璧な『夜鴉』の洋上砦へと仕立て上げます」
「リア。お前の諜報班七名は、即座に要塞を出立しろ」
「了解です、ノア様。……行き先は?」
「北の霊峰、旧アスター領だ。黒嶺鉱山の町へ先行潜入し、炭鉱夫と使用人の動線を洗え」
「承知いたしました。影鴉の七名、吹雪の前に潜り込ませます」
リアは短く会釈し、風のように気配を消して部屋を出て行った。
残ったアッシュは、立ち去る寸前に自らの肩にかけていた分厚い防寒上着を静かに脱いだ。
泥と煤に汚れ、しかし手入れだけは行き届いた、無骨な工兵用の防寒着。
「……ノア様」
「何だ」
「朝の海風は、芯まで冷とうございます。……傷口に障ります故」
アッシュはそれ以上、何も言わなかった。
ただ、折りたたんだ防寒着をコンソールの端へ静かに置き、一礼して退出した。
一人残されたノアは、置かれた防寒着を一瞥した。
同情も、憐憫もそこにはない。ただ、生き残るための合理的な道具として差し出された一枚の布。
ノアは感情を動かすことなく、その防寒着を手に取り、破れた外套の上から無造作に羽織った。
わずかに残る、他人の体温。それを温かいとも不快とも感じることなく、シオンが待つ港の転移陣へと歩き出した。
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王都、中央区。
白亜の巨岩で築かれたローゼンバーグ公爵本邸は、朝霧の中に静まり返っていた。
最上階にある当主私室の防音扉が、音もなく開く。
室内の暖炉には薪が静かに爆ぜ、豪奢な絨毯が足音を完全に吸い込んでいた。
部屋の最奥、革張りの豪奢なソファーに、十五歳の少女――ルナ・ローゼンバーグが優雅に腰掛けている。
その足元。
かつて華美なドレスで贅沢を極めていた義母イザベラが、地味な灰色のメイド服を着せられ、床に正座して震えていた。
銀のトレイを持つイザベラの手は、小刻みにカタカタと音を立てている。
一ヶ月に一度、ルナから数滴だけ与えられる解毒薬。
それを切らされれば、内臓がドロドロに溶けて激痛の中で死ぬという恐怖が、かつての女主人を完全な家畜へと作り変えていた。
「お、お茶を……淹れ直してまいりました、ルナ様……」
掠れた声で懇願するようにカップを差し出すイザベラ。
ルナはそれに視線すら向けず、窓の外から入ってきた冷気にだけ、微かに紫水晶の瞳を動かした。
「……下がっていなさい」
冷淡な一言。
「は、はい……! ありがとうございます、ルナ様……!」
イザベラは床に額を擦り付けるようにして一礼し、這うようにして部屋の隅の扉から退出していった。
かつての栄華の欠片もない、哀れな事務処理人形。
扉が閉まり、完全な静寂が戻った瞬間。
部屋のバルコニーの影から、二つの人影が音もなく滑り込んできた。
背後に控える巨漢のシオン。そして、煤けた工兵の上着を羽織った、十歳の少年。
「……戻ったぞ、ルナ」
ノアはテーブルの前まで歩み寄ると、懐から三本の金属筒を取り出した。
王都のガルフから奪った第一工区。娼館のヴァネッサから奪った第二制御系。要塞のゼノンから引きずり出した第三炉心室。
コトリ、と三本の筒がガラスの天板に並べられる。
「カルディスの三幹部は全て処分した。要塞の偽装ラインも確立している。……アスター家の設計図、全三枚の回収を完了した」
事務的な、一切の感情を排した報告。
だが、ルナの瞳は、テーブルの上の設計図を一瞥すらしなかった。
彼女の視線は、ノアが羽織っていた上着の隙間――引き裂かれた服の下で、白く凍りついたままの左脇腹を凝視していた。
ルナは何も言わなかった。
息を呑む音すら立てず、ただ静かに立ち上がり、壁面に備え付けられた薬品棚へと歩いた。
銀のトレイに、医療用のメス、ピンセット、消毒薬、そして銀色の極細の縫合糸が手際よく並べられていく。
「……シオン」
ルナの澄んだ声が、静寂の部屋に響いた。
「外の見張りを。公爵邸の周囲一町、誰一人として近づけてはなりませんわ」
「……御意」
シオンは深く一礼し、音もなく部屋を出て扉を閉ざした。
二人きりになった室内。
ルナはトレイをテーブルの上に置き、ノアの前に膝をついた。
ノアの目線よりもわずかに低い位置。彼女の白い指先が、ノアの羽織っていた上着のボタンへ伸びる。
「脱ぎなさい、ノア」
「報告が先だ。設計図の暗号を――」
「脱ぎなさい」
遮られた声には、何の抑揚もなかった。
怒りでも、悲しみでもない。ただ、逆らうことを許さない絶対的な拒絶。
ノアはそれ以上何も言わず、上着を脱ぎ捨てた。
露わになったノアの上半身。
あばら骨が浮き出るほどに痩せ細った十歳の体。その左脇腹には、高周波ブレードによって肉を抉り取られた、長さ十センチ以上の深い裂傷が口を開けていた。
傷口はノアの【絶対凍土】によって完全に凍りついており、赤黒い血と肉が霜を纏って硬化している。
ルナは指先を伸ばし、凍りついた傷口の周囲の皮膚に触れた。
氷のように冷たい少年の体温。
「……解凍しますわよ。痛みますこと?」
「問題ない。痛覚の信号は、思考の邪魔になるなら神経を遮断するだけだ」
ノアは平坦に答えた。
痛いから我慢しているのではない。激痛を痛覚として受け取る処理リソースを、生き残るための計算に回すため、痛覚という概念そのものを自ら切り捨てているのだ。
ルナのまつ毛が、微かに伏せられた。
「……そう。なら、動かないで」
ルナは温熱魔導具を起動し、ノアの傷口へと温風を当てた。
ジュウ……と微小な音を立てて、氷が溶けていく。
白く凍りついていた肉が赤みを帯び、塞がれていた毛細血管から、再び生々しい鮮血が滲み出してルナの白い指先を汚した。
ノアの眉が、わずかにピクリと跳ね上がった。
常人ならばその場に転げ回って絶叫するほどの激痛。神経が蘇生し、生肉を灼かれるような苦痛が全身を駆け巡っているはずだった。
だが、ノアは壁の一点を見つめたまま、荒い息すら漏らさなかった。
瞳の奥にある深海の暗黒は、微塵も揺らがない。
ルナは無言のまま、ピンセットで傷口に残っていた微小な金属破片を取り除き、消毒薬を含ませた綿で患部を拭った。
そして、銀の針に糸を通し、裂けた筋肉と皮膚を、一針一針、正確無比に縫い合わせていく。
チク、チク、と皮膚を針が貫く鈍い感触。
二人の間に、会話は一切なかった。
ルナの美しい顔は、冷徹な仮面のように張り詰めている。
涙など一滴も流さない。ここで同情の言葉をかければ、この少年が命を削って積み上げてきた覚悟を足元から否定することになると、彼女は誰よりも理解していた。
だが――ノアの見えない角度で。
針を握り締めるルナの白い指先が、骨が浮き出るほどに強く、微かに震えていた。
手当てを終え、清潔な包帯をきつく巻き終えるまで、その震えが止まることはなかった。
「……終わりましたわ」
ルナは立ち上がり、血で汚れた自らの手を布で乱暴に拭った。
そして、テーブルの上に並べられた三本の金属筒へと、ようやく視線を落とした。
「それが、アスターの遺産ですのね」
「ああ」
ノアは新しいシャツに袖を通し、痛覚を完全に無視してテーブルの椅子へと腰掛けた。
懐から取り出した羊皮紙を、ガラスの上に広げる。
ガルフの第一工区、ヴァネッサの第二制御系、ゼノンの第三炉心室。
三枚の設計図が、寸分の狂いもなく噛み合わさる。
ノアはゼノンを捕食して獲得した新スキル――【超精密・魔導工学解析】を発動した。
ノアの瞳の奥で、幾何学模様の魔導式が超高速で回転を始める。
瞬時に解析される、アスター家の古代遺産の真実。
だが――。
図面の全貌を組み立てたノアの思考が、コンマ数秒、完全に静止した。
浮かび上がったのは、要塞を一撃で消し飛ばすような戦略級魔導兵器の構造式ではなかった。
帝国の都市を灰に変える古代の破壊兵器など、どこにも描かれていなかった。
そこに描かれていたのは、極めて緻密で、繊細極まる――『生命維持魔力循環装置』の設計図だった。
設計図の最下層、微細な注釈欄。
そこには、父アスター卿の、几帳面で温かみのある手書きの文字が、色褪せたインクでびっしりと書き込まれていた。
『被験対象:ノア・アスター(三歳)』
『診断:先天性魔力器官欠損に伴う、生体魔力不全症。通常の成長曲線に従えば、七歳までの生存確率は八%未満』
『開発目的:軍部からの兵器開発予算を名目上流用し、息子の心臓を恒久的に補助する魔力循環核を建造する』
『注記:本装置は、周囲の魔力を自動吸収し、宿主の心臓へ無害な生体エネルギーとして還元し続ける。ノア、お前が大人になる日まで、この心臓がお前を守り続けるだろう』
父は、最初から兵器など作っていなかった。
息子が生きられないと宣告されたその日から、世界を欺き、軍を騙し、私財と技術のすべてを投げ打って、ただ一人の子供の命を繋ぎ止めるための『心臓』を作り続けていたのだ。
そして、その装置の規格外のエネルギー変換効率に目をつけた帝国が、それを「究極の兵器」と誤認してアスター家を襲撃し、父を惨殺した。
父は、自分を生かすためだけに殺された。
そして自分は、自分を生かすために遺されたその技術を使って、人を殺し続けている。
部屋の中に、重苦しい静寂が満ちていた。
ノアは感情を交えずに図面を巻き直し、金属筒へと戻した。
「……アスター領へ向かう」
立ち上がったノアの声には、何の動揺もなかった。
「黒嶺鉱山には、心臓の核となる【星霊石】が封印されている。……父が遺した最後の計算を、僕が終わらせる」
少年の瞳は、深海の漆黒のまま、北の雪峰を見据えていた。
いつもお読みいただき、本当にありがとうございます!
カルディス編を終え、いよいよ物語は第5章【旧アスター領・黒嶺鉱山編】へと突入しました。
気づけば描写や感情の熱量が乗りに乗ってしまい、想定以上のボリュームと読み応えになっております……!
父が遺した設計図の真実、そして少年が選んだ冷徹な道。
ここから舞台は極寒の雪山へと移り、奪われた故郷と裏切り者への断罪が始まります。
10歳の死神が感情を殺して進む背中を、ぜひ最後まで見届けていただけたら嬉しいです。
「続きが気になる!」「切なすぎる……」と思っていただけましたら、
ブクマ登録や下部の【☆☆☆☆☆】からポイント評価をポチッといただけますと、執筆の最大のエネルギーになります!
次回、吹雪の黒嶺への進軍。どうぞお楽しみに!




