【第47話:「冷たい濃霧と、鉄の棺」】
歓楽の巨楼【紅蓮の楼閣】を後にしたノアは、混乱を極める繁華街の屋根伝いに影を滑らせ、予定通りカルディス港の最深部――第3埠頭の暗がりへと滑り込んだ。
荷揚げ用のクレーンや錆びついたコンテナが密集する波止場の死角。
冷たい海風が吹き抜ける中、夜の闇に同化するようにして身を潜めていたアッシュたち【夜鴉】が、低く身をかがめて迎えた。
「ノア様、無事のお戻りを! 子供たちはシオンがセーフハウスへ完全に収容いたしました。楼閣周辺の監視も、港湾警備隊の動きも含めて異常ありません」
「よくやった」
ノアは短く頷き、海へと視線を向けた。
海面には、不自然なほど濃密な白銀の霧が立ち込めていた。
視界はわずか数メートル先すら遮られ、港を巡回しているはずのカルディス警備艇の魔導灯が、霧の奥で頼りなく滲んでいる。
懐の通信魔導器が、極小の振動と共に一度だけ青い光を脈打たせた。
ノアは魔力を通し、ルナの声を受信した。
『……カルディス沖合全域の気象掌握、完了いたしましたわ』
遠く離れた王都から送られてくる、どこまでも甘美で冷え切った共犯者の囁き。
『王都魔導気象庁の管制コードを書き換え、カルディス湾内に超高密度の魔導濃霧を定着させました。沿岸警備のレーダーも光学走査も、この私の霧の前にはすべて無力。……ノア、この霧は私そのものですわ。私の吐息が、貴方を誰の目からも隠して差し上げます』
「十分だ。外周の攪乱をそのまま継続しろ」
『ええ、吉報をお待ちしておりますわ。……愛しい私の死神様』
通信が静かに断絶した。
ノアは埠頭の突堤に係留されていた、動力音を極限まで押し殺した小型の高速潜行艇へと飛び乗った。
操舵を担うアッシュが魔導舵を静かに握る。
「沖合、要塞直前まで全速で出します」
「ああ。……時間を無駄にするな」
午前三時二十分。
海上要塞司令官ゼノンによる生体魔力波長の上位監査まで――残り【四十分】。
小型艇はルナが降らせた濃密な霧の帳を裂き、波を立てずに沖合へと疾走した。
警備艇の索敵範囲を完全に欺瞞しながら進むこと十分。
突如として、白濁した霧の切れ間から、夜の海に屹立する巨大な鋼鉄の影が姿を現した。
海上要塞【鉄の棺】。
窓の一つすら存在しない、黒鉄の装甲板で隙間なく覆われた巨大な立方体。
外壁の至る所には、重魔導カノン砲の砲門がずらりと並び、海面と上空を隙間なく睥睨している。
生きている人間の気配が一切漂ってこない、まさに海に浮かぶ巨大な墓標。
「……ノア様、これ以上近づけば要塞外周の水流ソナーに感知されます」
「ここでいい。艇を停止させろ」
ノアは漆黒の外套の留め金を指先で締め直すと、ボートの縁に立った。
迷いは微塵もなかった。
音もなく身を躍らせ、冷たく暗いカルディスの海へと、矢のように飛び込んだ。
ドプン……。
極小の水音と共に、漆黒の冷水がノアの全身を包み込んだ。
常人ならば瞬時に低体温症と水圧に押し潰される深度。
だがノアは、バトラーから奪った【上位風魔法】を展開し、自らの頭部と胸部を極薄の真空・気流膜で覆った。
海水との接触を遮断し、極小のエアドームを形成して呼吸を完全に維持する。
さらに、ヴァネッサから喰らったばかりの記憶を展開。
要塞の外壁から海中へ絶え間なく放たれている、生体感知用の魔導ソナー。
ノアは自らの魔力波長に、ヴァネッサの記憶から引き出した『最高位生体魔力バイパスコード』を薄くコーティングした。
超音波のようなソナーの走査線がノアの体を通り抜けるが、防衛システムはそれを「迷い込んだ大型の海洋生物」と誤認し、警報を鳴らすことはない。
(……水深十五メートル。目標の海中大型排水孔)
ノアは指先を弾いた。
新スキル【微細魔力糸の操作術】。
放たれた数本の極細ワイヤーが、海流を切り裂いて要塞底面の装甲板の継ぎ目へと突き刺さる。
ノアは糸を一気に巻き取り、水圧をものともせずに水中を弾丸のように加速した。
やがて、黒鉄の要塞底面に、直径五メートルを超える巨大な円形トンネルが口を開けているのが見えた。
要塞内部の魔導冷却炉から、熱を帯びた海水を毎秒数十トン単位で排出し続ける『海中大型排水孔』。
トンネルの奥では、巨大な魔導スクリューファンが猛烈な速度で回転し、近寄るものすべてを粉砕する水流の壁を作り出している。
まともに突入すれば、即座に押し流されて水圧で圧殺される。
だが――ヴァネッサの記憶が告げていた。
定期冷却サイクルの合間、排水管の内部圧力を抜くために、わずか十数秒だけ水流が反転停止する『逆流洗浄』の瞬間が存在する。
ノアはトンネルの手前の岩礁に魔力糸で体を固定し、大気の気流感知を水流感知へと転用した。
押し寄せる水流の微細な圧力変動を、頭脳の奥で冷徹に計算する。
ゴオオオオオオ……という凄まじい排水音が、徐々にその周波数を落としていく。
水圧のベクトルがブレ始めた。
(……三、二、一)
カチリ、と要塞内部で巨大なバルブが切り替わる音が、水を通じて響いた。
ブシュゥゥゥ……ッ!
逆流洗浄プロトコル開始。
猛烈を極めていた海水の吐出がピタリと止まり、巨大な魔導ファンが停止、排水孔の周囲を展開していた防御結界の強度が一時的に七割カットされた。
水流が止まる、わずか【十五秒間の空白】。
「……遅い」
ノアは魔力糸を解除すると同時に、足の裏から極小の氷魔法の推進爆発を放ち、魚雷のような速度で排水孔の中へと突入した。
トンネルの内部を猛烈な勢いで突き進む。
目の前に立ちはだかる、巨大な六枚羽の停止した魔導ファン。
逆流洗浄が終われば再び超高速回転を始める鋼鉄の刃。
ノアは両手を突き出し、ファンの中央駆動軸へ【絶対凍土】の冷気波を流し込んだ。
カチキリキリッ……!
軸受の油と金属が一瞬で分子レベルで凍結し、機械構造を完全にロックさせた。
すり抜けるようにファンの隙間を突破したノアは、垂直に伸びる排水パイプを魔力糸で駆け上がった。
海面を抜け、空気が満ちたパイプの上層へ。
天井に設置されていた非常用点検ハッチを、盗賊の解錠術と氷のピックで瞬時にこじ開け、上空へと身を躍らせた。
バシャリ……。
全身に纏っていた気流膜を解除し、ノアは濡れた床の上へと静かに着地した。
水滴を払う間もなく、ノアは素早く周囲を索敵する。
重油と過熱蒸気の匂いが立ち込める、広大な鋼鉄の回廊。
壁面には無数の魔導パイプが張り巡らされ、規則的な機械の駆動音が低く響き渡っている。
人の声は一切しない。
あるのは、遠くの通路から響いてくる、規則正しく重々しい金属の足音――。
ガシャン、ガシャン、ガシャン……。
要塞内部を巡回する、ゼノンが配備した完全自律型の【重装魔導機甲兵】。
侵入者の生体反応を感知すれば、問答無用で灰燼に帰す無機質な処刑機械。
ノアは懐の小型時計に目を落とした。
現在時刻、午前三時三十五分。
ゼノンの上位監査――全拠点の生体魔力波長を一斉照合し、ガルフとヴァネッサの死が完全に露見する刻限まで。
残された時間は、わずか【二十五分】。
「……タイムリミットまで二十五分か」
ノアは深海の瞳を研ぎ澄まし、腰の短剣と指先の魔力糸に意識を集中させた。
外堀はすべて終わった。
十歳の死神は音もなく身を低くし、最後の標的――魔導工学師ゼノンが待つ要塞枢機部へと、鋼鉄の迷宮を駆け出した。
第47話をお読みいただき、ありがとうございます!
ルナの魔導濃霧による視界封鎖のなか、水深15メートルの暗黒の海へ潜行!
風の気流膜と魔力糸のワイヤーアクション、そして逆流洗浄のわずか15秒の隙間に巨大ファンを【絶対凍土】でロックし、難攻不落の海上要塞【鉄の棺】への潜入を果たしました。
巡回する無機質な重装魔導機甲兵、そしてゼノンの生体魔力波長監査まで残り【25分】。
最後の標的が待つ要塞枢機部への電撃攻略戦が始まります。
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次回もよろしくお願いいたします!




