【第48話:「五つの歯車と、鉄の棺」】
海上要塞【鉄の棺】、海面下冷却ブロック。
重油と過熱蒸気が立ち込める冷たい鋼鉄の通路で、ノアは濡れた漆黒の外套を払うこともなく、懐の通信魔導器を起動した。
指先から微小な魔力パルスを流し込み、事前に設定されていた【夜鴉】の暗号多元回線、そして王都の専用回線を一斉に同期させる。
「状況を通達する。……要塞内部への潜入に成功した」
低く、絶対零度の静寂を帯びたノアの声が、四つの受信核へと同時に響き渡った。
「現在時刻は午前三時三十五分。午前四時、ゼノンによる生体魔力波長の上位監査まで――残り【二十五分】だ。……これより最終電撃作戦を開始する。アッシュ、シオン、リア、ルナ。各自の持ち場へ移行しろ」
『『『御意に、ノア様!!』』』
『ええ、始めましょう。愛しい私の死神様』
三人の部下たちの苛烈な忠誠と、王都の悪逆令嬢の甘美な囁きが同時に返った。
「アッシュは海中排水孔のバルブを物理破壊し、退路を死守しろ。シオンは外壁を登攀し、頂上の大魔導アンテナを制圧、監査信号の送信を妨害しろ。リアは換気シャフトから最下層へ侵入し、ゼノンの緊急脱出ポッドを完全に破棄しろ。ルナは外部から防衛回線をハッキングし、要塞内部のセンサーを攪乱しろ」
「一手も遅れるな。……作戦を開始する」
通信を絞ると同時に、要塞の四方で、精密な死の歯車が一斉に噛み合って回転を始めた。
――カルディス沖合、漆黒の海中。水深十五メートル。
小型高速潜行艇の舵を握るアッシュは、冷徹な工兵の瞳を光らせていた。
眼前には、先ほどノアが突破したばかりの巨大な海中排水孔。
ノアが凍結させたファンの軸受が、逆流洗浄サイクルの終了に伴い、猛烈な油圧によって無理やり再稼働しようと軋み声を上げていた。
ファンが再び超高速回転を始めれば、ノアの脱出経路は完全に塞がれ、水圧の壁で圧殺される。
「ノア様の背中を塞がせるわけにはいかん」
アッシュは潜行艇の外装アームを操作し、元帝国工兵としての技術の粋を尽くした『高圧指向性魔導爆薬』を三本、排水孔のメイン油圧シリンダーへ正確に打ち込んだ。
遠隔起爆の魔導線を噛み合わせる。
「……吹き飛べ」
カチリ。
海中で音のない閃光が走り、超高圧の衝撃波がシリンダーを内側から破砕した。
ズズゥゥン……という鈍い震動と共に、駆動クランクが歪んで完全に噛み合い、巨大な魔導ファンは二度と回転することのない鉄屑へと成り果てた。
海中脱出ルートの物理固定、完了。
――海上要塞、外壁部。
海上数十メートルの上空、吹き荒れる夜風と白銀の濃霧の中。
シオン率いる夜鴉の登攀工作班は、一切の命綱を持たず、黒鉄の垂直装甲に食い込ませた『魔導アンカーワイヤー』一本を頼りに、目も眩むような絶壁を高速で駆け上がっていた。
下は渦巻く暗黒の海。一歩足を滑らせれば、装甲板に叩きつけられて即死する極限の領域。
「おい、遅れるなよ! ノア様にいただいた猶予は二十分だ!」
シオンは背中に背負った重盾の重量をものともせず、両手の手甲に仕込まれたクライミングスパイクを外壁の継ぎ目へ突き立て、跳躍するように高度を稼いでいく。
霧の切れ間、要塞の天蓋部分に、全拠点へ上位生体魔力波長を照射するための『超大型パラボラアンテナ』が巨大な影を落としていた。
その周囲には、外部迎撃用の自動ガトリング砲座が冷たく銃口を巡らせている。
「へっ、機械相手の喧嘩なら慣れっこだ。……ノア様がゼノンの首を獲るまで、王都への電波なんざ一本も通させねえよ」
シオンは重盾を構え、迎撃砲座の死角へと身を躍らせた。
――要塞最下層、非常用脱出ポッド格納庫。
冷たい蛍光魔導灯が照らす格納庫に、音もなく滑り込んだ一つの影があった。
【夜鴉】の暗殺執行官――リア。
彼女は音を完全に遮断する漆黒の特殊忍び装束を纏い、天井の換気ルーバーの隙間から、床の様子を冷酷に見下ろしていた。
眼下には、万が一の事態に備えてゼノンが用意している、小型の海中脱出ポッドが二基。
その周囲では、帝国制式の整備服を着た三名の技師が、魔導コンソールを操作しながら待機していた。
「警備回線にノイズが多いな……外の霧のせいか?」
「ゼノン様の午前四時の監査まであと少しだ、油断するなよ」
技師たちが言葉を交わした、その瞬間だった。
ヒュン……。
空気を切り裂く風切音すら存在しなかった。
天井から滑空するように垂直落下したリアは、着地の衝撃音すら殺したまま、中央の技師の背後に影のように密着した。
手にした細身の暗殺短剣が一閃する。
スパッ……。
「が――……」
声帯を確実に両断された技師の喉から、空気の抜ける音が漏れた。
床に血潮が落ちるよりも早く、リアは左手で男の頭部を抱え込み、音を立てずに床へと横たえる。
異常に気づいて振り返ろうとした残り二名の技師。
その二人の眉間へ、リアの袖口から射出された二本の極細投擲針が、寸分の狂いもなく深々と突き刺さった。
バタリ……。
物音一つなく、わずか二秒で三名の生体反応が消滅した。
リアは返り血の付着していない短剣を素早く拭い、冷たい無表情のまま脱出ポッドの魔導エンジン部へと歩み寄った。
内部の主動力炉へ、持参していた金属腐食酸の瓶を迷いなく流し込む。
ジュウウウ……と、激しい白煙と共に魔導回路がドロドロに溶け崩れていく。
「……ノア様の復讐を邪魔する泥棒猫に、逃げ場など与えません」
冷酷な呟きと共に、ゼノンの逃走手段は完全に消滅した。
――そして、要塞中枢へと続く主回廊。
ノアは足音もなく、灰色の鋼鉄の床を滑るように疾走していた。
耳元の通信器から、王都のルナの涼やかな声が滑り込んでくる。
『ノア、要塞のメインフレームへ侵入いたしましたわ。ゼノンが誇る完全自動防衛網……所詮は人間を排除しただけの、融通の利かない機械仕掛けの箱庭ですわね』
ルナの指先が、王都の大型魔導計算機を優雅に叩く光景が、ノアの脳裏に浮かぶ。
『中央通路の隔壁を強制解除。……ただし、直前の防衛ブロックに【重装魔導機甲兵】が二機、迎撃待機していますわ。五秒間だけ、機甲兵の生体感知レーダーをオーバーロードさせて目を潰します。……仕留められますこと?』
「十分だ」
ノアは減速することなく、前方の重金属扉へと突進した。
プシューッ!
ルナのハッキングによって、厚さ三十センチの防壁扉が自動で左右に跳ね上がった。
扉の向こう、広大な通路の真ん中に仁王立ちしていたのは、全身を黒鉄の複合装甲で覆い、右手に巨大な魔導チェーンソー、左手に重散弾銃を構えた二体の重装魔導機甲兵。
侵入者を感知した機械兵の単眼センサーが、赤く発光しようとした――その刹那。
パチパチパチッッ!!
ルナが外部から叩き込んだ高圧パルス信号により、機甲兵の頭部センサーが一瞬で過負荷を起こし、激しい火花を散らしてショートした。
視覚とレーダーを同時に喪失し、二機の巨体がほんの数秒間、硬直する。
「……遅い」
ノアはその隙を、絶対に見逃さなかった。
加速を維持したまま、指先から新スキル【微細魔力糸】を蜘蛛の網のように放射した。
放たれた極細の透明ワイヤーが、二機の機甲兵の首元――外部通信アンテナと制御中枢を繋ぐ主ケーブルへと滑り込み、寸分の狂いもなく絡みつく。
ギリッ!
ノアが指先を引き絞ると同時に、通信ケーブルが内側から綺麗に切断された。
要塞中央管制への警報発信を、物理的に完全遮断。
さらに、ノアはすれ違いざま、両の手のひらを二機の胸部装甲の隙間――魔導動力炉の排熱スリットへと真っ直ぐに突き入れた。
一流魔導師から奪った【絶対凍土】、そして【極限魔力圧縮】の同時解放。
「……分子凍結」
カチキリキリキリッ……!!
音も光もなく、超高密度の極低温冷気が機甲兵の動力炉の心臓部へと一瞬で奔流した。
過熱していた重油と魔導潤滑油が瞬時に凍りつき、駆動ピストンとギアが分子レベルで完全に脆化・停止する。
ドスン、と崩れ落ちそうになった数トンの巨躯を、ノアは周囲に張り巡らせた魔力糸で受け止め、音を立てずに床の上へと静かに横たえた。
わずか三秒。
一国の小隊を壊滅させるはずの最新鋭殺戮機甲兵が、物音一つ立てず、ただの冷たい鉄の塊へと解体されていた。
ノアは返り血のない外套を翻し、通路の最奥へと歩みを進めた。
眼前に立ちはだかるのは、要塞の頂点――最上層・中枢管制室へと続く、三重の巨大魔導防壁扉。
扉の隙間からは、巨大な蒸気タービンと魔導演算機の規則正しい駆動音、そして――かすかに漂う、父の技術を奪った男の気配が漏れ出ていた。
ノアは懐の時計を見た。
午前三時五十分。
ゼノンによる生体魔力波長の上位監査まで――残り【十分】。
「仲間たちの配置は完了した。退路も、外部通信も、脱出ポッドもすべて断った」
「……あとは、お前を解体するだけだ、ゼノン」
十歳の死神の瞳に、絶対零度の殺意が静かに灯った。
第48話をお読みいただき、ありがとうございます!
ノアの号令のもと、【夜鴉】の精鋭たちと王都のルナが同時に盤面を動かした電撃作戦回となりました。
アッシュによる海中退路の死守、シオンの決死の外壁登攀、リアの冷徹な脱出ポッド完全破棄、そしてルナの精密な回線ハッキング。
仲間の支援で生まれた隙を突き、ノアが新スキル【微細魔力糸】と【絶対凍土】で重装機甲兵を物音一つ立てず分子凍結・解体する連携劇でした。
午前4時の生体魔力監査まで、残された猶予は【10分】。
退路も逃げ場も断たれた鉄の棺の頂点で、いよいよ最後の標的・魔導工学師ゼノンとの直接対決が幕を開けます。
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