【第46話:「毒蜘蛛の終焉と、第二の青写真」】
第4層、ヴァネッサの豪華寝室。
氷結晶の短剣の切っ先が、宙吊りにされたヴァネッサの喉元へと容赦なくめり込んでいた。
皮膚の裂け目から一筋の鮮血が伝い落ち、冷たい金属の刀身を赤く濡らしていく。
「答えろ。……質問は二つだ」
ノアの声には、怒りも憎悪も、何の感情の揺らぎすら含まれていなかった。
ただ、冷徹に障害を排除し、目的の物品を回収するための、絶対零度の計算だけがそこに宿っている。
「一つ、アスター家から奪った古代遺産の設計図――その二枚目の在処。もう一つ、海上要塞【鉄の棺】の侵入ルートと、司令官ゼノンの弱点だ」
喉元を刃で押さえつけられたヴァネッサは、激痛と冷気に全身を震わせながら、濡れた瞳でノアを見つめ返した。
その妖艶な美貌は恐怖で青ざめ、先ほどまでの傲慢な毒婦の笑みは見る影もなく崩壊している。
「い、言えば……助けてくれるの……? 殺さないって……約束してくれる……?」
「質問に質問で返すな」
ノアは短剣の角度をわずかに変え、刃をもう一ミリ深く肉へと押し込んだ。
チクリとした激痛に、ヴァネッサの喉から悲鳴が漏れる。
「お前に交渉のカードは一枚も存在しない。答えるか、それとも四肢を凍結粉砕された後に脳を直接喰われるか。二者択一だ」
ノアの深海の瞳の奥で、底知れぬ捕食者の暗黒が渦を巻いている。
その視線を受け、ヴァネッサの防衛本能は完全に砕け散った。
この子供は、脅しで言っているのではない。
本気で、一秒のためらいもなく人間の脳を喰らう化け物なのだと、魂の芯で理解させられたからだ。
「わ、分かったわ……! 言う、全部言うわよ……っ!」
ヴァネッサは痛みに喘ぎながら、部屋の奥――大理石で作られた巨大な暖炉を震える視線で指し示した。
「暖炉の奥よ……! 暖炉の火格子を右に回すと、背面のレンガがスライドして隠し金庫が現れるわ……っ! その中に、王都のアスター家から持ち出された設計図の二枚目が入っているの……!」
「……そうか」
ノアは表情一つ変えずに呟いた。
だが、ノアが展開している【上位風魔法】による微細気流探知は、ヴァネッサがその言葉を発した瞬間の、心拍数の急激な跳ね上がりと、眼球の微小な痙攣を完璧に捉えていた。
(……心拍数の乱れ。呼吸のわずかな滞り。そして、焦燥を隠そうとする無駄な演技)
ノアはアルベルトから得た毒物学の知識を展開する。
娼館の主であり、毒の扱いに長けたこの女が、自分の最重要の金庫に何の防衛罠も仕掛けていないはずがない。
(暖炉の火格子を動かすと開く、か。……おそらく、その金庫には触れた瞬間に致死毒が噴出する自爆装置、あるいは開錠者を即座に射殺するトラップが連動しているな)
最後まで悪あがきを捨てきれず、罠へと誘い込もうとする毒蜘蛛の浅知恵。
ノアは宙吊りのヴァネッサを放置したまま、暖炉へ向かって歩き出した。
「あ、開ける時は慎重にね……? 繊細な魔導錠だから、少しでも魔力を間違えると中の書類が焼失しちゃうのよ……」
背後から、ヴァネッサの必死に平静を装った声が飛んでくる。
ノアを金庫の至近距離まで引き寄せ、トラップを確実に浴びせようとする誘導。
ノアは暖炉の前に立ち止まった。
だが、火格子へ手を伸ばすような真似は決してしなかった。
ノアは右手を静かに持ち上げ、五本の指先を軽く宙で弾いた。
ギルバートから喰らったばかりの新スキル――【微細魔力糸の操作術】。
シュルルッ……!
指先から放たれた極細の透明な魔力糸が、まるで意思を持った蛇のように宙を這い、暖炉の奥の火格子へと絡みついた。
ノアは暖炉から五メートル以上離れた安全圏に立ったまま、指先をわずかに引き絞った。
カチリ。
火格子が右へと滑らかに回転した。
ゴゴゴ……という重々しい駆動音と共に、暖炉背面の耐火レンガが左右にスライドし、黒鉄で作られた堅牢な隠し金庫が姿を現した。
その金庫の表面には、アスター家特有の三連歯車を模した精緻な鍵穴が刻まれていた。
かつてアスター家の書斎で、父が大切に管理していた金庫と全く同じ構造。
ノアは魔力糸の先端に、一流魔導師から奪った【氷属性魔法】の魔力を通した。
冷気を帯びた魔力糸が鍵穴の内部へと侵入し、シリンダーの凹凸を正確になぞりながら、分子レベルで極小の『氷ピック』を急速成形していく。
カシャッ、カシャカシャ……。
盗賊の物理解錠ロジックと、氷の精密造形が完全に噛み合う。
シリンダーの全ピンが一斉に押し上げられ、内部のロックが解除された。
その瞬間――。
バシュゥゥゥッッッ――!!
金庫の扉がわずかに開いた刹那、隙間から部屋全体を覆い尽くすほどの勢いで、数百本に及ぶ黒紫色の極細毒針が全方位へと爆発的に射出された。
空気を切り裂く無数の飛翔音。
針の先端には、微量でも皮膚に触れれば数秒で血液を凝固させて心停止に至らしめる、超高濃度の即死毒が塗りたくられていた。
「……っ!?」
ベッドの上で宙吊りにされていたヴァネッサの顔が、絶望に歪んだ。
金庫に近づいた子供を確実に蜂の巣にするはずだった、必殺の自爆迎撃トラップ。
だが、ノアは最初から金庫の正面にはいなかった。
ノアは左手を無造作に掲げ、自らの前方に極厚の氷壁を一瞬で展開した。
ガガガガガガッッ!!
甲高い衝突音を立てて、猛毒の針の雨がすべて氷壁の表面へと突き刺さり、完全に弾き落とされた。
一本たりとも、ノアの衣服をかすめることすら許されない。
「ば、化け物……っ!? なんで、近づかないで開けられるのよ……っ!?」
ヴァネッサの悲鳴が部屋に木霊した。
毒針の散布が収まった後、ノアは氷壁を消滅させ、静かに金庫の中へと歩み寄った。
煙を上げる金庫の底板。
そこに、厳重な革張りの筒に収められた一枚の羊皮紙が、無傷のまま横たわっていた。
ノアは筒を開け、中の羊皮紙を引き出した。
深青のインクで緻密に描かれた、巨大な魔導回路と動力機関の断面図。
用紙の右下には、ノアにとって見紛うはずもない――アスター家の家紋である『双頭の鷲と三連歯車』の刻印。
(……間違いない。アスター家の古代遺産設計図、その二枚目だ)
一枚目は王都のガルフを討ち取った際に回収した。
そして今、二枚目を手中に収めた。
残る最後の一枚は――カルディス沖合の海上要塞【鉄の棺】、司令官ゼノンが所持している。
設計図を丸め、上着の内ポケットの最も安全な魔導防護層へと収める。
ノアはゆっくりと振り返り、青ざめて震えるヴァネッサの前へと戻ってきた。
「ひ、ひぃぃ……っ! 設計図は手に入ったでしょう……!? もう許して、私を解放して頂戴……っ!」
命乞いを叫ぶヴァネッサを見下ろすノアの瞳は、微塵の温度も宿していなかった。
「……金庫に毒針の罠を仕込み、最後まで俺を殺そうと足掻いたな」
「そ、それは……っ、違うの、あれは最初から仕掛けてあった防犯用で――」
「見苦しい言い訳だ」
ノアは冷たく遮った。
「嘘をつき、毒針で殺そうとした時点で、お前の生殺与奪の猶予は完全に消滅した。……残る海上要塞の情報は、お前の口から聞く必要はない」
ノアは右手を持ち上げ、宙吊りにされたヴァネッサの額へと、無造作にかざした。
「ひっ……や、やめて……何を、何をする気なの……ッ!?」
「『冥界神の捕食』」
ドス黒い、底知れぬ冥府の瘴気が、ノアの小さな手のひらから噴き出した。
それはヴァネッサの頭部を包み込み、頭蓋を透過して、彼女の魂と脳髄の記憶領域へと直接喰らいついた。
「あああ……っ!? ぎゃああああああっっっ……!!」
常絶の絶叫が、ヴァネッサの喉から引き裂かれるように響き渡った。
脳の神経細胞を直接素手でかき回され、生涯の記憶と技術を生きたまま引き剥がされる、この世の如何なる拷問をも凌駕する魂の苦痛。
ヴァネッサの意識の奥底へ、ノアの冷徹な精神が雪崩れ込んでいく。
その過程で、ヴァネッサの薄れゆく視界に、ノアという存在の『精神の深淵』が、逆流するように一瞬だけ垣間見えた。
そこにあったのは、十歳の子供などではない。
王都で家族を皆殺しにされ、絶対零度の復讐心だけで生き続ける漆黒の死神。
そして――その死神と魂の底で結びつき、冷酷な笑みを浮かべながら国家権力を平然と私物化して微笑む、銀髪の悪逆令嬢ルナ・ローゼンバーグの姿。
(な、何なの……この子供……っ!? こんな……こんな化け物と、王都の公爵令嬢が手を組んでいるの……!?)
自分のような娼館の毒婦など、足元にも及ばない。
この少年と令嬢の二人が組めば、カルディスの裏社会どころか、帝国の特務機関【黒鉄】ですら根底から食い破られ、地上から消滅させられる。
(……ああ、私たちが……手を出してはいけない……本物の怪物を……呼び覚ましてしまったんだ……)
真の絶望と恐怖を理解した瞬間、ヴァネッサの自我は完全に崩壊し、魂の光がプツリと断絶した。
ゴクン……と。
ノアの肉体へと、膨大な情報と新たな魔導回路が統合されていく。
ノアの頭脳に、カルディス沖合に浮かぶ巨大海上要塞【鉄の棺】の全貌が、鮮明な立体図面となって展開された。
(……なるほどな。これが要塞の構造か)
ヴァネッサの記憶から引きずり出した情報は、極めて致命的かつ有益だった。
第一に、【海上要塞への極秘侵入ルート】。
要塞の正面は超重量の魔導装甲と迎撃砲台で固められているが、海面下十五メートルに、要塞内部の魔導冷却炉から海水を排出するための『海中大型排水孔』が存在すること。
定期的な逆流洗浄のタイミングであれば、結界の強度が一時的に三割まで低下する。
第二に、【司令官ゼノンの行動特性と認証コード】。
魔導工学師ゼノンは人間を極度に不信し、要塞の防衛全般を完全自動迎撃システムに委ねていること。
そして、幹部たちに配布されていた『最高位生体魔力バイパスコード』の波長データ。
これがあれば、要塞の外部感知センサーを欺瞞し、内部枢機へ直接ハッキングを仕掛けることが可能となる。
第三に、新スキル【生体猛毒の精製・付与】の獲得。
アルベルトの調合知識と、ヴァネッサの生体内毒素生成メカニズムが融合。
ノアは自身の魔力を用いて、体内で瞬時に神経毒・凝固毒・麻痺毒を合成し、それを氷の針や氷晶の糸へと自在に付与することが可能となった。
事切れたヴァネッサの遺体は、瞳孔を開いたまま力なく宙に揺れていた。
ノアは短剣を一度振り、血を払うと鞘へと収めた。
そして、右手を掲げて冷気を放ち、ヴァネッサの遺体と散乱した毒針を、部屋の調度品ごと瞬時に分厚い氷の棺の中へと封じ込めた。
これで、悪臭や血痕が外へ漏れ出すことはない。
ノアは懐から通信魔導器を取り出し、暗号回線を起動した。
「アッシュ、聞こえるか」
『はっ、ノア様! こちら外周部隊、異常ありません! 第2層の子供たちも、シオンが無事にセーフハウスへと収容いたしました』
「よくやった。これより楼閣の脱出へ移行する。外周の監視を維持しつつ、港の第3埠頭へ退避しろ」
『御意に!』
アッシュとの通信を切り、王都の回線へと接続する。
ウィンドウの向こう側で、ルナが冷徹な参謀の瞳でノアを見つめていた。
『……首尾はいかがですの、ノア?』
「設計図の二枚目を回収した。第二の幹部ヴァネッサの処分も完了した」
『まあ……! さすがですわ、私のノア。やはり貴方は世界で一番美しく、冷酷な死神ですわね』
ルナの口元に、妖艶で甘美な笑みが咲き誇った。
「ゼノンの上位監査まで、残り時間は」
『現在時刻は午前三時十分。……残り【五十分】ですわ』
五十分。
この巨楼を脱出し、カルディスの港へ移動し、沖合の海上要塞【鉄の棺】へ侵入するまでの全タイムリミットだった。
「十分だ。……これより港へ向かう」
ノアは外套の裾を翻し、冷たい静寂が支配する部屋から、夜の闇へと身を躍らせた。
第46話をお読みいただき、ありがとうございます!
金庫の毒針トラップを【微細魔力糸】と氷壁で見破り、アスター家の古代遺産設計図(2/3)を無事回収!
さらにヴァネッサを捕食し、新スキル【生体猛毒の精製・付与】と、海上要塞【鉄の棺】の極秘侵入ルート(海中排水孔)を強奪しました。
ノアとルナの底知れぬ狂気を前に、真の絶望の中で果てた毒蜘蛛の幕引きでした。
ゼノンの上位監査まで、残された猶予は【50分】。
舞台はいよいよ、海上に浮かぶ難攻不落の要塞へ移ります。
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次回もよろしくお願いいたします!




