【第39話:「冷たいスープと、偽りの定時連絡」】
海霧が窓枠を濡らし、かすかな潮鳴りが届く、カルディスの高台に佇む廃教会。
割れたステンドグラスの隙間から差し込む冷たい夜風を遮るように、礼拝堂の片隅で、パチパチと薪がはぜる小さな焚き火が赤く揺れていた。
「……あ、熱いから、気をつけて飲むのよ」
夜鴉の幹部であるリアが差し出した素朴な木椀から、白い湯気と共に、魚介の濃厚な出汁と乾燥ハーブの香りが立ち上る。
泥に汚れた衣服の上から分厚い毛布に包まれ、小さく身を縮こまらせていたエマが、両手でおずおずと椀を受け取った。
一口、恐る恐る口に含んだ瞬間、エマの大きな瞳から、止めどなく大粒の涙が零れ落ちる。
「……おいしい……。すっごく、あったかいよ、お兄ちゃん……」
「エマ、こぼすなよ。……あ、あの、本当に、ありがとうございます……!」
兄のフィンもまた、震える両手で木椀を抱え込み、スープを啜りながら何度も何度も頭を下げた。
カルディスのスラムで生まれ育ち、母親を亡くしてからというもの、二人が口にしてきたのは残飯か、泥水混じりの濁ったスープだけだった。
人攫いの荒くれた男たちに捕らえられ、暗く不潔な奴隷待機牢で飢えと暴力に怯えていた昨日までの地獄。
それが、まるで遠い悪夢であったかのように錯覚してしまうほどの、確かな温もり。
礼拝堂の影に控えるシオンや、物陰から周囲を警戒する夜鴉の少年少女たちも、無言のまま、静かに二人の姿を見つめていた。
かつて、帝国や教会の非人道的な生体実験の『失敗作』として、胸や骨格に魔石を埋め込まれたままスラムの廃棄場に捨てられていた自分たち。
飢えと激痛に震え、泥水を啜って野垂れ死ぬはずだったあの日、ノアが差し出してくれた硬いパンと、冷たい眼差しの奥にあった「生きるための居場所」。
その痛切な記憶が、今、目の前でスープを啜る幼い兄妹の姿と重なり合っていた。
「……ノア様」
アッシュが視線を巡らせる。
ノアは焚き火の温もりには一切近づかず、一段高い朽ちた祭壇の前に、漆黒のコートを纏って一人佇んでいた。
その手には、先ほど地下闘技場の隠し金庫から奪還したばかりのアスター家の設計図――淡い青の魔力光を放つ精密な羊皮紙が握られている。
フィンはスープを飲み終えると、妹の頭をそっと撫で、意を決したように立ち上がった。
そして、祭壇の前に立つ十歳の少年の背中へと駆け寄り、床に両膝をついて深々と頭を擦り付けた。
「あの……ノア様」
ノアは振り返らない。冷え切った横顔のまま、静かに告げた。
「腹を満たしたら、そこで眠れ。……お前たちのくだらない身の上話を聞く趣味はない」
突き放すような、絶対零度の声音。
だが、フィンは逃げ出さなかった。泥と血で汚れた小さな拳を強く握りしめ、必死に声を絞り出す。
「お礼を……僕たちに、お礼をさせてください! 僕たちは戦う力も魔法もありません。でも……僕、物心ついた時からずっとカルディスの路地裏で生きてきたから、街の裏側のことなら、どんな大人よりも知っています!」
「……ほう」
ノアがわずかに視線を動かした。
感情の光を宿さない、底知れぬ深海の瞳が、跪くフィンを射抜く。
「次の標的は、歓楽街の中枢にある最高級娼館……【紅蓮の楼閣】なんですよね? アッシュさんたちが話しているのを聞きました」
「盗み聞きか。首を刎ねられても文句は言えんな」
「殺されても構いません! 恩を返せるなら……エマを生かしてくれるなら、何だって話します!」
フィンは額に青筋を立てながら、床の埃の上に指先で手際よく地図を描き始めた。
「あの建物は、元々は帝国の富豪が建てた迎賓館を改装した巨大な楼閣です。表の大通りに面した玄関や見晴らしのいいバルコニーは、ヴァネッサの配下である私兵や術士たちが昼夜を問わず厳重に固めていて、ネズミ一匹通れません。……でも、一つだけ、奴らが見落としている場所があります」
フィンの指先が、建物の最下層――地下水路と接する裏手の暗渠を指した。
「【巨大排気ダクト】です。楼閣の内部では、裕福な客を酔わせるための特殊な香や、熱気、酒の匂いが常に充満しています。それを街の外へ逃がすために、建物の心臓部から裏通りへと抜ける、大人が一人這って通れるほどの太い排気パイプが、地下のゴミ捨て場に直結しているんです」
「……排気ダクトか」
アッシュが音もなく歩み寄り、フィンの描いた略図を鋭い視線で見つめた。
「確かに、娼館という場所柄、強い匂いのアロマや媚薬の類を常時焚き染めているはずだ。その強制排気口なら、防犯結界の網の目を潜り抜けられる死角になり得る」
「はい! スラムの子供たちが、冬場に暖を取るためにあのダクトの排気口のそばに集まるんです。だから構造は頭に入っています。網の目のロックの外し方も、僕なら案内できます!」
必死に訴えかけるフィンの瞳には、ただ助けられただけの子供ではない、生き残るために泥を啜ってきたストリートチルドレンの覚悟が宿っていた。
ノアは羊皮紙を懐へ収めると、静かに息を吐いた。
「……アッシュ。そのダクトの位置と外周の配備を照合しろ」
「御意に」
「フィンと言ったな」
「は、はい!」
「役に立たなければ、そのダクトの中に置き去りにする。……せいぜい、拾われた価値を証明してみせろ」
ノアの厳しい言葉に、フィンの顔が一気に明るくなった。
「はい! ありがとうございます、ノア様……ッ!」
リアがくすりと小さく笑い、怯えるエマの背中を優しく撫でる。
ノアが不器用な形でフィンの存在意義を認め、居場所を与えたことを、夜鴉の面々は痛いほどに理解していた。
廃教会の地下、かつて懺悔室として使われていた小部屋。
外部への魔力漏洩を完全に遮断した閉鎖空間で、祭壇の上に据えられた公爵家専用の暗号通信機が青白い光を灯していた。
空間に揺らめく立体映像の中に、王都のローゼンバーグ公爵邸で優雅にワイングラスを傾ける銀髪の美少女――ルナの姿が映し出される。
『――あら、ノア。少し見ない間に、また可愛らしい雛鳥を拾い集めたようですわね?』
扇子の陰から覗くルナの双眸には、極上の微笑みと、背筋が粟立つような底知れぬ独占欲が妖しく揺らめいていた。
『私という唯一無二の共犯者がいながら、路地裏の子供に情をかけるなんて……少しだけ、胸がチクチクと痛みますわ。あの子供たち、今すぐ私の私兵に命じて、遠くの修道院へでも送ってしまいましょうか?』
甘く、それでいて真綿で首を絞めるような声音。
しかし、ノアは眉一つ動かさず、冷徹に切り捨てた。
「嫉妬の真似事は後にしろ、ルナ。使い道があるから拾っただけだ。……それよりも、ガルフから回収したデータの照合はどうなっている」
ノアが無機質なビジネスの態度を崩さないことに、ルナは小さく溜息をつき、蕩けるような笑みを深めた。
『ふふっ、つれないところも本当に愛らしいこと。……ええ、完璧ですわ。ガルフの死体から喰らったという帝国特務機関【黒鉄】の暗号コード、王宮の魔導技師たち総出で解析を完了いたしました』
ルナが細い指を滑らせると、通信機の横に複雑な暗号列と通信ログが展開された。
『ガルフが所属していた部隊の定時報告周期は、四半刻に一度。すでにガルフの個人端末の魔力波長を偽装し、王都の公爵邸を経由したダミー通信を、カルディス沖合の海上要塞【鉄の棺】へ送信し続けておりますわ』
「偽装内容は」
『「闘技場にてネズミ数匹を捕獲、尋問中。異常なし」……ですわ。あの頭の固い工学師ゼノンも、この暗号プロトコルがガルフ本人の脳内データから抜き取られたものだとは、夢にも思っていないでしょうね』
ルナの完璧な盤外戦術。
この情報操作によって、海上要塞のゼノンも、娼館のヴァネッサも、「ガルフがすでに殺され、設計図の三分の一が奪われた」という事実にまだ気づいていない。
敵の初動を完全に封じ込め、各個撃破するための絶対的な時間的猶予が、今まさに作られていた。
「上出来だ。……それで、次なる獲物、ヴァネッサのデータは」
『もちろん、抜かりはありませんわ』
ルナの瞳が、冷酷な狩人の光を帯びる。
『最高級娼館【紅蓮の楼閣】の女主人、“毒蜘蛛”ヴァネッサ。彼女の扱う最大の凶器は、帝国の禁忌指定魔導毒――【紫煙】を希釈・改良した神経幻覚毒【紅蜘蛛の吐息】ですわ』
通信機の光が、紅色の霧のような分子構造を映し出す。
『微量を吸い込むだけで思考能力を奪われ、甘美な幻覚の中で廃人と化す精神毒。建物全体に張り巡らされた魔導配管から、常に微量のアロマとして噴霧されており、楼閣に入った者は無意識のうちにヴァネッサの支配下に置かれます。……いかに貴方の【冥界神の捕食】が強大であろうと、意識を失ってしまえば発動すら叶いませんわよ?』
「毒と幻術、か」
ノアの口元に、冷たい三日月が刻まれる。
「心配いらん。……俺の体の中には、すでに奴の天敵が揃っている」
かつて王都で大聖堂の聖騎士から喰らい、その身に刻み込んだ、あらゆる邪悪や幻惑を焼き払う【光属性魔力】。
そして、地下カジノのオーナー・バトラーから奪い尽くした、空気中の気圧と気流を自在に操る【上位風属性魔法】。
幻覚は光の魔力で精神の内側から看破し、充満する毒気は風の圧縮波で建物の外へ逆流させればいい。
すべては、これまで喰らってきた敵の記憶と技術によって、計算通りに解体可能なロジックの範疇だった。
「ルナ。楼閣の周囲の警備隊と、街の表の役人どもを抑えろ。どれほど中で騒ぎが起きようと、外からの介入を許すな」
『ええ、お任せなさいな、ノア。……その代わり、ヴァネッサの首を獲ったら、すぐに無事な顔を見せてくださいね? 貴方の香りが恋しくて、狂ってしまいそうですもの』
ルナの熱い吐息を残し、通信機の青白い光が静かに消えた。
深夜二時。
歓楽街の熱気がピークを迎え、酔客や商敵たちの狂乱が渦巻く中、ノアたち【夜鴉】は廃教会を出撃していた。
海霧の立ち込める裏路地を、影のように疾走する黒衣の集団。
やがて彼らの眼前に現れたのは、朱色に塗り込められた豪奢な五層の巨楼――最高級娼館【紅蓮の楼閣】だった。
極彩色の魔導ランタンが妖しく揺れ、格子窓の隙間からは、甘く重苦しい香の匂いが夜風に乗って漂ってくる。
常人であれば、その匂いを嗅いだだけで足元がふらつき、理性を溶かされるであろう、神経幻覚毒の気配。
「……あそこです」
路地の物陰から、フィンが指を差した。
楼閣の裏手、ゴミ捨て場の奥に口を開けている、太い鉄格子の排気口。
微かに吹き出す温かい空気の中に、建物内部の妖しい紫の蒸気が混ざり合っている。
「フィン、エマ。お前たちはここまでだ」
ノアが冷たく告げると、フィンは力強く頷いた。
「はい! ここから先は、ダクトが三股に分かれています。一番右の配管を登れば、ヴァネッサのいる最上階の『紅蓮の間』の真下に出られます!」
「上出来だ。……シオン、この二人を安全な中継地点まで護衛しろ。残りの夜鴉は、楼閣の外周の退路を封鎖」
「「御意に」」
ノアは外套のフードを深く被り、排気口の鉄格子へと歩み寄った。
右手を翳し、極小の【風魔法】で鉄格子のボルトを無音で切断する。
カラン、と音を立てる前に氷の糸でキャッチし、静かに隙間を開け放った。
暗いダクトの奥から吹き寄せてくる、甘美で毒々しい風。
ノアは深海の瞳を細め、血管の奥で疼く『冥界神の捕食』を静かに呼び覚ました。
「毒蜘蛛の巣か。……せいぜい、美味い毒であることを祈るよ」
十歳の冷徹な死神は、迷いなく漆黒のダクトの中へと、その身を滑り込ませていった。
帝国特務機関【黒鉄】の第二の幹部、“毒蜘蛛”ヴァネッサの狩りが、今、静かに幕を開けた。
第39話をお読みいただき、本当にありがとうございます!
前話で助け出されたフィンとエマ。
温かいスープを啜り、涙を流す二人の姿に、かつての自分たちを重ねる夜鴉たちの絆が少し垣間見えた回となりました。
そして、ただ守られるだけで終わらず、泥水の中で生きてきた意地を見せて「裏の抜け道」をノアに差し出すフィンの覚悟。
不器用ながらもその存在価値を認めるノアの態度に、夜鴉たちも胸を熱くしています。
一方、王都からは我らがルナ様が登場。
「私以外の雛鳥を拾うなんて……」と甘く危険な嫉妬を覗かせつつも、ガルフの脳内データを用いた完璧な偽装定時連絡で、敵を完全に欺いてくれました。
やはりこの二人の共犯関係は盤石ですね。
いよいよ次話から、カルディス編の第二の関門――“毒蜘蛛”ヴァネッサが支配する【紅蓮の楼閣】の内部攻略戦が幕を開けます。
建物全体に充満する神経幻覚毒【紅蜘蛛の吐息】と、妖艶な女主人ヴァネッサの罠に対し、十歳の死神ノアがこれまでに喰らってきた「光」と「風」の魔術ロジックをどうぶつけて解体していくのか。
第40話もどうぞお楽しみに!
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