【第40話:「冷気の楔と、暗渠の毒粘液」】
深夜の歓楽港町カルディス。
地上では極彩色の魔導ランタンが毒々しく瞬き、酒と香水、そして人間の剥き出しの欲望が熱気となって渦巻いている。
その喧騒から隔絶された、最高級娼館【紅蓮の楼閣】の裏手――ゴミと泥水が堆積する暗い裏路地。
ノアは外した鉄格子の隙間から、地下へと続く暗い排気ダクトの中へと、音もなくその身を滑り込ませた。
ひやりとした鉄の冷気が、肌を撫でる。
直径一メートルほどの太い鉄製パイプ。
フィンが教えた通り、この配管は楼閣内部の熱気とアロマを逃がすための換気ルートであり、建物の最下層から縦横に張り巡らされている。
だが、数メートルほど腹這いで進んだところで、ノアの鋭利な感覚が、空気のわずかな『異変』を捉えた。
(……チッ。やはり、ただの抜け道であるはずがないな)
前方から漂ってくる、生臭い腐敗臭。
ノアは前髪の奥で深海の瞳を細め、前方の暗闇へと意識を集中させた。
視界の先――ダクトが垂直に上方へと折れ曲がる手前の一帯に、赤黒い光沢を放つ粘着質な液体が、床から側壁、天井に至るまで、びっしりと塗りたくられていたのだ。
帝国の錬金術によって生み出された防御トラップ――生体毒粘液【酸食の蜘蛛網】。
触れた瞬間に猛烈な粘着力で獲物を拘束し、衣服や皮膚を骨まで溶かし尽くす強酸性のトラップである。
スラムの浮浪児や泥棒がダクトから侵入しようとすれば、この粘液に足を取られ、声も出せずにドロドロに溶かされて処分される仕組みになっていた。
「生きたまま溶かして排水溝へ流すか。……安直だが、死体を片付ける手間が省ける合理的な仕掛けだな」
ノアは小さく呟いた。
恐怖も嫌悪もない。ただ、敵の防衛ロジックを冷徹に検分する観察者の目。
通常であれば、火炎魔法で焼き払うか、時間をかけて酸を中和する薬品を撒くしかない難所。
だが、火を使えばダクトを通じて館内に煙が充満し、敵に侵入を察知される。薬品を使う時間など、今のノアにはない。
ノアは右手を前へと突き出した。
脳内で展開するのは、かつて王都で一流魔導師から喰らい、自らの血肉とした氷属性魔法の緻密な構築式。
自身の魔力を、一切の音を立てることなく指先へと収束させていく。
「……凍れ」
無詠唱。
ノアの指先から、絶対零度の冷気が糸のように細く、しかし猛烈な密度で撃ち出された。
キリキリキリッ……!!
微かな凍結音と共に、赤黒く泡立っていた強酸性の粘液が、瞬く間に白く凍りついていく。
超低温によって分子運動を完全に停止させられた粘液は、その強烈な酸性と粘着力を完全に失い、ただの脆い氷の膜へと変質していった。
ノアは風魔法をわずかに纏わせた靴底で、凍結した粘液の表面を軽く踏み抜いた。
パリン、パリンッ、と乾いた音を立てて、氷漬けになった毒粘液が粉々に砕け散り、無害な粉塵となってダクトの底へと散っていく。
一滴の酸もノアの衣服に触れることなく、難攻不落のはずの生体トラップは、わずか数秒で完全な『安全地帯』へと成り果てた。
(……トラップを抜けた先、垂直シャフトの登攀か)
ノアは折れ曲がったダクトの角から、天井を仰ぎ見た。
太いパイプが、遥か上層へと向かって煙突のように垂直に伸びている。
フィンが言っていた「三股の分岐」が、約十メートルほど頭上に見えていた。
中央の太い配管は一般客のフロア、左の配管は厨房と従業員の待機所、そして一番右の細い配管が、最上階のヴァネッサの部屋へと通じている。
だが、ノアは右の配管へは向かわなかった。
(フィンは『最上階へ直通している』と言っていた。……だが、それは敵の防衛側にとっても『最も警戒すべき一本道』に他ならない)
ヴァネッサが帝国特務機関【黒鉄】の幹部であるならば、最上階の寝室に直結する排気ルートに、何重もの警報結界や感知術式を仕掛けていないはずがない。
いきなり最上階へ飛び込めば、館全体の防衛システムが一斉に作動し、大包囲網を敷かれるリスクが高すぎるのだ。
(まずは、外堀を埋める。……この楼閣の心臓部、毒の調合と換気を一括管理している『地下動力室』を落とすのが先決だ)
敵の循環システムそのものを掌握しなければ、館内に満ちる毒気も、張り巡らされた魔導配管も、常に敵の優位に働き続ける。
ノアは足元に微小な風の噴射を起こし、自身の体を重力から解放した。
ふわりと宙へと浮き上がり、鉄パイプの壁面に爪先を触れさせながら、音もなく垂直シャフトを滑り上がっていく。
そして、三股の分岐の手前。
地下の基礎構造を支える分厚いコンクリートの隙間に、点検用の小さな鉄扉があるのを、ノアの深海の瞳は見逃さなかった。
扉の隙間から漏れ出してくる、鈍い機械の駆動音と、ツンと鼻を突く薬品の臭気。
(……ここだな)
ノアは空中に静止したまま、左手を鉄扉の鍵穴へと翳した。
かつて喰らった熟練盗賊の記憶を引き出し、魔力で細く成形した氷のピックを鍵穴の内部へ滑り込ませる。
内部のシリンダーの配置を瞬時に読み取り、ピンを一本ずつ押し上げていく。
カチリ。
重々しい金属錠が、水滴が落ちるほどの微かな音を立てて外れた。
ノアは扉をわずかに数ミリだけ押し開き、内部の様子を冷徹に観察した。
そこは、薄暗い蒸気と緑色の魔導灯に照らされた、広大な『地下動力室』だった。
巨大な鉄製の換気ファンが重低音を響かせながら回転し、部屋の壁一面には、無数のバルブや圧力計が取り付けられたパイプが網の目のように張り巡らされている。
そして部屋の中央――蒸気が立ち込める調合台の前で、白衣を纏った数名の術士たちに指示を飛ばしている一人の男の姿があった。
「おい! 3番バルブの圧力を上げろ! 今夜は王都から上客が来ているんだ、2階のVIPルームの【紅蜘蛛の吐息】の濃度を二割増しにしろ!」
「は、はい、アルベルト様!」
男の背中には、緑色の薬液が詰まった巨大なタンクが背負われ、その両腕は、無数の注射針が仕込まれた不気味な魔導義手で覆われていた。
ヴァネッサの配下にして、この楼閣の毒の精製と散布を一手に担う換気管理者――“毒調合師”アルベルト。
(……なるほど。あの男が、館全体の毒の供給を握っている『心臓』か)
ノアの口元に、絶対零度の冷笑が浮かぶ。
最上階の女狐へ手を伸ばす前に、まずはその手足を一本、音もなくへし折る。
十歳の死神は影のように鉄扉の隙間をすり抜け、蒸気煙る地下動力室の闇の中へと、静かに降り立った。
第40話をお読みいただき、本当にありがとうございます!
今回から本格的にスタートした、最高級娼館【紅蓮の楼閣】潜入攻略編。
フィンが教えてくれた排気ルートでしたが、案の定、侵入者をドロドロに溶かす強酸性の生体トラップが仕掛けられていました。
しかし、火や中和剤を使わず「絶対零度の冷気で分子運動ごと凍結させて踏み砕く」という、ノアならではの合理的かつ無音の解体劇。
さらに、「最上階へ直通する一番わかりやすい道」は敵も一番警戒しているはずだと見抜き、あえて安直な近道を選ばずに毒の供給源である『地下動力室』を先に落としにいく判断は、まさに歴戦の暗殺者といった風格です。
そして潜入した動力室で待ち構えていたのは、義手に注射針を仕込んだ毒の換気管理者・アルベルト。
館全体の毒気の散布スケジュールと配管構造を掌握するため、十歳の死神が最初の中ボスへと静かに狙いを定めます。
次話、第41話では、蒸気立ち込める動力室での無音の制圧戦、そしてアルベルトへの『冥界神の捕食』による配管データの強奪が描かれます。
館の呼吸器を握ったノアが、楼閣をどう内側から掌握していくのか、ぜひご期待ください!
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