【第38話:「泥濘の路地裏、ふたつの雛鳥」】
地下闘技場の最深部、湿った冷気が淀む水路の奥。
靴音を反響させながら歩くノアの足元を、アッシュが掲げる魔導カンテラの淡い光が照らし出していた。
周囲には、配備されていたはずの警備兵の姿は一人もない。すべて【夜鴉】の手によって、物音一つ立てずに排除されていた。
「ここだな」
ノアが足を止めたのは、苔むした岩壁に埋め込まれた、重厚な鋼鉄製の隠し扉の前だった。
触れる者を焼き焦がす魔導トラップと、六桁の機械式ダイヤル錠。
ノアは無表情のまま右手を伸ばし、ガルフの死体から喰らった記憶を脳内で引き出した。
ダイヤルを滑らかに回し、帝国の旧軍籍番号を入力していく。
カチ、カチ、カチ――ガコンッ。
重苦しい作動音と共に、分厚い扉がゆっくりと内側へ開かれた。
内部に収められていたのは、山のように積まれた金貨の詰まった革袋と、数々の裏帳簿。
そして、部屋の中央の台座に安置されていた、黒塗りの金属ケースだった。
「ノア様」
シオンが重盾を背負い直して一歩前へ出て、周囲の警戒を固める。
ノアはケースを開け、中に収められていた一枚の羊皮紙を取り出した。
淡く青い魔力光を帯びた、極めて精密な魔導回路の図面。
――アスター家の秘宝たる設計図、その『三分の一』。
「間違いなく、父上の残した設計図だ」
ノアの指先が、紙片を静かに撫でる。
滅ぼされた我が家の痕跡。奪われたものの重み。
だが、その瞳に感傷の色は微塵もなかった。ただ、冷え切った復讐の炎が静かに揺らめくだけだ。
「回収完了だ。残りの二枚は、娼館のヴァネッサと、海上要塞のゼノン……。ガルフの記憶にあった連絡コードを使えば、奴らの動きも炙り出せる」
「御意に。回収した金貨や帳簿はどうなさいますか?」
アッシュの問いに、ノアは視線すら向けずに背を向けた。
「金は夜鴉の活動資金に回せ。帳簿はルナに流して、カルディスの裏流通ルートを公爵家の力で締め上げさせる。……撤収するぞ」
「はっ!」
ノアを先頭に、漆黒のコートを纏った一行は、闘技場から歓楽街の裏通りへと通じる秘密の脱出水路を駆け上がっていった。
鉄格子の排水口を押し上げ、カルディスの地上へと這い出た瞬間、むせ返るような潮風と、歓楽街特有の脂っこい熱気が肌を撫でた。
時刻は深夜。
ネオンの魔導看板が毒々しい光を放つ表通りとは対照的に、ノアたちが足を踏み入れたのは、ゴミと汚水が散乱する暗い裏路地だった。
(……この街の空気は、王都のスラム以上に濁っているな)
ノアが外套のフードを深く被り直した、その時だった。
「――ぎゃあああっ! やめろ、離せッ!!」
「お兄ちゃん! お兄ちゃんっ……!!」
薄暗い路地の角の奥から、少年の悲痛な叫び声と、幼い少女の泣き叫ぶ声が響いてきた。
ノアが足を止め、静かに視線を向ける。
ゴミ箱が倒れ、泥水が飛び散った路地の隅で、三人の筋骨隆々とした男たちが、二人の子供を取り囲んでいた。
闘技場のリングで、ノアが氷壁牢で守り、外へと逃がしたあの兄妹だった。
「ケヒヒッ! 威勢がいいねえ、坊主! こんなボロ布一枚で深夜の歓楽街をウロついてりゃあ、どうぞ攫ってくださいって言ってるようなもんだぜ!」
人攫いの男が下卑た笑いを浮かべ、少年の腹を容赦なく蹴り飛ばす。
ドカッ、と鈍い音が響き、少年が泥水の中にうずくまった。
「がはっ……げほっ……!」
「お兄ちゃん……! お願い、お兄ちゃんを叩かないで……!」
少女が泣き叫びながら男の足にしがみつくが、男は鬱陶しそうにそれを蹴り払おうと足を振り上げる。
「邪魔だ、ガキが! てめえらは明日の朝一番の奴隷船に放り込んで、遠くの鉱山にでも売り飛ばして――」
男の言葉は、そこで永遠に途切れた。
風が、微かに揺らいだ。
男が足を振り下ろすよりも早く、その首筋に冷たい何かが触れたかと思うと――次の瞬間、男の首が宙を舞っていた。
ヒュンッ、と不可視の刃が通り抜けた音だけが遅れて響く。
ドサリ、と首を失った巨体が泥水へと崩れ落ち、赤い血煙が路地の壁を染めた。
「ひ……っ!?」
残った二人の男が、目を見開いて硬直した。
血煙の向こう側から音もなく歩み出てきたのは、黒い外套を纏った十歳の少年――ノアだった。
「な、なんだてめえ……子供……!? てめえ、何をしやがっ――」
男たちが腰のナタに手を伸ばそうとした瞬間、暗闇から無数の黒い影が舞い降りた。
ザシュッ! ドスッ!!
シオンの巨大な重盾が男の一人の胸骨を粉々に圧殺し、リアの二本の短剣がもう一人の男の喉仏と心臓を寸分の狂いもなく貫く。
悲鳴を上げる暇すら与えられず、二つの死体が泥水の上へと折り重なるように転がった。
路地に、再び静寂が戻る。
「……あ、あ……」
泥水にまみれた少年が、痛む腹を押さえながら、信じられないものを見るようにノアを見上げた。
闘技場の地獄から自分たちを救い出した、あの小さな死神。
ノアは血で汚れた地面を一瞥し、冷え切った声で吐き捨てた。
「……やはりな。生きて逃げ切れる知恵すら無かったか」
「ノ、ノア様……」
背後に控えるリアが、少しだけ胸を痛めたような表情で呟く。
だが、ノアは兄妹を見下ろしたまま、淡々と続けた。
「言ったはずだ。二度とこんな薄汚い場所に戻ってくるな、と。……俺が一度見逃してやった獲物が、こんな路地裏のハイエナどもに無様に横取りされるのは、反吐が出るほど不愉快だ」
冷酷で、一切の情を感じさせない突き放すような言葉。
だが、少年は泥だらけの体で必死に這いずり、震える手で妹を抱きしめながら、ノアの足元へと頭を擦り付けた。
「ご、ごめんなさい……! 僕たち、行くところがどこにもなくて……母ちゃんも死んじゃって……! でも、エマだけは……妹だけは助けてください……! 僕はどうなってもいいから……ッ!」
少年の額から、泥水と血が混ざり合って地面へと滴り落ちる。
その姿を、アッシュやシオンたち【夜鴉】が、息を呑んで静かに見つめていた。
かつて、帝国や裏社会の非道な研究機関によって、胸や骨格に『生体魔石』を埋め込まれ、非人道的な生体実験の被検体にされた自分たち。
『魔力が暴走して制御できない』『感情が強すぎて命令に従わない』という理由だけで、『失敗作』のレッテルを貼られ、ゴミのようにスラムの廃棄場に捨てられたあの日々。
飢えと魔石の激痛に怯え、泥水をすすりながら転がっていた自分たちに、手を差し伸べてくれたのが――目の前に立つ、この幼い主だった。
ノアは少年を見下ろしたまま、静かに口を開いた。
「名は何だ」
「……え?」
少年が涙で濡れた顔を上げた。
「お前たちの名だ。……名乗る名すら持たないゴミクズなら、今ここで首を刎ねる」
「ふ、フィン……! フィンです! 妹は、エマ……! 死んだ母ちゃんが、僕たちにくれた名前です……!」
少年――フィンが、必死に叫んだ。
ノアはその名を頭の中で反芻し、小さく息を吐いた。
「フィン、そしてエマか」
ノアは身を翻し、暗い路地の先へと歩き出した。
「立て。……俺の視界でいつまでも這いつくばっているな」
「え……?」
呆然とするフィンとエマの前に、アッシュが静かに歩み寄り、泥だらけの二人の肩を優しく抱き起こした。
その手は温かく、かつて自分たちが受け取った温もりそのものだった。
「立てるかい? ……ノア様は、『ついてこい』と仰っているんだ」
アッシュが微かに微笑むと、フィンとエマの瞳から、大粒の涙がボロボロと溢れ出した。
「う……うわああああんっ……! ありがとう……ありがとうございます……ッ!」
エマが声を上げて泣きじゃくり、フィンもまた袖で目を擦りながら、何度も何度も頭を下げた。
夜鴉の孤児たちに手を引かれ、歩き出す兄妹。
その前を歩くノアは、一度も振り返ることはない。
だが、普段よりも確実に、二人の小さな歩幅に合わせるように、その歩調を緩めていた。
(……魔石の力で無理やり戦士に仕立て上げられた俺たちと違って、この子たちは普通の子供だ)
リアが二人の背中を見つめながら、アッシュへと耳打ちした。
「セーフハウスに着いたら、まず温かいスープと毛布を用意してあげなきゃね」
「ああ。……ノア様が守られた命だ。俺たちの命に代えても、二度と誰にも奪わせはしない」
カルディスの暗い夜空の下。
冷酷な暗殺部隊の背後に、新しく拾い上げられた二羽の雛鳥が、確かな居場所を見出して歩みを進めていた。
第38話「泥濘の路地裏、ふたつの雛鳥」をお読みいただき、ありがとうございます!
今回は水路奥の隠し金庫からの『設計図(1つ目)』の回収、そして歓楽街の路地裏で再び危機に陥っていた幼い兄妹――フィンとエマの再救出を描かせていただきました!
「外に出てもすぐ捕まる」というスラムの過酷な現実を容赦なく叩きつけつつ、自分が一度助けた命を横取りされるのが許せないというノアのアサシンとしての矜持。
そして、かつて「失敗作の被検体」として捨てられ、魔石の暴走に苦しんでいたところをノアに救われた【夜鴉】たちの過去と重ね合わせることで、ノアの不器用な優しさと組織の絆をより深く表現いたしました。
無事にセーフハウスへと二人を迎え入れ、手に入れた設計図とガルフの記憶をもとに、次回、第4章は次なる標的――高級娼館【紅蓮の楼閣】を牛耳る“毒蜘蛛”ヴァネッサへの潜入・攻略フェーズへと進んでいきます!
もし「フィンとエマが無事に助かって本当によかった!」「ノアのツンデレな歩調の緩め方が最高!」と思っていただけましたら、ぜひページ下部の【☆☆☆☆☆】から星での応援や、ブックマーク登録をよろしくお願いいたします!




