【第37話:「死人に口あり、氷槍の穿孔」】
「オオオオオオオッ!!」
獣のような咆哮が、地下闘技場の壁をビリビリと震わせた。
首筋に帝国の生体強化薬【紫煙】を注入されたガルフの全身から、焦げ付くような黒紫色の蒸気が立ち上る。
肥大化した筋肉が魔導装甲を内側から押し広げ、充血した瞳は完全に理性を焼き切っていた。
左腕の腱を断たれた痛みすらも遮断され、ただ純粋な破壊衝動の塊となった巨人が、残った右腕で身の丈ほどもある戦斧を軽々と頭上へ掲げる。
「潰れろォッ! 挽き肉になれやァッ、クソガキがああああっ!!」
ドッ、と足元の石畳が爆発するように粉砕された。
巨体からは到底考えられない、音速に近い突進。
振り下ろされた戦斧が空気を断ち割り、リングの床を深さ数メートルにわたって両断しながら、直線上に立つノアへと迫る。
その軌道の背後には、幼い兄妹を匿う『氷壁牢』があった。
「お、お兄ちゃん……っ!」
「ノア様……ッ!」
氷のドームの中で妹を抱きしめる少年が、そして天井裏の梁から見守るリアが、思わず息を呑んで叫んだ。
逃げれば、その余波だけで背後の氷壁牢ごと兄妹が粉砕される。
だが、真正面から受け止めれば、いかにノアの防御魔法といえど、数百キロの質量と薬物強化された怪力に押し潰されかねない。
しかし――十歳の暗殺者の瞳には、動揺の欠片すら浮かんでいなかった。
(……生け捕りにする必要など、端から無い)
ノアの脳内で、冷徹な思考が瞬時に巡る。
『冥界神の捕食』。
この異能は、生きた人間からしか記憶を奪えない制約など存在しない。
絶命した直後の、脳の組織が生きて記憶の痕跡を留めている『死体』からであっても、何の問題もなく記憶を根こそぎ喰らうことができる。
ならば、暴れ回る怪物を無理に組み伏せる危険を冒す理由など、どこにもないのだ。
「――死ね」
ノアは右足をわずかに前へ踏み出し、床へ向けて右手を突き出した。
引き出すのは、かつてカルディスの裏倉庫でマフィアの魔導師から喰らった記憶――【土属性魔法】の地殻変異術。
「『土流陥穽マッド・フォール』」
ガルフが渾身の力で踏み込もうとした足元の石畳が、一瞬にして底なしの泥濘ぬかるみへと変貌し、大きく陥没した。
「ぬ、あ……ッ!?」
薬物で理性を失い、前進の運動エネルギーを全開にしていたガルフの右足が、ズブズブと泥の中へ深く沈み込む。
何百キロもの質量が突如として足元を失ったことで、凄まじい前傾の慣性が働き、ガルフの巨体が激しく前のめりに突っ込んだ。
振り下ろされた戦斧の切っ先は、ノアの数メートル手前の地面を虚しく叩き割り、兄妹の氷壁牢には掠りもしない。
「しまっ……が、あ……っ!」
片足を泥に取られ、前のめりに倒れ込みながらも、ガルフは野獣の直感で顔を上げようとした。
だが、ノアはすでにその頭上へと、風魔法の推進力で跳躍していた。
「隙だらけだ」
ノアの左手が閃く。
今度はバトラーの風魔法――極小に圧縮された二条の不可視の刃。
「『風断エア・スライサー』」
シュパッ、と甲高い切断音が響いた。
狙ったのはガルフの肉体ではない。
ガルフの首裏、先ほど装甲の継ぎ目から露出していた『背部装甲の固定ボルト』。
圧縮された風の刃がボルトを両断すると同時、ガルフの首と背中を守っていた分厚い鉄板が、自重に引っ張られてカランと地面へ転がり落ちた。
露出する、生身のうなじと脊髄。
「ひ、ヒィッ……!?」
死の気配を本能で察知したガルフの喉から、みっともない裏返った悲鳴が漏れた。
薬物の興奮を突き破り、絶対零度の殺意が巨漢の背筋を凍りつかせる。
空中に静止したノアの両手に、彼自身の膨大な魔力が急速に収束していった。
氷魔法の極致。
細い針ではない。岩をも貫く、冷徹なる必殺の質量。
「『貫頭氷槍ペネトレイト・スピア』」
ノアの眼前の空間に生成されたのは、青白く透き通る、長さ二メートルもの巨大な氷の剛槍だった。
その切っ先が、無防備に晒されたガルフの首裏へと照準を合わせる。
「ま、待て……! 俺は帝国の幹部だ! 設計図の場所を教え――」
「言わなくていい。……お前が死んでから、直接頭の中を覗く」
ノアの非情な宣告と共に、氷の剛槍が撃ち出された。
ドスゥッ……ッ!!
鈍く重い破壊音が響き渡る。
超音速で撃ち出された氷槍は、ガルフのうなじから侵入し、分厚い筋肉と頚椎を粉砕しながら、心臓の真ん中を貫通して胸の魔導装甲ごと床の石畳へと縫い止めた。
「が……ッ、がは……っ……」
ガルフの口から、どす黒い鮮血が大量に吐き出される。
血走っていた瞳の光が急速に失われ、ビクビクと数度痙攣したのち――その巨躯は、完全に動かなくなった。
即死だった。
静寂が、地下闘技場を支配する。
数千人の観客席からは物音一つ聞こえない。非常灯の赤い光の中、十歳の少年が、リングの中央にそびえ立つ氷の槍の前に、音もなく着地した。
ノアは無表情のまま、串刺しにされて絶命したガルフの死体へと歩み寄った。
「さて……回収だ」
ノアは小さく息を吐き、息絶えたばかりのガルフの額へと、右手をそっとかざした。
『冥界神の捕食』。
手のひらから噴き出した漆黒の靄が、死者の頭部へと音もなく吸い込まれていく。
心臓が止まり、肉体が冷え始めようとも、死者の脳に焼き付けられた記憶の残滓はまだ消滅していない。
ノアの脳内に、ガルフが生前に蓄積していた膨大な記憶が、濁流のように流れ込んできた。
元帝国軍での訓練の記憶、カルディスの裏社会で犯してきた数々の蛮行、そして――。
(……あった)
ノアの瞳の奥で、冷たい光が閃く。
ガルフが隠し持っていた、アスター家の機密情報。
三分割された設計図の『一つ目』の保管場所。
(闘技場の最下層、水路の奥に隠されたガルフの個人金庫……。暗証コードは、奴の旧軍籍番号か)
設計図の奪還に必要な情報は、すべて手に入った。
さらに、他の二人の幹部――娼館のヴァネッサと、海上要塞のゼノンに関する連絡手段や暗号通信の周期までもが、ノアの脳内に克明に焼き付けられる。
スッ、とノアが手を離すと、用済みとなったガルフの死体は、ただの肉塊として冷たく横たわっていた。
魂を吸ったわけではない。肉体が砂になって消えたわけでもない。
ただ、その頭の中身をすべて抜き取られ、胸を貫かれて絶命した、哀れな敗者の死体だった。
パリン、と澄んだ音が響いた。
ノアが魔力の供給を断ったことで、リングの端に展開されていた『氷壁牢』のドームが、光の粒子となって砕け散ったのだ。
「あ……」
瓦礫と血の海の中に残された幼い兄妹が、震えながら立ち上がり、ノアの背中を見つめた。
十歳の少年が、あの巨大な怪物を一瞬で解体し、仕留めてしまった現実。
ノアは振り返り、その冷徹な双眸を兄妹へと向けた。
「……裏方の通路は、すでに俺の部下が制圧している。上の歓楽街に出る隠し昇降機のロックも解除させた」
ノアは足元に落ちていたガルフの革袋――金貨が数十枚詰まった財布を、氷魔法で軽く蹴り飛ばし、少年の足元へと転がした。
「これを持って、街を出ろ。……二度とこんな薄汚い場所に戻ってくるな」
それだけ言うと、ノアは一度も振り返ることなく、歩き出した。
「ま、待って……! お兄ちゃん、待ってよ!」
少女が思わず駆け寄ろうとしたが、兄がその手を強く握りしめて引き止めた。
少年は涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、去っていく小さな死神の背中に向かって、張り裂けんばかりの声で叫んだ。
「ありがとう……! ありがとう、お兄ちゃん……ッ!!」
その声が地下空間に木霊する。
ノアの歩みが止まることはなかった。だが、その口元が、わずかに皮肉げに歪む。
(……お兄ちゃん、か)
自分には、そんな温かい言葉で呼ばれる資格などない。
この手はすでに血に染まり、これからさらに多くの首を刈り取らねばならないのだから。
バサリ、と黒い羽音が響いた。
天井の梁から、漆黒のコートを纏ったアッシュ、シオン、リアが音もなくリングへと降り立ち、ノアの背後に膝を突いた。
「見事なご手腕でした、ノア様」
アッシュが胸に手を当て、深々と頭を垂れる。
「ガルフの個人金庫の場所は特定できましたか?」
「ああ。水路の最奥だ。……設計図の回収に向かうぞ」
「はっ!」
ノアを先頭に、二十四人の夜鴉たちが暗い地下水路の通路へと歩みを進める。
カルディスを牛耳る【黒鉄】の第一の幹部、“処刑人”ガルフの完全なる失脚。
そして、アスター家の復讐を果たすためのパズルのピースが、今、確実にノアの手に戻ろうとしていた。
第37話「死人に口あり、氷槍の穿孔」をお読みいただき、ありがとうございます!
今回は死闘の末、ガルフの完全即殺&死体からの記憶捕食を描かせていただきました!
相手を無理に生け捕りにする必要がないからこそ、土魔法で足元をすくい、風魔法で装甲を剥ぎ、心臓を一撃で貫くというノアの冷酷で合理的なアサシン戦術が炸裂いたしました。
息絶えた死体の額に手をかざし、必要な情報(設計図の隠し場所と他幹部の暗号)だけを淡々と抜き取る姿は、まさに『記憶を喰らう暗殺者』の真骨頂です!
助けられた兄妹との哀愁漂う別れ、そして金貨を投げ与えて去っていくノアの不器用な優しさ。
第一の幹部ガルフを打倒し、次回、金庫からの設計図回収と、次なる標的(娼館のヴァネッサ)への足がかりとなる幕間・事後処理へと進みます!
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