【第36話:「処刑人の剛腕と、冷徹なる解体」】
非常灯の赤い光が、静まり返った闘技場を不気味に染め上げていた。
全館の照明が落とされ、脱出用昇降機も隔壁も完全にロックされた今、このすり鉢状の空間は、逃げ場のない完全な『密室の檻』と化していた。
「……クク、ハハハハハッ!!」
沈黙を破ったのは、貴賓席のバルコニーから響いた、狂気に満ちた笑い声だった。
手すりに両手をかけ、眼下のノアを見下ろす巨漢――“処刑人”ガルフの瞳に、獣のような獰猛な光が宿る。
「裏からネズミどもを潜り込ませて、俺の城を乗っ取ったつもりかよ……! 上等だ、小僧! 生きてここから出られるなんざ、端から思っちゃいねえだろうなァッ!!」
ガルフは身の丈ほどもある巨大な黒鉄の戦斧を片手で担ぎ上げると、高層のバルコニーから一切の躊躇なく身を投げた。
ドォォォォォンッ!!
爆発のような轟音が地下空間に響き渡った。
数十メートルの高さからリング中央へと叩きつけられたガルフの巨躯が、石畳の床をクレーター状に粉砕し、凄まじい粉塵と衝撃波を全方位へと撒き散らす。
「きゃあっ……!?」
氷壁牢のドームの中で、幼い少女が思わず身をすくめて悲鳴を上げた。
砕け散った巨大な岩塊が、散弾のように氷の結界へと猛烈な勢いで降り注ぐ。
だが、ノアは振り返ることなく、左足の爪先で軽く床の砂をトンと踏んだ。
ノアの魔力が地面を走り、氷壁牢の表面に幾重もの幾何学模様を描き出す。
バキバキッ、と音を立てて氷の壁が瞬時に倍の厚みへと硬質化し、飛来した巨岩をことごとく粉々に弾き返した。
「……ッ、すごい……びくともしない……」
兄が妹を背中に庇いながら、息を呑んで呟いた。
外の地獄のような破壊の嵐から、十歳の少年が作り出したこの冷たい氷のドームだけが、奇跡のように隔絶された安全地帯となっていた。
「ケヒッ! なんだァ小僧、その氷の檻は何だ? 足手まといのゴミ屑どもを庇いながら、この俺様とやり合うつもりかよ!?」
立ち込める土煙を両断して歩み出てきたのは、黒光りする頑強な魔導重装甲に身を包んだ鋼鉄の巨人だった。
ガルフの纏う甲冑は、部隊長のバルカスたちが着ていたものとは次元が違う。
帝国正規軍の重装歩兵部隊でも限られた上位将校にしか支給されない、対攻城兵器用の特注重装甲。関節部すらも多層構造の装甲板で覆われ、通常の剣撃や初級魔法など傷一つ付けることすら叶わない『歩く要塞』だった。
「庇ってなどいない。……ただ、これ以上リングの上に汚らわしい肉片が散らばると、歩きにくくて邪魔なだけだ」
ノアは氷のように冷徹な瞳でガルフを見据え、淡々と言い放った。
「口の減らねえクソガキがァッ! その生意気な首を、胴体から叩き切ってやるぜ!!」
ガルフの咆哮と共に、戦斧に仕込まれた魔導機関が唸りを上げた。
赤黒い魔力を噴射しながら、巨漢とは思えない恐るべき初速で突進してくる。
踏み込まれる一歩ごとに大地が軋み、横薙ぎに振り抜かれた巨大な戦斧が、大気を引き裂く重低音を響かせた。
(――重装歩兵特有の、右上方からの袈裟斬り、あるいは遠心力を乗せた薙ぎ払い)
ノアの脳内で、先ほど部隊長バルカスから喰らった記憶が、鮮明な映像となって再生される。
帝国軍における重戦斧の操典、ガルフがかつて部下たちに見せていた戦闘の癖、そしてその間合い。
「当たらん」
ノアはバトラーから得た風魔法の構築式を足元に展開し、圧縮した空気を破裂させて後方へと滑るように後退した。
空を切った戦斧の切っ先が、リングの石畳を深々と削り取り、火花を散らす。
だが、ガルフは止まらない。
「逃がすかよォッ! 『重力爆裂波グラビティ・バースト』!!」
ガルフが戦斧の石突を地面に叩きつけると同時、円形の衝撃波が地面を波打たせながら全方位へ急速に拡散した。
リング全体の砂が跳ね上がり、ノアの足場を激しく揺さぶる。
姿勢を崩させ、その隙を巨体で圧殺する帝国軍仕込みの拘束術。
だが、ノアはその衝撃の波が足元に届くよりも早く、風の推進力でふわりと宙へと跳躍していた。
「空中に逃げたら終わりだろうがァッ!!」
ガルフが勝ち誇ったように狂笑し、左手の装甲から三連装の鋼鉄ワイヤー付きアンカーを射出した。
空中に浮いた無防備なノアの体を串刺しにせんと迫る鋼の針。
しかし、ノアの小さな口元に浮かんだのは、絶対零度の嘲笑だった。
「……バルカスの記憶通りだな。空中へ逃げた獲物をアンカーで撃ち落とすのが、貴様の定石か」
「なに……ッ!?」
ノアは空中で身を捻ると、右手を閃かせた。
「『風刃・鎌鼬エアカッター・ツイン』」
不可視の真空の刃が二筋、精密無比な軌道を描いて交差した。
射出されたばかりのアンカーの鋼鉄ワイヤーが、装甲の射出口の根元からスパッと切断され、無力な鉄くずとなって床へ転がる。
「なっ……俺のアンカーを、空中で切り落としただと!?」
「それだけではない」
着地と同時、ノアは左手を地面へと這わせた。
「『凍結走破フロスト・ラン』」
ノアの指先から放たれた極低温の冷気が、地面を猛烈な速度で這い回り、ガルフの両足の周囲へと収束していく。
「チッ、そんな児戯にも等しい氷で、俺様の装甲を止められると思うなよ!」
ガルフが装甲の魔力を解放し、氷を力技で砕こうと足を振り上げた――その瞬間だった。
バキィッ!!
「ぐ、おおっ!? な、なんだと……足が滑る……!?」
氷は、足を拘束するために張られたものではなかった。
摩擦係数を極限までゼロに近づけた超平滑な氷結面。
数百キロを超える自重と装甲の重み、そして振り上げた足の勢いが仇となり、ガルフの巨体が激しくバランスを崩して前のめりに倒れかけたのだ。
(バルカスの記憶――ガルフの重装甲の唯一の弱点は、その圧倒的な自重ゆえの『足場の不安定さ』。そして――)
ノアの瞳が、獲物を狙う鷹のように冷酷に細まる。
(前のめりに体勢を崩した際、首裏の装甲板と背部魔導ジェネレーターの間に生じる、指三本分の排熱スリット)
ノアは風の推進力で、倒れかける巨人の背後へと音もなく回り込んだ。
手元に生み出すのは、限界まで細く、硬質に研ぎ澄まされた一本の氷の針剣――『極氷針ニードル・アイズ』。
「終わりだ」
「なめんなァァッ!!」
完全に体勢を崩していたはずのガルフが、野獣じみた直感で首を捻り、背後へ向けて裏拳を叩き込んできた。
歴戦の戦場で死線をくぐり抜けてきた男の、理屈を超えた反射神経。
ノアはわずかに首を引いてその剛腕を紙一重で躱したが、氷の針の狙いはわずかに逸れ、首裏の急所ではなく、左肩の装甲の継ぎ目へと深々と突き刺さった。
ドスッ……!!
「ぐ、あああああああっ!?」
頑丈な魔導装甲の隙間、肉と骨がひしめく関節の深奥へと、超低温の氷刃が容赦なく食い込む。
ガルフの口から、苦悶の絶叫が迸った。
装甲の隙間から、ドクドクと赤い鮮血が溢れ出し、純白の氷刃を赤く染めていく。
「が、ガルフ様が……血を流した……!?」
天井裏の梁から戦況を見守っていた【夜鴉】の孤児たち、そして逃げ惑っていた観客席の者たちが、息を呑んで目を見張った。
あの不敗を誇った闘技場の支配人が、わずか十歳の少年に手玉に取られ、初めて明確な傷を負わされたのだ。
「……急所は外れたか。だが、左腕の腱は断った」
ノアは鮮血を浴びることなく後方へとバックステップし、氷の短剣を無造作に消滅させた。
ガルフの左腕はだらりと垂れ下がり、もはや戦斧を両手で構えることはできない。
「ハァ……ハァ……ッ! この、クソガキが……ッ!!」
ガルフは傷口を押さえ、血走った両目でノアを睨みつけた。
そこにあるのは、もはや強者の余裕でも、サディスティックな愉悦でもない。
プライドをズタズタに引き裂かれ、死の恐怖を喉元に突きつけられた男の、見苦しいまでの逆上だった。
「俺を……この元帝国軍重装歩兵のガルフ様を、ここまでコケにしやがって……!!」
ガルフは残った右腕で、胸元の装甲に埋め込まれた『黒いアンプル』のカバーを乱暴に引きちぎった。
カチリ、と機械音が響き、不気味な紫色の液体が、チューブを通じてガルフの首筋へと直接注入されていく。
「帝国特務機関が開発した生体強化薬【紫煙シエン】……! てめえの肉片を、このリングの砂と混ぜ合わせてミンチにしてやるよォォッ!!」
ガルフの全身の血管が紫色に膨れ上がり、装甲の隙間から猛烈な蒸気が噴き出した。
薬物によって理性を焼き切り、痛覚を遮断した怪物が、真の凶暴性を剥き出しにして覚醒しようとしていた。
第36話「処刑人の剛腕と、冷徹なる解体」をお読みいただき、ありがとうございます!
今回は支配人ガルフとの直接対決・第1ラウンドを描かせていただきました!
前話で喰らったバルカスの記憶からガルフの癖や装甲の構造を分析し、風魔法と摩擦ゼロの氷魔法を組み合わせて巨体のバランスを崩すノアの冷徹な戦闘スタイルはいかがでしたでしょうか!
兄妹を守る氷壁牢をさりげなく補強しつつ、敵の装甲の継ぎ目を確実に貫いていく姿に、アサシンとしての真髄を込めました。
そして、追い詰められたガルフが胸元の帝国の生体強化薬【紫煙】を注入し、真の暴走モードへと突入!
次回、薬物で理性を失い怪力とスピードが跳ね上がったガルフに対し、ノアがどう立ち向かい、その記憶を喰らうのか――決戦の行方をお見逃しなく!
もし「ノアの頭脳戦と魔法の連携が鮮やか!」「ガルフの追い詰められっぷりがスカッとする!」と思っていただけましたら、ぜひページ下部の【☆☆☆☆☆】から星での応援や、ブックマーク登録をよろしくお願いいたします!




