【第34話:「血のリングと、記憶なき廃人」】
熱気と狂乱の渦が、すり鉢状の巨大な地下空間を揺らしていた。
【血の闘技場ブラッド・コロシアム】。
眩い魔導ライトに照らし出された円形のリングは、これまで流された無数の奴隷たちの血によって黒く染まり、むせ返るような鉄錆の臭気を放っている。
「殺せ! 殺せ! どいつもこいつも八つ裂きにしろォッ!!」
「今夜の餌は威勢がいいぞ! 賭けた金貨を無駄にするんじゃねえぞ!!」
数千人の観客たちが、酒ジョッキを振り回しながら下卑た罵声と歓声を浴びせかける。
そのリングの中央に追い立てられた十数人の奴隷たちは、武器一つ与えられず、ただ身を寄せ合って震えることしかできなかった。
やがて、対面に設けられた重厚な鉄格子が、耳障りな金属音を立てて引き上げられる。
『さあ、お待たせいたしました! 今夜の前座を飾る処刑人――人肉を愛する狂犬、“首刈り”のザックと、その可愛い猟犬たちの入場だァッ!!』
実況の男がマイク越しに絶叫すると同時、暗い通路の奥から、鎖に繋がれた三頭の巨大な『黒牙狼ブラック・ウルフ』と、血塗られた巨大な肉切り包丁のような大鉈を肩に担いだ大男が姿を現した。
「ケヒヒッ……! なんだぁ、今夜のゴミどもは。ガリガリのガキまで混ざってるじゃねえか!」
“首刈り”のザックと呼ばれた処刑人の男は、舌なめずりをしながら猟犬の鎖を解き放った。
飢えた三頭の魔獣が、低く獰猛な唸り声を上げながら、一気に奴隷たちの群れへと襲いかかる。
「ひ、ひぃぃっ!? やめろ、来るな――ぐああああっ!!」
逃げ惑う元冒険者や船乗りの男たちが、魔獣の牙に喉元を食いちぎられ、あるいはザックの大鉈によって一刀のもとに斬り伏せられていく。
飛び散る鮮血。響き渡る断末魔の悲鳴。
それを肴に、観客席の富裕層やマフィアたちは腹を抱えてゲラゲラと笑い転げていた。
「あ、あぁ……お兄ちゃん……っ!」
リングの端で、先ほど奴隷待機牢にいた幼い少女が、腰を抜かしてぺたりと砂の上に座り込んだ。
その少女の前に、ザックが血みどろの大鉈を引きずりながら、ゆっくりと歩み寄ってくる。
「ど、どけ……! 妹に手を出すな……ッ!」
少し年長の兄が、震える両手を広げて必死に妹の前に立ち塞がった。
だが、その足は恐怖で完全にすくんでおり、ザックが振り上げた大鉈の影が、幼い兄妹の姿を無慈悲に覆い尽くす。
「ケヒッ、威勢がいいじゃねえか。なら、お前の頭から縦に真っ二つにしてやるよ!!」
ザックが獰猛な笑みを浮かべ、大鉈を全力で振り下ろした――その刹那だった。
カシャン、と。
狂乱する会場のノイズに紛れて、乾いた小さな金属音が響いた。
群れの最後尾に立っていた十歳の少年――ノア・アスターの両手首から、無骨な鉄の手枷が音もなく滑り落ち、砂の上に転がる。
魔力封じすら施されていない、ただの物理的な鉄の錠前。
過去に『冥界神の捕食』で喰らった熟練の盗賊たちの記憶――その脳内に刻まれた無数の解錠ピッキング技術と関節制御の知識を引き出したノアにとって、手首のわずかなひねりと針金一本で外せる、児戯にも等しい拘束具だった。
自由になったノアの小さな体が、風のように音もなく地を蹴る。
「――なっ!?」
ザックの大鉈が少年の脳天を叩き割る直前。
ノアはいつの間にか幼い兄妹の目の前に割り込み、小さな右手を無造作に前へと翳していた。
ノアの脳内で、かつて喰らった一流魔導師の『記憶』が開かれる。
そこに記された氷属性魔法の緻密な構築式を瞬時に読み取り、ノア自身の内で練り上げた濃密な魔力を流し込む。
「『氷結の盾フリーズ・シールド』」
静かな呟きと共に、ノアの目の前の空間が急速に凍結し、分厚く美しい氷の壁が出現した。
ガキィィィンッ!!
ザックが渾身の力で振り下ろした大鉈が、氷の壁に激突して火花を散らす。
だが、氷にはヒビ一つ入らない。どころか、大鉈の刃先からザックの両腕へと、猛烈な冷気が逆流して霜を張らせていった。
「ぐ、うおおおっ!? な、なんだこの氷は……!? てめえ、いつの間に手枷を外しやがった!!」
ザックが驚愕に目を見張り、慌てて後方へ飛び退こうとする。
その後ろから、血の匂いに興奮した三頭の黒牙狼が、ノアの小さな首筋を狙って同時に跳躍した。
「騒がしい犬だ」
ノアは振り返ることすらなく、左手を軽く横に薙いだ。
自身の魔力を、記憶にある次なる構築式へと変換する。
「『氷刃アイス・ブレード』」
空間から生成された三枚の鋭利な氷の刃が、目にもとまらぬ速度で射出され、宙を舞う三頭の魔獣の首を正確に切断した。
キャン、と鳴く間もなく、巨大な魔獣たちの胴体がドサドサッと砂の上に転がり、赤い血溜まりを作る。
「……え?」
背中で守られた形の幼い兄妹が、信じられないものを見るように目を丸くした。
それだけではない。今まで狂ったように騒ぎ立てていた数千人の観客席が、水を打ったようにピタリと静まり返ったのだ。
ボロ布を纏ったわずか十歳の子供が、無詠唱に近い速度で高度な氷魔法を操り、獰猛な魔獣を一瞬で屠った。
その異常な光景に、闘技場全体の空気が張り詰める。
「た、たまたまだ……! こんなガキに、俺様がやられるわけがねえ!!」
プライドを傷つけられたザックが、顔を真っ赤にして血管を浮き上がらせ、再び大鉈を構えて突進してきた。
長年この闘技場で何百人もの奴隷を処刑してきた、実戦仕込みの荒々しい斬撃。
だが、ノアの冷たく澄み切った瞳には、その動きはあまりにも遅く、単調なものに映っていた。
ノアはバトラーの記憶から得た風魔法の身体制御をわずかに応用し、ザックの懐へと幽霊のようにすり抜ける。
そして、大鉈を空振りして体勢を崩したザックの顔面へ、小さな右手を伸ばし――その額に、ピタリと手のひらを触れさせた。
「な……っ?」
「お前の持つ闘技場の情報、そしてその粗末な鉈の振り方……すべて、俺が貰う」
『冥界神の捕食』。
ノアの手のひらから溢れ出した漆黒の靄が、ザックの頭部へと音もなく浸透していく。
それは、命や魂を奪う力ではない。人間を人間たらしめている根本の記録――すなわち『記憶』そのものを、脳の奥底から根こそぎ喰らい尽くす絶対の異能。
「あ……あ、ああああああああああっ!?」
ザックの口から、これまで自分が殺してきたどの奴隷よりも惨めで、恐ろしい絶叫がほとばしった。
自分がどうやって大鉈を振るっていたのか。
自分の名前が何であるのか。
言葉の話し方、歩き方、呼吸の仕方すらもが、頭の中から黒い渦へとゴッソリと引き抜かれていく恐怖。
わずか数秒後。
ノアが静かに手を離すと、ザックの巨体は糸の切れた操り人形のように、ドサリと砂の上に崩れ落ちた。
肉体には傷一つない。命もまだある。
だが、その双眸は完全に焦点を失って白目を剥き、だらりと開いた口からは、赤子のように意味のないヨダレがダラダラと垂れ流されていた。
「あ……う、あぁ……」
大鉈の握り方すら忘れ、砂の上で虚ろに痙攣するだけの『記憶なき廃人』。
ただ殺されるよりもはるかに悍ましい「生きた屍」の姿を前にして、観客席のあちこちから悲鳴にも似たどよめきが上がった。
「……不要なゴミだな。始末しておくか」
ザックの記憶から【血の闘技場】の内部構造と警備配置のデータを完全に読み取ったノアは、足元に落ちていた大鉈を氷魔法で蹴り上げ、廃人と化したザックの首を無慈悲に貫いて物理的なトドメを刺した。
そして、背後の砂の上でへたり込んでいる幼い兄妹へと、ちらりと冷たい視線を向ける。
「……た、助けて、くれたのか……?」
少年が震える声で問いかけると、ノアは氷のように無表情なまま言い放った。
「勘違いするな。お前たちの甲高い悲鳴が、俺の耳に障っただけだ。……死にたくなければ、端の方で口を閉じていろ」
あまりにも冷酷で、突き放すような言葉。
だが、その小さな背中が自分たちを血の雨から完全に遮ってくれていることに気づいた兄妹は、ボロボロと大粒の涙をこぼしながら、何度も小さく頷いた。
(……ふふっ。本当に、ノア様は素直じゃないんだから)
闘技場の天井裏――鉄骨の暗がりからその光景を見下ろしていたリアが、血塗られた短剣を拭いながら、愛おしそうに目を細めた。
「ああ。かつて王都の路地裏で、俺たちにパンを投げ与えてくださったあの日と、少しも変わっておられない」
隣に立つアッシュもまた、胸の奥が熱くなるのを抑えながら、静かに頷いた。
ノアが今、ザックの記憶から読み取ったであろう闘技場の詳細な構造を、自分たちも裏側から完璧に制圧して応えなければならない。
「ノア様が会場の視線を完全に独占してくださった! シオン、リア、残りの警備室を一気に落とすぞ!」
「「応ッ!!」」
二十四人の【夜鴉】たちが、天井裏の闇を疾走する。
そしてその頃。
闘技場の最上階、分厚い強化ガラスに守られた豪華な貴賓席の奥で、一人の巨大な男がソファからゆっくりと立ち上がっていた。
全身に鋼鉄の重装甲を纏い、顔中に無数の古傷を刻んだ男――【黒鉄】の幹部にして、この闘技場の支配人、“処刑人”ガルフである。
「……ほう。なんだ、あの十歳のガキは」
ガルフの手の中で、高級なワイングラスがミシミシと音を立てて握り潰され、赤いワインが床へと滴り落ちる。
「ザックの頭に触れただけで、奴を廃人にしやがっただと……? ククク、ハハハハハッ!! 面白い! 実に面白いじゃねえか!! どこの誰かは知らねえが、極上の玩具が自ら檻の中に飛び込んできやがったぞ!!」
狂気的な愉悦に顔を歪めるガルフ。
十歳の死神が仕掛けた『囮』の罠に、最初の標的が完全に食いついた瞬間だった。
第34話「血のリングと、記憶なき廃人」をお読みいただき、ありがとうございます!
今回は血のリングでの初陣を描かせていただきました!
過去に喰らった盗賊の『記憶』から解錠技術を引き出して鉄枷を外し、魔導師の『記憶』にある構築式から自身の魔力で氷魔法を行使するノアの戦闘スタイル。
そして、『冥界神の捕食』によってすべての記憶を根こそぎ喰われ、武器の振り方すら忘れてヨダレを垂らす廃人(生きた屍)と化した処刑人ザックの末路いかがでしたでしょうか!
幼い兄妹を結果的に守りながらも、「悲鳴が耳障りだっただけだ」と突き放すノアの不器用なダークヒーローっぷりと、それを天井裏から見守るアッシュたちの温かい忠誠心も描かせていただきました。
ついに支配人ガルフがノアに食いつき、次回から闘技場編はさらに加速していきます!
もし「記憶を奪われて廃人になる描写がゾクッとして最高!」「ノアの不器用な優しさが好き!」と思っていただけましたら、ぜひページ下部の【☆☆☆☆☆】から星での応援や、ブックマーク登録をよろしくお願いいたします!




