【第33話:「自ら檻へ入る死神と、影の蚕食」】
カルディスの地下深くに広がる違法賭博場、【血の闘技場】。
歓楽街の華やかなネオンの真下に掘られたその巨大な地下空間には、毎夜、血に飢えた富裕層や裏社会のならず者たちが集まり、人間同士の殺し合いに莫大な金貨を賭けて熱狂している。
その闘技場へと続く、薄暗く湿った地下水路の入り口。
潜入を前にした最終確認の場で、ノアが告げた作戦は、アッシュたち【夜鴉】の幹部たちの息を呑ませるものだった。
「――俺が『商品』として正面の檻から入る。お前たちはその隙に、裏から回れ」
ノアの淡々とした言葉に、リアが弾かれたように顔を上げた。
「ま、待ってください、ノア様! 商品ということは……あの下賤な奴隷商人に紛れて、ノア様ご自身が鎖に繋がれるというのですか!?」
「そうだ。支配人のガルフは、自らは安全な貴賓席の奥に陣取り、眼鏡に適う強者が現れるまで決して表には出てこない。……だが、十歳の子供が闘技場で大人を一方的に蹂躙すればどうなる?」
ノアの瞳が、暗がりの中で冷たく光る。
「観客の悪趣味な視線も、警備兵の意識も、そしてガルフ自身のサディスティックな関心も、すべて俺一人に釘付けになる。……その間に、お前たちが手薄になった裏方の警備室を制圧し、設計図の隠し場所を割り出せ」
あまりにも合理的で、隙のない二正面作戦だった。
最も危険で、最も目立つ『囮』の役目を、ノア自身が引き受けるというのだ。
「……お言葉ですが、ノア様。闘技場の檻に入るのは、私かシオンが適任かと」
アッシュが苦渋に満ちた表情で進言する。
彼ら二十四人の孤児にとって、ノアは神にも等しい絶対の主だ。その主に、仮初とはいえ奴隷の鎖を巻かせ、下衆な観客どもの見世物にさせるなど、腸が煮えくり返るほどの屈辱だった。
だが、ノアは小さな手でアッシュの言葉を制した。
「俺が行くのが最も確実で、最も早い。……それに、俺に鎖を巻いた連中がどうなるかは、お前たちが一番よく知っているはずだ」
ノアは自ら用意した粗末なボロ布を黒いコートの上から羽織り、冷徹に言い放った。
「五分でも十分でもいい。俺がリングの上で遊び相手をしている間に、ガルフの退路をすべて断て。……ネズミ一匹、逃がすなよ」
「……っ、はっ! この命に代えましても!!」
アッシュ、シオン、リアは石畳に深く頭を垂れた。
リアの握りしめた拳からは、爪が食い込んで赤い血が滲んでいる。
(ノア様に、あんな汚らわしい檻の中を歩かせてしまうなんて……! 許さない。この闘技場の裏にいる連中、全員、息の根を止めてやる……!)
主が自ら泥を被るというのなら、従者たる自分たちは、その泥を敵の鮮血で洗い流すだけだ。
悲壮なまでの決意と狂信的な殺意を胸に秘め、アッシュたち二十四人の【夜鴉】は、地下水路の暗闇へと音もなく散っていった。
***
数十分後。
【血の闘技場】の最下層にある、劣悪な環境の『奴隷待機牢』。
排泄物と腐った肉の臭いが立ち込める薄暗い鉄格子の奥へ、ノアは他の買われたばかりの奴隷たちと共に、荒っぽく突き飛ばされた。
「さっさと歩け、ゴミ屑ども! 今夜の『前座』の餌になるんだ、せいぜい観客を楽しませてから死ねや!」
看守の男が下卑た笑いを浮かべながら鉄格子を閉め、重厚な錠前を下ろす。
ノアの両手首には、魔力封じの粗悪な鉄枷が嵌められていた。もっとも、ノアの『冥界神の捕食』は魔法ではなく魂そのものに干渉する異能であるため、このような安物の魔道具など何の意味も成していないのだが。
ノアは無表情のまま、牢の隅へと歩み寄った。
牢の中には、借金のカタに売られた元冒険者や、海賊に拉致された船乗りなど、絶望に目を虚ろにした大人たちが十数人うずくまっている。
そして、そのさらに奥――冷たい石壁の隅で、ボロ布にくるまってガタガタと震えている数人の『幼い子供たち』の姿があった。
(……八歳から、十歳といったところか)
自分と同年代の、痩せ細ったストリートチルドレンたち。
おそらく、カルディスのスラム街で親に捨てられ、人攫いに捕まってこの闘技場の「余興の餌」として二束三文で売られてきた孤児だろう。
「う、うぅ……お母さん……怖いよぉ……」
一番小さな女の子が、擦りむいた膝を抱えてすすり泣いている。
それを、少しだけ年長の少年が必死に抱きしめ、看守に聞こえないよう震える声で宥めていた。
「な、泣くな……声を出すと、また鞭で打たれるぞ……。大丈夫だ、俺が、俺が守ってやるから……」
少年はそう言っているものの、彼自身の足も恐怖で激しく震えており、手には武器一つない。
これから自分たちが、飢えた猛獣や狂った処刑人の前に放り出され、観客の笑い声の中で八つ裂きにされる運命であることを、本能で理解しているのだ。
ノアは、その子供たちの姿を静かに見つめていた。
同情や憐憫といった温かい感情が湧いたわけではない。ノアの心は、アスター家が滅ぼされたあの日から、凍てついたままだ。
だが――その泥だらけの子供たちの姿は、かつて自分が王都の貧民街で拾い上げた、アッシュやシオン、リアたちの幼い頃の姿と、奇妙なほどに重なっていた。
もし、あの日自分が手を差し伸べていなければ。
アッシュたちもまた、このような暗い檻の中で、誰にも顧みられることなく、理不尽な暴力の餌食となってすり潰されていたのかもしれない。
「……くだらない場所だ」
ノアの口から、絶対零度の呟きが漏れた。
強者が弱者を喰らうのは、この世界の理だ。
だが、安全な場所から酒を飲み、ただの娯楽として弱者に殺し合いを強要するこの闘技場の悪趣味なシステムは、ノアにとって虫唾が走るほど不快なものだった。
***
同じ頃。
闘技場の観客席のはるか上層――一般客の立ち入りが禁じられた、裏方の警備通路。
「……か、かはっ……」
巡回していた屈強な警備兵の一人が、声すら上げられずに背後から喉を掻き切られ、暗がりへと引きずり込まれた。
血を一滴も床に垂らすことなく死体を処理したのは、リアだった。
彼女の瞳は、普段の冷徹さを超え、氷の炎が燃え盛るような激しい怒りに満ちている。
「アッシュ。第二警備室の制圧が終わったわ。今ごろノア様は、あの不潔な地下牢に……」
「焦るな、リア。感情で刃を鈍らせるな」
通信用の魔導具を耳に当てながら、アッシュが低く鋭い声で戒める。
しかし、そう言うアッシュ自身のこめかみにも、激しい怒りの血管が浮き出ていた。
「ノア様が自ら泥を被って作ってくださった機会だ。……一秒たりとも無駄にはしない。シオン、そっちはどうだ」
『……地下の魔導動力室、および通信室を制圧した。いつでも闘技場の隔壁をロックできる』
重盾に返り血を浴びたシオンから、短く確実な報告が入る。
二十四人の【夜鴉】たちは、まるで一つの巨大な黒い生き物のように闘技場の裏側へと浸透し、ガルフの部下たちを音もなく『蚕食』し続けていた。
「よし。……そろそろ、表の舞台が始まる頃合いだ」
アッシュが通路の隙間から、眼下に広がる巨大なすり鉢状の闘技場を見下ろした。
熱狂する数千人の観客の歓声と、強烈な魔導ライトの光。
その中央にある血塗られた闘技場の鉄格子が、重苦しい音を立ててゆっくりと引き上げられていく。
『さあ、紳士淑女の皆様方! 今夜も【血の闘技場】へようこそ! まずは前座の余興――新鮮なゴミ屑どもによる、生存競争の始まりだァッ!!』
実況の男の狂乱した声が会場中に響き渡り、地下牢から追い立てられた奴隷たちが、次々と眩しいリングの上へと突き出されていく。
そして、その怯える大人や子供たちの群れの最後尾から。
粗末なボロ布を纏い、両手に鉄枷を嵌めた十歳の少年――ノア・アスターが、冷たく澄み切った瞳で、ゆっくりと血のリングへと足を踏み入れた。
第33話「自ら檻へ入る死神と、影の蚕食」をお読みいただき、ありがとうございます!
いよいよ【血の闘技場】への潜入がスタートしました!
支配人ガルフの目を惹きつけるため、自ら『奴隷(商品)』として檻へ入ることを選んだノア。そして、神のように崇める主にそんな屈辱的な役回りをさせてしまったことに静かな怒りを燃やし、裏側から猛烈な勢いで敵を暗殺していくアッシュたち【夜鴉】の二正面作戦を描かせていただきました。
地下牢で震える孤児たちの姿に、かつてのアッシュたちを重ねて静かに不快感を露わにするノア。
次回、いよいよ血塗られたリングの上で、10歳の死神による『公開処刑(逆蹂躙)』の幕が上がります!
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