【第32話:「箱庭の封鎖と、三匹の獲物」】
血の匂いに満ちた港の密輸倉庫を後にしたノアたちは、カルディスの歓楽街を見下ろす高台にある、古びた廃教会へと身を潜めていた。
ここが、今回の作戦における【夜鴉】の仮拠点である。
割れたステンドグラスの隙間から、冷たい夜風と共に、眼下に広がる歓楽街の喧騒が遠く響いてくる。
煌びやかな魔導灯の明かり。酒場から漏れる陽気な歌声や、人々の笑い声。そして、風に乗って微かに漂ってくる、温かいシチューの匂い。
廃教会の崩れた屋根の上で見張りに立っていたシオンとリアは、その眩しい街の光を黙って見下ろしていた。
「……いい匂いね。港町特有の、魚介のスープかしら」
リアが短剣の手入れをしながら、ぽつりと呟いた。
その声には、羨望はなかった。ただ、自分たちとは決して交わることのない「遠い異世界の風景」を眺めるような、乾いた響きがあった。
「欲しければ、後で街から奪ってくるか?」
重盾を背負ったシオンが静かに問いかけると、リアは小さく首を振って苦笑した。
「まさか。今の私たちがそんな温かいものを口にしたら、きっとお腹を壊してしまうわ。……私たちには、この冷たい夜風と、鉄錆の匂いがお似合いよ」
リアの言葉に、シオンもまた静かに目を伏せた。
あかりの灯る暖かい家で、家族と食卓を囲むような「普通の幸せ」。
そんなものは、かつて王都の貧民街で親を亡くし、ゴミのように捨てられたあの日、とっくにドブ川へと捨ててきた。
もしノアに拾われなければ、今頃自分たちは、誰にも知られることなく路地裏で野垂れ死んでいたはずだ。
だからこそ、彼ら二十四人の孤児たちにとって、温かいスープよりも、明るい太陽よりも、礼拝堂の奥に佇む十歳の少年の「冷たい背中」こそが、命を懸けて守るべき唯一の故郷なのだ。
その時、礼拝堂の奥からアッシュの静かな声が響いた。
「シオン、リア。ノア様がお呼びだ。王都との通信が繋がる」
「……ええ、今行くわ」
二人は歓楽街の光に背を向け、迷いなく暗がりの中へと降りていった。
廃教会の礼拝堂の中央。
朽ちた祭壇の上に置かれた、公爵家専用の高度な暗号化魔導通信機が、青白い光を放っていた。
その前に立つノアは、自身の小さな手のひらを見つめながら、先ほど密輸倉庫で起きた出来事を冷徹に反芻していた。
「……なるほどな。そういうカラクリか」
ノアの静かな独り言に、傍らに控えていたアッシュが視線を向ける。
「ノア様。何かお気づきになられましたか?」
「ああ。さっき俺が『冥界神の捕食』で喰らった、あのマフィアのボスと傭兵リーダーの記憶の欠片を、もう一度隅々まで精査した」
ノアの瞳が、氷のように冷たく細められる。
「奴らの記憶に嘘はなかった。奴らは心底、あのコンテナの中に『本物の設計図』が入っていると信じ込んでいたんだ」
「なんと……。では、奴らもまた、帝国特務機関【黒鉄】に騙されていたと?」
「そういうことだ。最初から【黒鉄】は、地元マフィアどもに空箱を掴ませ、俺たち【夜鴉】の戦力を測るための『肉の壁』として利用したに過ぎない。……王都のカジノでバトラーとの定時連絡が途絶えた時点で、奴らは俺たちの襲撃を予期し、すぐさま設計図を三つに分割して街の奥へと隠したのだろう」
ノアの理路整然とした分析に、アッシュたちは息を呑んだ。
敵はただのならず者ではない。味方すらも平然と欺き、捨て駒として使い潰す、冷酷で熟練した帝国のプロフェッショナルだ。
「だが、小賢しい知恵を回したつもりだろうが……俺たちの『共犯者』の恐ろしさを計算に入れていない時点で、奴らの負けは決まっている」
ノアがそう呟いた瞬間。
祭壇の上の魔導通信機がひときわ強く輝き、空間に立体的な映像が投影された。
『――ええ、その通りですわ、ノア。私わたくしを差し置いて、私の可愛い死神に罠を仕掛けるなど……万死に値しますわね』
ノイズ一つないクリアな音声と共に浮かび上がったのは、王都の豪華な私室で優雅に微笑む、銀髪の美少女――ルナ・ローゼンバーグの姿だった。
深夜にもかかわらず、寸分の隙もないドレスに身を包んだ十五歳の悪逆令嬢は、通信機越しであっても、ノアの姿を見るなり熱っぽい吐息を漏らした。
『ああ、ノア……。少し見ない間に、また一段と美しい死の香りを纏うようになられましたのね。直接その頬に触れられないのが、もどかしくて気が狂いそうですわ』
画面越しに自分の頬へと手を伸ばすルナの瞳には、底知れぬ独占欲と狂気的なまでの愛情が渦巻いている。
背後に控えるアッシュたちは、公爵令嬢のそのあまりにも異常な執着ぶりに、思わず背筋を正して視線を落とした。
だが、ノアだけは少しも動じることなく、淡々と要件を切り出した。
「アッシュからの事前報告は聞いているな、ルナ。設計図は三つに分割され、帝国特務機関【黒鉄】の三人の幹部がそれぞれこの街のどこかに隠している。……奴らを一人残らず狩り出す間、海からも陸からも、ネズミ一匹逃がすな」
『ふふっ、お安い御用ですわ。私が誰だと思っていらっしゃるの?』
ルナは扇子を広げ、氷のように冷酷で、それでいてひどく愉悦に満ちた笑みを浮かべた。
『つい先ほど、ローゼンバーグ公爵家の権限において、カルディス港に『悪性伝染病の疑いあり』との緊急検疫令を発布いたしました。すでに王国の近衛艦隊が港の出口を完全に包囲し、陸路の関所もすべて私の私兵が封鎖しておりますわ』
「……街ごと、隔離したのか」
『ええ! 明日の朝から、その街は船一隻の出入りも、人間一人の通行も許されない完全なる『密室』となります。そして、カルディスの領主と警備隊長には、十分な額の金貨と……ちょっとした『家族の身の安全に関する警告』を送っておきました。貴方たちが街でどれほど血の雨を降らせようと、表の連中は絶対に動きませんわ』
公爵家という国家権力を私物化し、一つの港町をまるごと外部から孤立無援の「箱庭」へと変えてしまう暴挙。
まさに、悪逆令嬢ルナにしかできない、圧倒的な盤外戦術だった。
「上出来だ、ルナ。それで、肝心の【黒鉄】の三人の幹部……奴らの居場所は割れたか?」
『もちろん。公爵家がカルディスの裏社会に潜り込ませている諜報員からの報告と、最近の不審な資金の流れを照合いたしました。……ノア、貴方が喰らうべき三匹の獲物は、それぞれこの街の『三つの闇』に潜んでおりますわ』
ルナが指を鳴らすと、通信機の横にカルディスの立体地図と、三つの赤い印が浮かび上がった。
『一人目は、カルディスの地下深くに広がる違法賭博場【血の闘技場ブラッド・コロシアム】の支配人、通称“処刑人”ガルフ。暴力と殺戮を愛する、元帝国軍の重装歩兵ですわ』
『二人目は、歓楽街の中枢にそびえる最高級娼館【紅蓮の楼閣】の女主人、通称“毒蜘蛛”のヴァネッサ。毒と幻術、そして情報操作に長けた女狐です』
『三人目は、カルディス港の沖合に浮かぶ廃船を改造した海上要塞【鉄の棺】に陣取る、【黒鉄】の現地司令官、魔導工学師のゼノン。……おそらく、この男が設計図の価値を最も理解している頭脳労働者ですわね』
闘技場、娼館、そして海上要塞。
カルディスという歓楽港町を象徴する三つの巨大拠点に、それぞれの幹部が待ち構えているというわけだ。
「……いいだろう。どいつもこいつも、喰いごたえがありそうだ」
ノアの小さな唇が、三日月の形に歪む。
『冥界神の捕食』が、新たな強者の魂と技術を求めて、ノアの血管の奥で静かに脈打っていた。
『ええ、すべてを喰らい尽くして、また私わたくしの元へ帰ってきてくださいな、ノア。貴方が血に塗れ、強く美しくなっていく姿を想像するだけで……ああ、今夜は眠れそうにありませんわ』
ルナはうっとりと自身の体を抱きしめ、名残惜しそうに通信を切った。
青白い光が消え、礼拝堂に再び静寂が戻る。
ノアはゆっくりと振り返り、片膝をついて待機するアッシュ、シオン、リア、そして暗がりに潜む二十一人の孤児たちを見据えた。
「聞いた通りだ。ルナが最高の狩場を用意してくれた」
ノアの冷徹な声が、静かな礼拝堂に響き渡る。
「まずは一番分かりやすい馬鹿から潰す。最初の標的は、地下の違法賭博場【血の闘技場】の支配人、“処刑人”ガルフだ。……奴の自慢の武技も、魂も、設計図の欠片も、すべて俺たちが奪い取る」
「「「御意に!!」」」
孤児たちの瞳に、静かで狂信的な殺意の炎が燃え上がる。
外から完全に封鎖された海霧の街カルディス。
逃げ場のない巨大な箱庭の中で、十歳の死神による一人目の幹部狩りが、今まさに始まろうとしていた。
第32話「箱庭の封鎖と、三匹の獲物」をお読みいただき、ありがとうございます!
今回は戦いの前の静かな夜として、シオンとリアの切ないやり取り、そして王都のルナとの魔導通信を描かせていただきました。
「伝染病の検疫」を口実に、公爵家の権力で港町をまるごと外部から封鎖してしまうルナの悪逆令嬢っぷりと、ノアへの狂気的な愛情を楽しんでいただけたなら幸いです!
そしてついに、設計図を分け合った帝国特務機関【黒鉄】の3人の幹部(闘技場・娼館・海上要塞)が判明しました。
次回より、最初の標的である【血の闘技場】の支配人・ガルフの攻略へと向かいます!
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