【第31話:「血塗られた倉庫と、不気味な空白」】
濃い海霧が立ち込める深夜のカルディス港。
潮風に乗って漂う磯の香りは、今や濃密な鉄錆の匂い――すなわち、鮮血の臭気によって完全に塗り潰されていた。
港の最奥部にそびえ立つ、赤錆びた巨大な密輸倉庫。
本来であれば、地元マフィアの精鋭たちが厳重に警備を固めているはずのその場所は、すでに【夜鴉】の孤児たちによる一方的な『屠殺場』と化していた。
「ぐあっ……!? ど、どこから……!」
「て、敵襲だ! ――かはっ!」
暗闇と海霧に紛れ、音もなく飛び交う漆黒の刃。
悲鳴を上げようとした見張りの喉元を、リアの短剣が正確に掻き切る。
正面から魔導銃を構えて迎え撃とうとした屈強な男たちの前には、シオンが巨大な重盾を構えて立ち塞がった。
放たれた魔力弾が盾の表面で虚しく弾け飛ぶと同時に、死角から回り込んだアッシュたちの刃が、男たちの命を的確に刈り取っていく。
そこに、戦場の熱狂はない。
あるのは、徹底的に訓練された二十四人の孤児たちによる、冷徹で機械的なまでの『排除』の連鎖だけだった。
(――ノア様の歩まれる道に、塵一つ残すな)
アッシュは返り血を浴びながら、冷たい瞳で次なる獲物の首を刎ねた。
彼ら【夜鴉】の孤児たちは、決して殺しそのものを楽しんでいるわけではない。
かつて王都の貧民街で、明日をも知れぬ命として泥水を啜っていた彼らにとって、この血塗られた戦場だけが、自分たちの存在価値を証明できる唯一の場所なのだ。
倉庫の重い鉄扉が、内側から激しく吹き飛んだのはその時だった。
「舐めるなよ、どこの馬の骨か知らねえが……!!」
倉庫の内部から飛び出してきたのは、全身に魔導装甲を纏った傭兵団のリーダー格の男と、十数名の精鋭たちだった。
マフィアが金で雇い入れた、実戦経験豊富な手練れの魔導師たちである。
「一斉射撃だ! 霧ごと焼き払え!!」
リーダーの男の号令と共に、十数名の魔導師が一斉に杖を掲げ、高威力の火炎魔法の構築を開始する。
赤熱する魔力の光が、暗い海霧を不気味に照らし出した。
アッシュたちが即座に散開しようとした、その刹那。
「――遅い。それに、騒がしいな」
氷のように冷たく、それでいて幼さを残した声が、戦場の空気をピシリと凍りつかせた。
炎の魔力を練り上げていた傭兵たちの目の前に、いつの間にか、漆黒のコートを纏った十歳の少年――ノア・アスターが音もなく立っていた。
「なっ……ガキだと!? 構うな、撃て――」
リーダーの男が叫び終えるよりも早く、ノアは小さな右手を無造作に前へと突き出した。
『冥界神の捕食』。
ノアの手のひらから溢れ出したのは、光すらも吸い込む絶対的な漆黒の闇だった。
それは巨大な顎となって前方の空間ごと噛み砕き、傭兵たちが構築しかけていた火炎魔法の魔力を、そして彼ら自身の『魂』と『記憶』を、一瞬にして渦の中へと引きずり込んだ。
「あ……? ぐ、ああああああああっ!?」
「魔力が……俺の魔法が、頭から消えていく……!?」
地獄の底から響くような絶叫が、夜の港に木霊した。
ノアの異能は、単なる命の略奪ではない。彼らが長年かけて鍛え上げた魔法の構築ロジック、戦いの技術、そして生存の根幹たる魂そのものを、文字通り『丸ごと喰らい尽くす』絶対の暴威である。
わずか数秒後。
そこに立っていた十数名の精鋭たちは、干からびた抜け殻となって地面へと崩れ落ち、やがて塵となって海風へと消えていった。
「……ふむ。今の連中は、少しだけ骨があったな」
ノアは自身の小さな手を握りしめ、喰らったばかりの魔力と知識が自身の血肉として統合されていく感覚を、冷徹に確かめていた。
その圧倒的で悍ましい光景を前にして、アッシュたち二十四人の孤児は、一斉に血の海の真ん中で片膝をついた。
(……ああ、まただ。ノア様はまた、俺たちの代わりに、あんなにもおぞましい人間の『澱おり』をその身に飲み込まれた……)
シオンが拳を固く握りしめ、リアが痛ましそうに唇を噛む。
敵の魂を丸ごと喰らうということは、相手が抱えていた恐怖や絶望、汚らわしい記憶のすべてを自身の内側に受け入れるということでもある。
わずか十歳の少年が、復讐のため、そして自分たち孤児を守り導くために、どれほどの精神的な負荷と孤独を背負っているのか。
それを思うたび、孤児たちの胸は張り裂けそうなほどの悲哀と、狂おしいほどの忠誠心で満たされていくのだった。
「ノア様。倉庫の外周、すべて制圧いたしました」
アッシュが震える声を押し殺し、深く頭を垂れて報告する。
「ご苦労。……中へ入るぞ」
ノアは短く応じると、吹き飛んだ鉄扉の奥――暗い密輸倉庫の内部へと足を踏み入れた。
倉庫の内部は、奇妙なほどに静まり返っていた。
積み上げられた無数の木箱。かすかに漂う、帝国産の魔導燃料の匂い。
ノアは先ほど喰らったマフィアのボスと傭兵リーダーの『記憶』を脳内で検索し、目的の物が保管されているはずの、倉庫最奥の厳重なコンテナへと迷いなく歩を進めた。
シオンとアッシュがコンテナの重厚な錠前を破壊し、扉を大きく開け放つ。
「……これは」
中を確認したアッシュの声が、低く険しいものへと変わった。
コンテナの中は、もぬけの殻だった。
いや、正確には違う。中央に据えられた台座の上には、アスター家の紋章が刻まれた古い木箱が確かに置かれていた。
だが、ノアがその木箱に歩み寄り、無造作に蓋を開けると――。
中に入っていたのは、奪われたはずの『設計図』の束ではなかった。
そこに収められていたのは、見覚えのない、銀色の奇妙な魔導通信機が一つだけ。
そして、その通信機の横には、一枚の白い羊皮紙が添えられていた。
『――ようこそ、アスターの生き残り。そして、可愛らしい夜鴉たち。
だが残念だったな。お前たちが探している『設計図』は、すでに3つのパーツに分割され、このカルディスを支配する3人の幹部がそれぞれ別の場所へ持ち去った後だ』
ノアの瞳が、絶対零度へと冷え込んでいく。
「ノア様、これは……!」
リアが焦りを滲ませて声を上げた、その瞬間だった。
木箱の中に置かれていた銀色の魔導通信機が、ひとりでに淡い光を放ち、ノイズ混じりの男の声を響かせた。
『ククク……聞こえているか、ノア・アスター。俺たちは帝国特務機関【黒鉄くろがね】。お前が王都のカジノでバトラーの豚を喰らった時から、お前たちの動きはすべて計算済みだ』
通信機から響く声は、余裕と嘲笑に満ちていた。
『設計図は明後日の新月の夜など待たず、すでに街の奥深くへと分散させた。取り戻したければ、この歓楽港町カルディスの裏社会すべてを敵に回し、俺たち【黒鉄】の幹部を一人ずつ殺して回ることだな。……もっとも、海霧に閉ざされたこの巨大な蟻地獄から、お前たちが無事に生き残れればの話だがな!』
プツン、と一方的に通信が途切れ、通信機は内部から自壊して黒い煙を上げた。
倉庫の中に、重苦しい沈黙が降りる。
明後日の出港前に一網打尽にするはずだった計画は、帝国の特務機関によって完全に先回りされていたのだ。
「……ノア様。申し訳ありません、私の情報精査が甘く、奴らの罠に……」
アッシュが悔しさに顔を歪め、石畳に額を擦り付けようとする。
だが、ノアはそれを無言で制した。
十歳の少年の小さな手が、アッシュの肩にそっと置かれる。
「頭を上げろ、アッシュ。お前たちのせいではない」
ノアの声には、怒りも焦りもなかった。
ただ、底知れぬ深淵を覗き込むような、静かで冷徹な響きだけがあった。
「むしろ、手間が省けたというものだ。船で海へ逃げられるのが最も面倒だったが……奴ら自身が、この街に留まって俺たちを『迎え撃つ』と言っているのだからな」
ノアは自壊した通信機を靴底で無慈悲に踏み砕き、暗い倉庫の天井を見上げた。
「3つに分けられたというなら、3人とも順番に魂の底まで喰らい尽くせばいい。……アッシュ。ルナに連絡を入れろ。予定変更だ。これより俺たちは、このカルディスという街そのものを内側から食い破り、完全に支配下に置く」
「……っ、御意に!!」
主の揺るぎない言葉に、孤児たちの瞳に再び狂信的な光が宿る。
単なる密輸倉庫の襲撃は終わった。
ここから始まるのは、海霧の港町カルディス全土を血で染め上げる、暗殺組織【夜鴉】と帝国特務機関【黒鉄】による、壮絶な全面戦争だった。
第31話「血塗られた倉庫と、不気味な空白」をお読みいただき、ありがとうございます!
第4章【歓楽港町カルディス編】、本格始動です!
ノアの圧倒的な『冥界神の捕食』による蹂躙、そしてノアが背負う孤独と業に胸を痛めながらも、絶対の忠誠を誓うアッシュたち孤児の悲壮な絆を描かせていただきました。
しかし、制圧した密輸倉庫で待ち受けていたのは、帝国特務機関【黒鉄】による罠。
設計図は3つに分割され、物語はこの港町カルディス全体を巻き込んだ『裏社会の全面戦争』へとスケールアップしていきます!
じっくりと腰を据えて、ノアたちの冷徹な暗躍と、王都からルナが仕掛ける盤外戦術を描いていきますので、第4章もどうぞよろしくお願いいたします!
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