第12話:「愚者の城落ちと、新たな『目』」
逃げるようにローゼンバーグ公爵邸を後にしたバルガス男爵は、王都東区にある自らの広大な屋敷へと転がり込んだ。
「馬車を出せ! 金目のものをすべて積み込め! 急げ!!」
玄関に飛び込むなり、出迎えた執事やメイドたちに唾を飛ばして怒鳴り散らす。
あの冷酷な瞳を持ったルナ。そして、物理法則を無視して屈強な傭兵を氷漬けにした、悪魔のような十歳の少年。
あんな得体の知れない化け物どもの下についていれば、いつか確実に殺される。
(あの裏帳簿さえなければ……いや、今はとにかく逃げるのが先だ。他国へ渡るだけの資産さえあれば、いくらでもやり直せる!)
バルガスは息を切らしながら、屋敷の最奥にある自身の執務室へと駆け込んだ。
部屋には、特注の分厚い魔力鋼で作られた巨大な金庫が鎮座している。彼が長年、公爵家の領地から横領し、裏社会との癒着で蓄え続けてきた莫大な金塊と権利書が眠る場所だ。
「開けっ! 早く開けろ!!」
バルガスは震える指先で魔力を流し込み、複雑な解除パスワードを弾き出した。
ガコン、と重い音を立てて、金庫の扉が開く。
「よし、これで……っ!?」
バルガスは金庫の中に手を突っ込もうとして、そのまま全身を硬直させた。
金庫の中には、金塊も権利書も、何一つ残されていなかった。
ただ一つ。
空っぽの空間の中央に、冷気を放つ『氷の彫刻』が鎮座しているだけだった。
それは、丸々と太った醜い豚の姿をしており、その顔は、他でもないバルガス自身を嘲笑うかのように歪められている。
「あ……あぁっ……」
バルガスの喉から、ひゅっ、と引き攣った音が漏れる。
知っている。昨日、闇オークションの金庫室からアスター家の遺物と資金が根こそぎ奪われた際、現場に残されていたという『氷の豚』。
「う、嘘だろ……。いつの間に……っ!? 誰か! 誰かおらんか!!」
全財産を失ったバルガスは発狂したように叫び、執務室の扉を開け放った。
***
「賊だ! 賊が入り込んだぞ! 衛兵! 護衛の魔導師ども!! 何をしている、早く来い!!」
廊下に向かって怒号を響かせるが、返ってくるのは不気味なほどの静寂だけだった。
足音一つ、話し声一つ聞こえない。
バルガスは嫌な汗を流しながら、ふらつく足で廊下を進み、広間へと出た。
「なっ……」
そこで彼が目にしたのは、文字通り『凍りついた』屋敷の惨状だった。
広間を警備していたはずの数十人の屈強な私兵たちが、全員、武器を構えた姿勢のまま、足元から首元まで分厚い氷に覆われて静止していたのだ。
傷一つなく、血の一滴すら流れていない。
ただ『音もなく、一瞬にして、命の活動だけを止められた』完全なる氷の彫像たち。
「ひぃぃっ……! ぁ、あ、ああああっ……!」
自分の城(屋敷)の中で、気がつけば完全に孤立無援。
絶対的な死の気配に腰を抜かし、バルガスが床に這いつくばった、その時だった。
コツン、コツン、と。
静まり返った氷の広間に、優雅なヒールの音が響いた。
「随分と静かなお屋敷ね、バルガス男爵」
正面の巨大な両開き扉から、豪奢なドレスを纏ったルナが、ゆったりとした足取りで歩み入ってきた。
その斜め後ろには、影のように寄り添う黒いスーツの少年、ノアの姿がある。
「き、貴様ら……っ! い、いつの間に私の財産を……っ!」
「あなたが茶会で怯えて逃げ帰るための馬車を手配している間に、ノアが少し『先回り』をしてくれたのよ。……優秀な従者でしょう?」
ルナは扇子で口元を隠し、クスクスと残酷な笑い声をこぼした。
暗殺者の歩法と氷結の魔力。それらを完璧なロジックで組み合わせたノアにとって、この程度の屋敷の警備網など、存在しないも同然だった。
ノアは感情の読めない深海の瞳で、床に這いつくばるバルガスを見下ろしている。
「さて、バルガス男爵。お茶会での約束を果たしてもらいに来たわ」
ルナは、先ほどノアが金庫から奪い取っていた書類の束の中から、数枚の羊皮紙を抜き出し、バルガスの目の前に落とした。
「あなたの全財産、そして『王都東区の裏社会の利権』と『西の鉱山の採掘権』……すべてをローゼンバーグ公爵家に無償譲渡するという誓約書よ。ここに血判を押しなさい」
「ふ、ふざけるな! そんなものを渡せば、私は……っ」
「押さなければ、ここでノアの氷の彫刻になるだけよ。……どちらを選ぶの?」
ルナの氷のように冷酷な宣告。
ノアが一歩前に出ると、周囲の気温がさらに数度下がり、バルガスの全身を死の恐怖が包み込んだ。
もはや、抵抗する気力など微塵も残されていない。
「……あ、ああ……っ」
バルガスは涙と鼻水にまみれながら自身の指を噛み切り、震える手で誓約書に血判を押した。
長年かけて築き上げた彼の権力と財産が、たった一人の覚醒した令嬢と、名もなき底辺の少年によって、完全に簒奪された瞬間だった。
***
「よくできました」
ルナは誓約書を拾い上げ、満足げに微笑んだ。
「これで……東区の娼館や裏社会のネットワークが、完全に俺たちの手足になったな」
ノアが周囲の氷漬けの私兵たちを一瞥しながら、静かに口を開く。
「ああ。バルガスが流していた裏金や情報網を使えば、王都の地下に潜む『光の教会』の末端くらいは、見つけ出せるかもしれないわね」
五年前、アスター家を滅ぼした巨大な黒幕。
その神聖なる腐敗に辿り着くための、確かな『目』と『資金力』。
「……行くぞ、ルナ。まだ喰い足りない」
「ええ、そうね。この国のすべての権力を、私たちが喰らい尽くしてやるわ」
主を失い、冷たい静寂に包まれた男爵邸。
その氷の城を背に、真の侵略者となった二人は、次なる標的を見据えて王都の闇へと優雅に歩み去っていった。
お読みいただきありがとうございます!
第二章、ルナとノアによる公爵家利権の「完全なる簒奪」フェーズです。
バルガス男爵のような小悪党の浅知恵など、ノアの先回りの前には何の意味も持ちません。(第7話の「氷の豚」がここでも活躍しました!)
彼から奪い取った「裏社会のネットワーク」と「鉱山の利権」。
これらは単なるお金ではなく、これから二人が『光の教会』という巨大な敵と戦うための「目」であり「武器」となっていきます。
少しずつ、しかし確実に王都の裏側を侵略していく二人の覇道を、これからもお楽しみください!
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次回、手に入れた情報網がさっそく「教会の影」を捉え始めます。お楽しみに!




