第103話 黒鉄の炉と、新世代の萌芽
王都からの軍事侵略の危機が完全に凍結されてから、アスター領はかつてない活気と熱気に包まれていた。
山嶺から吹き下ろす凍てつく北風の中、アスター公館の東側平原には、巨大な石造りの複合プラントが急速にその威容を現しつつあった。
旧カルステン領の廃鉱山から解体・移設された『高純度魔導鉱石精錬炉』。
かつてカルステンの悪徳領主が私腹を肥やすために帝国と密貿易していたタングステンおよびミスリル原石の集積場は、いまやアスター領の完全なる内製重工業基盤へと姿を変えていた。
「炉心の温度、目標値の一千二百度に到達! 魔導触媒の注入を開始します!」
作業着に身を包んだ職人頭が、保護眼鏡越しに真っ赤に煮えたぎる坩堝を見つめながら叫んだ。
その声に応え、アッシュが制御レバーを慎重に押し込む。
ゴオォォォォォッ!
炉の開口部から青白い炎が立ち上り、不純物を徹底的に排除された高純度ミスリル鋼が、鋳型へと眩い光を放ちながら流れ込んでいく。
通常、これほど高純度の特殊金属を精錬するには、熟練の火系魔導士数十名を連日動員し、膨大な魔石を消費しなければならない。
だが、このプラントの心臓部に組み込まれているのは、全く異なる革新的な冷却・熱交換システムであった。
「熱回収効率九十二パーセント。……排熱エネルギーをアスター・コアの逆転換魔導回路へフィードバックし、隣接する鍛造プレスの動力へ転換する」
高台のキャットウォークからプラント全景を見下ろすノアが、手元の羊皮紙に計算数式を走らせながら淡々と呟いた。
「……信じられませんね」
隣で帳簿を抱えるハインツが、感嘆の息を漏らす。
「火力を極限まで高めながら、炉の外郭は常温以下に保たれている。通常の鍛冶場のような熱暴走事故の危険がゼロであるばかりか、消費する燃料はカルステン領時代の三分の一以下です。これならば、一日に十両分以上の防爆装甲板を連続鋳造できます」
「手元金庫の軍資金五万二千八百枚のうち、この精錬炉移設と職人の冬期特別手当に投じたのは三千枚。……費用対効果としては妥当な数値だ」
ノアは冷淡に視線を下ろした。
炉の周囲では、かつてカルステン領で奴隷のように酷使されていた鉱山労働者たちが、暖かい防寒着と適正な賃金を与えられ、誇らしげに槌を振るっている。
彼らにとって、ノアは搾取者ではなく、生命と尊厳を保障した絶対の統治者であった。
「ノア様、第一試作ロットの成型が完了いたしました」
階段を軽やかに駆け上がってきたリアが、布に包まれた長方形の金属塊を恭しく差し出した。
布が払われると、現れたのは鈍い銀灰色に輝く、重厚な金属プレートであった。
表面には微細な幾何学模様が刻まれ、触れるとわずかにひんやりとした冷涼感が伝わってくる。
旧カルステン産の特殊耐熱タングステンと、アスター・コアから抽出された極低温変質触媒を分子レベルで合金化した新素材――【零氷硬化鋼】。
「硬度、耐熱性、ならびに魔導耐性テストの結果は」
「王立騎士団の主力魔導剣による連続斬撃、ならびに第三階梯の火炎球の直撃に対し、表面の歪みは零・零二ミリ未満。一切の貫通を許しませんでした」
リアが誇らしげに報告する。
「うむ。旧式の青銅鎧や粗悪な鉄甲冑しか持たぬ王国軍や帝国歩兵の通常火線では、この装甲を貫くことは物理的に不可能だ。……アッシュ、この合金を用いて、直ちに領軍二百名全員の防護装甲を新調しろ。さらに、冷凍弩の矢尻にもこの鋼材を採用し、装甲貫通力を現行の三倍に引き上げろ」
「了解いたしました! 一週間以内に、領軍全兵力の装備更新を完了させます」
アッシュが力強く頷き、指示書を手に現場へと駆け戻っていった。
◇
夕刻。雪が静かに降り積もるアスター公館の執務室。
暖炉には薪が心地よい爆ぜる音を立て、ノアのデスクの上には王都のローゼンバーグ商会から届いた最新の情勢報告書が広げられていた。
「ルナ会頭からの定期報告書です」
リアが淹れたてのハーブティーをカップに注ぎながら、羊皮紙をノアの前へと開いた。
『――ノア、王都貴族院は完全に手詰まりよ。
クラウス特使が持ち帰った「粉々に割れた白銀甲冑」は、貴族院議場の中央に晒され、主戦派の喉元を完全に凍りつかせたわ。
国王エドワード六世は正式に「アスター領への軍事・財政不干渉」を勅令として布告。
事実上、アスター領は王国内における完全な自治領……いいえ、独立国家としての地位を手に入れたわね。
けれど、クロムウェル派の残党と結託していた南方の穀倉貴族どもが、水面下で怪しい動きを見せ始めているわ。
彼らはアスター領に直接手を下せないと悟り、王都への食糧供給ルートを南から買い占め、ローゼンバーグ商会の流通網を兵糧攻めで潰そうと画策しているの。
……南方の豚どもにも、少し冷たい現実を教えてあげるべきかしら?』
報告書を読み終えたノアの口元に、冷徹な計算の笑みがわずかに浮かんだ。
「南方の穀倉地帯か。……温暖な気候と平原に胡坐をかき、飢饉の恐れを知らぬ貴族どもの常套手段だな」
「ノア様、南方の買い占め工作に対し、商会への追加融資を行われますか?」
リアが問う。
「不要だ。金で対抗すれば、相手の土俵に乗ることになる。……市場の価格を決定するのは、貨幣の量ではなく『需要と供給の物理的バランス』だ。南方の作物が凶作になれば、彼らの買い占め資産は一瞬で焦げ付き、破滅的な負債へと反転する」
「……凶作、ですか?」
リアが首を傾げる。
「アスター・コア第5段階【熱力学支配】は、空間の熱エントロピーを大陸規模の大気循環へと波及させることが可能だ。……南方から王都へ伸びる暖流の気流ベクトルをわずかに歪め、局所的な早期降霜を引き起こす計算式は、すでに完成している」
ノアの指先が、地図上の南方平原を静かに指し示した。
手に入れた強大な古代の力は、いまや一領地の防衛を超え、大陸の気候と経済の力学すら冷酷に操り始めていた。
王権を屈服させた復讐の刃は、旧体制の腐敗した富を根こそぎ解体するための、次なる一手へと伸びていた。
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