第104話 白霜の平原と、弾け飛ぶ投機熱
王国南方に広がる広大な穀倉地帯『オーベルニュ平原』。
年中温暖な気候と豊かな水脈に恵まれたこの地は、王都の食糧供給の半分以上を一手に担う大動脈であり、同時に旧クロムウェル公爵派の残党貴族たちが牛耳る最後の牙城でもあった。
平原の中心にそびえるオーベルニュ伯爵公館の大広間では、豪奢な毛皮をまとった南部貴族たちが、最高級のワインを酌み交わしながら高笑いを上げていた。
「ハッハッハ! 見たか、ローゼンバーグ商会の買い付け代理人どもの青ざめた顔を!」
丸々と太ったオーベルニュ伯爵が、肉厚な手を叩いて叫んだ。
「王都へ向かう主要街道沿いの穀物サイロというサイロを、我ら南部貴族連合がすべて手付金を打って買い占めてやったのだ! アスターの小僧と結託して調子に乗っていた商会め、いまごろ王都で小麦の手当てがつかずに頭を抱えているに違いない!」
「伯爵閣下、まことに見事な一手でございます」
取り巻きの貴族がグラスを掲げて追従する。
「王都の民衆が飢えに悲鳴を上げれば、買い占めた小麦を通常の五倍……いや、十倍の法外な値で売り抜けてやればよい。アスター領から奪えなかった軍資金五万枚など、この穀物相場の高騰で一瞬にして取り戻せますぞ!」
南部貴族連合は、王都貴族院での失地を挽回すべく、領民から集めた年貢だけでなく、帝国の闇金融から法外な金利で借り入れた巨額の資金までも全額この「小麦買い占め投機」へと注ぎ込んでいた。
作柄は平年並み、王都の需要は逼迫。
勝利を確信した彼らにとって、この投機は絶対に負けるはずのないゲームであった。
だが――彼らが嘲笑っていた『アスターの小僧』が操る力学が、経済の法則すら根底から覆す絶対の物理であることを、誰一人として知る由もなかった。
◇
遥か北方、標高二千メートルのアスター山嶺の頂。
雪煙の舞う断崖の上に、ノア・アスターは直立していた。
耐寒外套が激しい突風に激しくはためく中、ノアの半歩後ろにはリアが、そして風除けの岩陰には魔導気象測定器を抱えたアッシュが控えていた。
「ノア様、南部から北方へ抜ける大陸規模の主対流――【第二ジェット気流】の座標、捕捉完了いたしました」
アッシュが凍てつく指先で計器の数値を読み上げた。
「現在、オーベルニュ平原の上空には、南方海洋からの温暖多湿な気団が滞留中。通常であれば、このまま二ヶ月間は温暖な秋晴れが続く気圧配置です」
「計算に誤差はないな」
ノアの瞳が、漆黒から深淵なる蒼氷色へと変色した。
胸郭の奥底――古代遺産【始原の氷核】を統合し、完全覚醒を果たしたアスター・コアが、大気そのものと同調して静かに唸りを上げる。
第5段階【熱力学支配・エントロピー零度領域】。
ノアの意識は、肉体の檻を抜け出し、大陸上空数千メートルを流れる巨大な大気循環系へと直接接続された。
「熱エントロピーの局所逆転。……気流偏向角、東経四度、北緯十二度へシフト」
ドクン……!
ノアの胸元から放たれたのは、破壊の冷気ではなかった。
成層圏を流れる超高空ジェット気流の特定ポイントから、わずかコンマ数パーセントの熱エネルギーを吸熱・中和し、気圧の均衡を人為的に崩す『極微細なバタフライ効果』。
上空の暖気流がわずかにコースを外れた瞬間、行き場を失った北極圏の超極低温気団が、堰を切ったように南方平原の直上へと雪崩れ込んでいった。
ヒュオオオオオオォォォ……!
地上数百キロメートル四方の気象ベクトルが、ノアの描いた数式通りに歪められていく。
「気候変調、完了だ」
ノアが静かに両腕を下ろした。
息を呑んで計器を見つめていたアッシュが、震える声で叫んだ。
「……信じられません! 南方平原の気圧配置が逆転、超大型の寒冷前線がオーベルニュ全域を直撃します! 今夜未明、平原全域の気温は氷点下五度まで急降下します!」
「南方の小麦は、実を結ぶ直前の最も低温に弱い時期だ。……行くぞ、リア」
「はっ!」
三人は山頂を後にし、静かに公館へと戻っていった。
◇
翌朝。オーベルニュ平原。
目を覚ましたオーベルニュ伯爵は、屋敷の窓ガラスが白く凍りついている異様な光景に飛び起きた。
「な、なんだこれは……!? 息が白いぞ! 暖炉はどうした!」
慌ててバルコニーへ飛び出した伯爵の目に飛び込んできたのは、地獄のような白銀の光景であった。
黄金色に実るはずだった見渡す限りの広大な小麦畑が、一夜にして真っ白な霜に覆い尽くされていた。
零下の冷気によって細胞壁を破壊された小麦の穂は、黒く変色して無残に垂れ下がり、腐敗の臭気を放っている。
平原を吹き抜けるのは、例年では決してあり得ない、身を削るような冬の北風であった。
「ひ、ひぃぃぃっ!? わ、我が領地の小麦が……全滅だと……!?」
伯爵が腰を抜かして叫んだ瞬間、執事が血相を変えて階段を駆け上がってきた。
「か、閣下! 大変でございます! 王都の穀物取引所にて、ローゼンバーグ商会が突如として数万トンもの備蓄小麦を市場へ一斉放出し始めました!」
「な……なにを馬鹿な!? あいつらは小麦の手当てがついていなかったはずだぞ!?」
「それが……アスター領の完全自給倉庫から、特殊冷凍コンテナによって鮮度を保たれた最高品質の北方小麦が、何百台もの魔導輓馬によって王都へ運び込まれているとのことです! 王都の小麦相場は大暴落! 買い占めた我らの小麦の担保価値は、紙屑同然に暴落しております!」
「あ……あ……」
伯爵の喉から、掠れた空気の抜ける音が漏れた。
全財産を投じ、高利貸しから借金までして買い占めた平原の穀物は一夜にして壊滅。
さらに王都の相場が暴落したことで、南部貴族連合が抱えた買いポジションは天文学的な焦げ付き負債へと反転したのだ。
「さらに、ローゼンバーグ商会の債権回収部隊が、帝国闇金融の債権をすべて買い取ったと……! いま、この屋敷の差し押さえ令状を持って門前に押し寄せております――!」
「ぎゃああああああああっ!!」
オーベルニュ伯爵は泡を吹いて卒倒し、大理石の床へと崩れ落ちた。
◇
アスター侯爵公館、執務室。
卓上の通信機から、ルナの鈴を転がすような笑い声が響いていた。
『ふふふ……最高ね、ノア! 南部貴族連合の買い占めカルテルは完全に破綻したわ。オーベルニュ伯爵をはじめとする残党貴族全員が破産宣告。彼らが所有していた南方の全穀倉地帯と街道の物流拠点は、すべて当商会が二束三文で競売落札したわよ』
「当然の結果だ。投機とは確率と気象の関数に過ぎん。……その変数を握っているのが誰かも知らずに踊った豚どもの末路だ」
ノアは冷淡に羊皮紙に受領印を押した。
南方の肥沃な穀倉地帯と王都の全食糧流通網の完全掌握。
武力で一兵も失うことなく、敵対勢力の経済的基盤を根底から消滅させた復讐の刃。
王国全土の胃袋を握ったアスター領は、いまや王宮枢密院すら跪かせる、真の絶対覇権へと王手をかけていた。
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