第102話 震える王宮と、見えざる流通包囲網
王都ルミナス。白亜の巨塔が聳え立つ王宮の円卓会議室には、重苦しい死の静寂が立ち込めていた。
豪奢な大理石の床に、無様に崩れ落ちているのは、かつて尊大にアスター領へと旅立った特使クラウス子爵であった。
紫のビロード外套は泥と汗に汚れ、整えられていたはずの顎髭は恐怖の冷汗で濡れそぼり、両手両足は小刻みな痙攣を繰り返している。
その背後に控える近衛騎士二名は、極低温脆化によって粉々にひび割れた白銀甲冑の残骸を晒し、直立することすらできずに膝を突いていた。
「……も、申し訳ございませぬ……! あの男は、ノア・アスターは人ではございません……! あれは、絶対零度を纏う死神です……!」
クラウスの引き攣った悲鳴が、金箔張りの天井へと反響する。
円卓の上座に座す国王エドワード六世は、青ざめた顔で額に手を当て、沈黙を守っていた。
その周囲を固める十数名の貴族院重鎮たち――かつてクロムウェル公爵と結託し、甘い汁を吸い続けてきた大貴族たちは、怒りと恐怖の混じった怒号を上げ始めた。
「勅命を足蹴にし、王家の特使を恫喝して追い返しただと!? 万死に値する反逆だ!」
「王室への納税拒否など前代未聞! 直ちに王都近衛軍を総動員し、十個連隊を北方に差し向けて逆賊ノアを処刑台へ送るべきです!」
「そうだ! 旧カルステンの鉱山利権と五万余枚の軍資金を接収せねば、我が国の財政は破綻する!」
喚き散らす老貴族たちの騒音を、乾いた拍手の音がピシャリと断ち切った。
「ふふ……本当に滑稽ね。滅びゆく恐竜たちが、現実の数式も見えずに遠吠えを上げているわ」
会議室の重厚な扉を開け放ち、優雅に歩み入ってきたのは、深紅のイブニングドレスを纏った美女――ローゼンバーグ商会会頭、ルナ・ローゼンバーグであった。
扇子を弄びながら冷ややかに見下ろすその眼差しに、貴族たちが一斉に色めき立つ。
「ルナ会頭! ここは貴族院最高軍事評議会ぞ! 商人風情が何用だ!」
「何用? あなた方の破滅の請求書を届けに来たのよ、無能な閣下たち」
ルナは冷笑を浮かべ、円卓の中央へと分厚い羊皮紙の束を叩きつけた。
それは、王都における穀物、塩、ならびに魔導燃料の最新の物流差引勘定帳であった。
「ノアが特使に告げた言葉を、まさか単なる虚勢だとでも思っていたのかしら? ……ご覧なさい。王都の穀物サイロに保管されている小麦の七割は、我がローゼンバーグ商会がアスター侯爵家の手元金庫を担保にして買い付けたものよ」
「な、なんだと……!?」
財務卿の老貴族が、震える指先で帳簿をめくり、絶句した。
「もし、あなた方がアスター領討伐の軍令に署名した瞬間、商会は全小麦の引き渡しを即時凍結するわ。さらに、アスター領から供給される極低温冷却触媒の流通も完全にストップする。……明朝の夜明け前には、王都中のパン屋から小麦粉が消え、貴族街を照らす魔導ランプもすべて消灯するわね」
ルナは扇子の先で、クラウス子爵の頭上をツンと指し示した。
「小麦の価格が十倍に跳ね上がり、飢えた王都の市民十万人が暴徒と化してこの王宮を取り囲む。……十個連隊を出陣させるどころか、自分たちの寝首を掻かれないよう、城門を閉ざして震えるのが関の山よ」
「お、のれ……謀ったな、アスターの小僧と結託して……!」
軍務卿が腰の剣に手をかけようとしたが、玉座のエドワード六世が重々しく右手を挙げ、それを制した。
「……控えよ、軍務卿」
国王の声には、老衰と深い無力感が滲んでいた。
「帝国北部軍二万五千を消滅させ、帝都の地下工廠を単独で解体した男だ。……兵站もなく、民衆を敵に回して勝てる相手ではない」
「陛下! では、王家の威信を泥に塗られたまま、あの逆賊を放置せよと仰るのですか!?」
貴族たちの悲痛な叫びに対し、ルナは妖艶な笑みを深め、優雅にカーテシーを捧げた。
「放置する必要などありませんわ、陛下。……アスター領は『自給の絶対領国』を宣言しただけ。理不尽な略奪を仕掛けない限り、北方国境を帝国から守り続ける鉄壁の防波堤であり続けます。手を出さず、形式上の不可侵条約を結ぶことこそが、王都が生き残る唯一の合理解ですわ」
会議室は、鉛を呑み込んだような完全な沈黙に支配された。
剣を抜くことすら許されず、経済と兵站の首輪を完全に締め上げられた王宮。
血を流すことなく王権の傲慢を屈服させたノアの復讐の演算は、いまや王都枢密院の命運すらその掌の上で転がしていた。
◇
北方、アスター侯爵公館。
雪の降る静かな夕暮れ時、ノアの執務室に遠隔暗号通信のベルが澄んだ音を鳴らした。
「ノア様、王都のルナ様より通信です」
淹れたての温かな紅茶を差し出しながら、リアが報告する。
ノアが端末の暗号キーを解除すると、ルナの楽しげな音声パルスが空間に広がった。
『――ノア、王宮評議会を完全に沈黙させたわ。特使の無様な姿と、小麦の流通封鎖の脅迫で、貴族院の主戦派は完全に腰が引けた。国王はアスター領への軍事干渉の無期限凍結を決定したわよ』
「予測通りの挙動だな」
ノアは冷淡に紅茶を口に含んだ。
「王都の貴族どもが自らの保身を最優先にする確率は九十八・四パーセント。……だが、これで終わりではない。旧カルステン領の鉱山から算出される希少金属の精錬プラントを、領内へ移設する準備を進めろ」
「了解いたしました」
リアが美しく一礼し、翡翠色の瞳を誇らしげに輝かせる。
アスター領の完全独立と、王権の無力化。
復讐のロジックは、大陸の旧秩序を静かに、そして確実に解体しながら、次なる布石へと歩みを進めていた。
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