第101話 王家の親書と、白銀の使者
アスター領が『完全自給の絶対領国』を宣言してから、十日の月日が流れていた。
霜降り峡谷に築かれた高さ八メートルの氷岩複合擁壁は、アスター・コア第5段階の安定した冷気循環を得て、ダイヤモンドにも匹敵する硬度へと硬化を完了していた。
二万五千の帝国軍を呑み込んだ泥流の跡地には、整然とした哨戒路と監視塔が立ち並び、旧カルステン私兵を取り込んだ領軍の鋭い眼光が国境の尾根を睨み据えている。
領民千四百名は、配給された小麦と薪によって飢えと凍えから完全に解放され、工房では改良型局所冷凍弩の量産が昼夜を問わず続けられていた。
その鉄壁の外郭門の前に、一台の豪奢な馬車が姿を現したのは、薄氷の張る朝のことであった。
白漆喰に金箔で縁取られた豪奢な車体。
扉には、王家直属の象徴である『双頭の獅子と百合』の紋章が誇らしげに刻まれている。
護衛として従うのは、白銀のフルプレートアーマーに身を包んだ王宮第一近衛騎士団の精鋭二十名。
いずれも王都の選りすぐりであり、馬上の騎士たちは寒村と侮っていたアスター領の整然とした軍事要塞の威容に、兜の奥で息を呑み、硬直していた。
「止まれ。これより先はアスター侯爵領直轄防衛区である。武装を解除し、通行許可証を提示せよ」
防壁の銃眼から突き出された冷凍弩の切先が、寸分の狂いもなく馬車の車軸を捉えていた。
応対に出た門衛兵の規律正しい威圧感に、先頭の近衛騎士が狼狽しながら馬を引いた。
「無礼者め! 控えよ! 此方におわす方をどなたと心得るか! 国王陛下より全権を委ねられし特使、クラウス・フォン・ゼルバッハ子爵閣下であられるぞ!」
騎士が声を張り上げる中、馬車の扉が内側から開かれた。
降り立ったのは、仕立ての良い紫のビロード外套を羽織り、顎髭を綺麗に整えた三十代半ばの貴族であった。
王宮貴族院の重鎮にして、国王の側近特使。
クラウス子爵は、氷岩の巨壁と銃眼に整然と並ぶ新鋭兵器を一瞥し、眉間に微かな不快感を刻みながらも、冷ややかな笑みを浮かべた。
「……なるほど。二万五千を退けたと聞き及んでいたが、山奥の貧民どもにしては小奇麗に整えているではないか。だが、王室への礼節を弁えぬ野蛮さは変わらんと見える。ノア・アスター殿に伝えよ。国王陛下の直筆親書を携え、勅命を伝えに参ったと」
◇
アスター公館、大謁見の間。
かつて隙間風が吹き抜けていた広間は、断熱結界と整然とした石造り暖炉によって心地よい暖気に満たされていた。
上座の黒檀の椅子に深く腰掛けるのは、領主ノア・アスター。
その半歩後ろには、完璧な給仕の所作で控えるリア。
一段下がった側衛の位置には、鋼鉄の甲冑を纏った老将ヴェルナーと、帳簿を手にしたアッシュが無言の威圧感を放って直立していた。
「遠路はるばる王都よりご苦労だ、特使殿」
ノアの瞳は、感情を一切映さない絶対零度の静寂を湛えていた。
入室したクラウス子爵は、護衛騎士二名を従えて広間の中央まで進み出ると、恭しく恭順の礼を取ることもなく、尊大な態度で懐から金糸の巻物を広げた。
「ノア・アスター卿。まずはお慶び申し上げよう。帝国北部軍レオポルト中将の二万五千を水攻めにて撃滅せしめた貴殿の武功、王宮においても高く評価されておる。よって国王陛下は寛大にも、卿の爵位を侯爵として追認し、王国北方の防衛司令官としての地位を正式に授ける仰せである」
「前置きは不要だ。本題を口にしろ」
ノアが冷淡に遮った。
クラウス子爵の眉がピクリと跳ね上がった。
だが、ノアの放つ底知れぬ威圧感に気圧されたのか、咳払いを一つして巻物の後半へと視線を落とした。
「……結構。では直答しよう。陛下ならびに貴族院からの勅命は二点である。
第一に、先の戦役において接収した旧カルステン領の全鉱山および財閥資産、ならびにアスター領の手元金庫にある軍資金五万余枚の内、八割を王都の国庫へ『戦時特別復興税』として即時上納すること。
第二に、アスター領が独自に配備している極低温魔導兵器の設計図面、ならびに霜降り峡谷の防衛結界の制御権を、王立魔導院へ無条件で引き渡すことである」
広間の空気が、一瞬で凍りついた。
ヴェルナーの握る鞘がギリと軋み、アッシュの目が冷酷に細まる。
血を流して戦った果ての成果を、安全な王都でぬくぬくと傍観していた腐敗貴族たちが、国家の権威を盾に強奪しようという露骨な要求であった。
「……もし、その不条理な要求を拒絶した場合はどうなる」
ノアの声音には、怒りすら含まれていなかった。
ただ、結果を予測するための数式を確認するかのような平坦さであった。
「拒絶などあり得ぬ」
クラウス子爵はせせら笑い、巻物を巻き直した。
「王命に背けば、いかに戦功があろうと国家反逆の逆賊。王都より十個連隊からなる王国正規軍を差し向け、アスター領を逆賊として討伐するまでのこと。卿が聡明であるならば、王威に服し、忠誠の証として財宝と兵器を差し出すのが唯一の生き残る道と理解できるはずだが?」
「なるほど。力学の計算が全く成り立っていないな」
ノアは静かに立ち上がった。
ドクン……!
ノアの胸元――始原の氷核を統合し、第5段階【熱力学支配・エントロピー零度領域】へと覚醒したアスター・コアが、微細な共鳴音を立てた。
謁見の間の大気から、すべての熱量が瞬時に抜き取られていく。
「な、なんだ……この寒気は……!?」
クラウス子爵が唇を青ざめさせ、震え上がった。
暖炉の炎が一瞬で凍結し、青白い氷柱となって静止する。
従っていた二名の近衛騎士が腰の剣を抜こうとした瞬間――パキィン!
騎士たちの白銀甲冑の表面が急速な超極低温によって脆化し、指先を触れられただけで砕け散るガラスのような氷の膜に覆われた。
「貴様らの要求には、致命的な三つの誤謬が存在する」
ノアは一段ずつ、階段を音もなく降りてクラウスの前へと歩み寄った。
「第一に、王都の国庫はクロムウェル公爵の失脚と帝国戦の余波によりすでに破綻寸前であり、十個連隊を北方に動員する兵站能力は存在しない。
第二に、アスター領の手元金庫五万枚は、ローゼンバーグ商会を通じてすでに王都の全小麦流通ルートの担保として組み込まれている。これに手を触れれば、明朝には王都全域でパンの供給が停止し、暴動によって貴族院が焼き討ちされる。
そして第三に――」
ノアの冷徹な人差し指が、クラウス子爵の喉元へと突きつけられた。
触れてもいない皮膚が、絶対零度の冷気圧によって凍てつき、白く変色していく。
「――二万五千の帝国軍を沈黙させ、帝都の地下工廠を単独で解体したこの私を前にして、貴様ごとき無能な伝令が生きて王都へ帰れると信じていることだ」
「ひ、ヒィィィィッ……!!」
クラウス子爵は耐え難い死の恐怖に腰を抜かし、無様に床へとへたり込んだ。
傲慢だった特使の顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃに崩れ、金糸の親書は床の上を泥のように転がった。
「ノア様、この者たちを処分いたしますか」
背後からリアが音もなく歩み寄り、冷たい刃をクラウスの後頭部へと宛がった。
「殺す必要はない。耳と手足を残して王都へ送り返せ」
ノアは床に落ちた親書を足蹴にし、冷酷に宣告した。
「国王と貴族院へ伝えろ。『北方アスター領は、これより王国への納税および一切の軍事統制を拒絶する。理不尽な略奪を望むならば、王都の近衛全軍を率いてこの氷壁へ来るがよい。……すべてを絶対零度の泥流へ沈めてやる』とな」
息も絶え絶えに這いつくばる特使たち。
王国中央との決別、そして腐敗した宮廷貴族たちを解体する新たな謀略の幕が、いま切って落とされた。
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