#2 Contact――そうか
宇宙船《リヴァール号》は、地球と木星間を行き来する定期運行便だった。
その船はチクローポが生まれ育った場でもあった。もっとも彼はいつどこでどのようにして、この世界に放り出されたのかを知らなかった。
彼は人でいわれる三十歳になるまで、地球木星間を何度も往復しながら、中継地の惑星や小惑星や衛星を探索してきた。彼にとって宇宙は《リヴァール号》に次ぐ第二の故郷だった。水晶を見つけたのも探索中のときだった。
もちろん、中継地以外の大地に足を下ろしたことはなかったが、チクローポは年齢には見合わないほど宇宙に長けていた。だから、宇宙映像家をはじめてもそれほど苦労しなかった。
しかし彼は別の問題を抱えていた。人間がなんなのかをほとんど知らなかったのだ。
「おい、お前、今回は出航に間に合うように帰ってくるんだろうな? こっちはお前一人の我儘に付き合ってられるほど暇じゃねーんだ。――わかってるのか? わかってるなら『はい』といえ」
「……」
チクローポは《リヴァール号》では、無口で無愛想として、ある程度は知られていた。
「まったくよ、なんで船長がお前みたいのを気にして、出発時間を遅らせるんだかな。――おい小僧、聞こえてたら『はい』っていえよ。片目は見えなくても耳は聞こえてるんだろ !? こっちは給料分以上の仕事はしたくねーんだ」
航海長は運行計画に口うるさい男だった。もっとも彼のような神経質な男がいるおかげで、《リヴァール号》の定期運行が成り立っていたともいえた。
「じゃあな」
宇宙服を着たチクローポはイタリア語でそれだけいうと、半身を隠すほど大きな撮影機材の入った荷物を背にして、気密扉の向こうに消えていった。
「なにいったんだ? お前わかるか?」
「知るわけないだろ。あいつ英語喋んないんだから」
航海長とそこにいた男は呆れ返っていた。
こうして、チクローポは中継地に着くたびに船を下りて歩き回っては、自分のペースで宇宙を撮影していた。
乗務員たちにとってそうした行動は甚だ迷惑なものだったが、彼は外なる無をカメラに収めようとすることの意味を、説明する気など毛頭ないようだった。
とはいえ、チクローポが《リヴァール号》の乗務員たちに対して冷酷だったのではない。
食べて寝て動いてという生き残るための術を、彼は乗務員たちから学んでいたからだ。
船内生活はもちろん、真空の宇宙でもそうだった。宇宙服の使用法、バックパックや救急用具の使い方、そうした事柄は実地を交えながら、乗務員から色々と手ほどきを受けてきたのだった。
彼はその返礼として、様々な情報を《リヴァール号》にもたらした。極寒の大地から突き出す氷柱の場、噴火口から煮えたぎる硫黄が吹き出している場などだった。
船長はそうした宇宙開発用の情報を売って一儲けしていた。そしてそれが、チクローポの我儘が許される命綱になっていた。
そんなチクローポの撮影方法は一風変わっていた。
失った左目の視力を補うために、彼は常に両手に二つのカメラを手にしていた。機材が大きな荷物になる理由はそのせいだった。
そうして、見える右目と二つのカメラを連動させるようにして撮影した。
かつて少年時代に、両手に持った二つの水晶で、三つ目の水晶の存在を感じ取る感覚を思い出すようにして。
だが、どこの地を歩き回っても、なかなかそういう感覚を蘇らせてくれる光景に出会うことはなかった。
こうして、いわゆる五年の歳月が流れ去っていった。
その間じゅうもチクローポは船内にいるときは、通路や入り組んだ場所を歩き回っては、外なる無を探し出すことを止めなかった。
そんなある日、いつものようにどことも知れぬ真空の地に降りようと、気密扉の前に立っていたとき、後ろから声をかけられた。
振り返ると膝まである明るい栗色の髪を垂らした、ディジアのすらりとした姿があった。
彼女は北軍の月基地に所属していた機関整備士兼看護師だったが、北軍の傲慢なやり口に腹を立て、《リヴァール号》の専従医師であるパンチャの口利きを得て、出向してきた身だった。
「すみません。ちょっと時間はあるかしら? お訊きしたいことがあって」
「……」
ディジアは、振り向いただけでなにもいわないチクローポに数瞬戸惑ったが、好奇心が打ち勝ったのか、先をつづけた。
「あなたの撮影のしかたが変わってるって聞いて、それで少し話を訊きたいんですけど、いま大丈夫ですか?」
「なんだ?」
「二つのカメラを同時に使うとか。――それでね、そのやり方ってこの船のとても変わった機関の作動方式に似てるなって思いましてね。つまり、あ……わたし、ディジアといいます。この船の機関整備士です。順番が逆になってごめんなさいね」
「そうか」
チクローポはそれだけいうと、彼女から興味を失ったのか、手を止めていた下船の準備にかかった。
「あの、わたし看護師でもあるんですけど、そっち方面と繋げて考えると、その……あなたの撮影方法がとても興味深くてですね。――それでその両面、つまり科学的側面と身体的側面からあなたの撮影方法を検証して、それでなにかに役立てられたらって思って……」
ディジアは訊きたいことを口にしていたが、あまりにも無頓着にもぞもぞしながら宇宙服や機材の準備をつづけるチクローポの背中に弾かれたのか、だんだん声が小さくなっていった。
そうして彼女の声が途切れたとき、
「ロックを開ける。死ぬぞ」
とだけ彼はいった。
宇宙に吸い出されては叶わないと、ディジアは無言で気密室の前室に引き返すしかなかった。
だが、チクローポは胸のうちで微笑んでいた。
《リヴァール号》が彼の家であることはわかっていたが、その船の機関もまた内なるとも外なるともつかない無に関係していると知れたことに。
そしてまた、ディジアの耳障りでない流暢なフランス語にも心地よさを感じたようだった。
だが、チクローポはそうした感情を表現するのに、眉毛ひとつ動かさなかった。
いや、彼はどうすればそれができるのかを知らなかったのかもしれない。
この日、彼は《リヴァール号》の出航時間に合わせて帰ってきた。
チクローポにとって、ディジアから耳にした話は、それほど大きな影響を与えたらしい。
一方、ディジアはといえばこうだった。
(行っちゃった……また今度かな……。でも、また次ってあるのかしら? わたし夜勤班だから時間が合わないのよね、あの人と……)
彼女は曇った硬質アクリルの窓から、小さくなっていくチクローポの背中を目で追いかけたあと、持ち場の機関室に戻っていった。
後に乗務員たちから、髪長姫と呼ばれるようになるディジアと、チクローポの出会いは宇宙の大気のようだった。




