#1 it――それ
"それ"ははじめ無に等しかった。
だが、あるとき異質さを感じて目を覚まし、なにもないようなあるような感覚を知った。
その緩慢な、すべてが混ざりあったような"それら"を、"それ"はじっとしたまま味わっていた。
"それ"が目にしていた"それら"は、まるで湖の底で静止した水が、微かに揺蕩うのにあわせて揺らめくだけだった。
しかし、"それら"は非常にゆったりして鈍重で、ほとんど動かなかった。
"それ"は、"それら"を物として捉えはじめはしたが、そのことが不快でたまらず、なにもなくなる場を求めて彷徨った。
そうして "それ"はなにもない場を見つけて安住しようとしたが、世界は "それ"に牙を剥いた。
ふたたび"それら"を感じ、なにかが動き出してしまうのだった。
"それ"は何度も何度も、なにもなくなる場を探し求めて徘徊して、無ともいいうる場を見つけ出せはしたが、しばらくすると "それ"の平穏は掻き乱されるのが常だった。
しだいに "それ"は"それら"の喧騒に慣れていったが、世界はまたしても "それ"に襲いかかった。
音とは違うなにかを"それ"は捉えた。
"それ"は"それ"がたてる音を、このころもう知っていたが、"それ"とは異なる"それら"が出す音を感じていた。
耳障りで無意味で変化に激しい"それら"の音に耐えるために、"それら"と一体化しようとして"それら"を真似てみた。
「いいけど」
「やだね」
「よう」
「じゃあな」
「そうだよ」
「しらない」
こうして、"それ"は音とは違う奇妙さがあることを知った。
"それ"にとって、すべての"それら"は相変わらず緩慢だったが、その弛緩した"それら"は、"それ"の知る時間感覚とはかけ離れているようだった。
"それ"が"それら"鈍重の世界から抜け出すまでにかかった時間はわからない。星が生まれてから死ぬまでといってみても、そう遠い比喩ではないだろう。
だが、"それ"は"それら"から徐々に抜け出していった。
"それ"は"それら"を知り、"それら"のひとつが自分であると知り、"それら"も自分も、どうやら時間のなかで蠢いていることに気づいた。
それから、"それ"は"それら"以外にも関心を向けるようになり、足と呼ばれるもので移動し、目と呼ばれるもので見て、耳と呼ばれるもので音と言葉を聞き分けながら、時間と呼ばれる海のなかを泳いでいった。
しかし、"それ"は時折"それら"に心の底から嫌悪感を抱いて、あの懐かしい無ともいいうる場を探し出しては、そこに引き籠ることがあった。
その無ともいいうる場は、あらゆる喧騒が消え去る平和と呼ばれていた。
"それ"は、そうして人でいわれる七歳になったとき、どことも知れぬ場で、"それ"がいままで見たり聞いたり触れたりしたことのない、異質な感覚に出会った。
"それ"は"それ"に心を奪われ、"それ"と一体になりたい欲求に囚われ、突き動かされた。
そうして、"それ"は"それ"に手を伸ばしてそのひとつを掴み取り、そこにあったもうひとつを手にし、さらにそこに残ったもうひとつを胸に抱きかかえた。
三つの水晶だった――。
"それ"は、"それ"の美しさに魅了され、それが失われるのを恐れて、無ともいいうる場を探し出しては、そこに引き籠ることが増えた。水晶とともにあることは、"それ"の内に無を作り出すことだったが、外にある無ともいいうる場はしばらくすると、いつもどこかへ去ってゆき姿を晦ました。
"それ"は逃げ去る無を追うことで、足と目と耳と手と直感を頼りに、外にある無ともいいうる場を探し出すことが、段々上手くなっていった。
"それ"と、外にある無ともいいうる場との追いかけっこは、終わることなくつづいた。
"それ"は悩んだ。終わりのない追いかけっこを終わらせる方法があるはずだと。
そうしてある日、"それ"は見出した。"それ"の願いを実現してくれそうな人物を。
国際宇宙機構、計算機科学博士のルフトだった。
"それ"はその人に三つの水晶を託して、外の無ともいいうる場が固定的で永続的になる場を作って欲しいと訴えた。
その人物に会う道は険しかったが、"それ"はなんとかきっかけを得た。
そのために名前が必要だと知り、"それ"は自分にチクローポという名を付けた。
意味などどうでもよかった。声に出したときの音が気に入っていただけだった。
彼はそうしてルフトに夢を託した。チクローポが、人でいわゆる九歳と呼ばれるときのことだった。
水晶を受け取った国際宇宙機構のルフトも、また水晶に魅了された。しかし、チクローポからすれば、幻惑されたように見えた。
彼の予想どおり、ルフトからチクローポに夢が実現したという連絡は、いつまで待ってもこなかった。
彼はそれでも、じりじりしながら待った。
だが、ある日気づいた。ルフトが彼の願った夢とは違う方向に水晶を導いていると。
チクローポは激怒した。憤懣やるかたない思いを抱えて、ふたたびルフトに会いにゆき、
「水晶を返せ!」
とイタリア語で迫った。
イタリア語は彼が一番気に入っている言語だった。彼が名前に選んだ理由と同じで、音の美しさに惹かれていただけだった。
しかしチクローポは、耳にしてきたほかの幾つかの言語も、苦もなく自然に憶えることができた。
彼はルフトと激しいやり取りをしたあと、三つあった水晶のうち、ひとつを返してもらうことができた。
「二つの水晶を組みあわせて水晶玉にしてしまったから、それらは返すことができない。だが、君と約束したことを忘れてはいない。信じてくれ」
ルフトはそう説明し、残ったひとつの水晶を返してくれた。
チクローポは納得するしかなかった。だが、直感的に知っていた。三つ一組でないと彼の内に無を作り出せないことを。
彼は号泣して内なる無は永遠に失われてしまったと嘆きながら、ルフトから返してもらった水晶を、元あった場所に戻した。
しかし、そのとき彼は水晶からの洗礼を受けた。
宇宙服を着てどことも知れぬ大地を必死にひた走っていたとき、水晶からの召命を受けたのだ。
「パヴリーン……パヴリーン……パヴリーン……」
召命はたったそれだけだった。
次の瞬間、チクローポは突然、世界の半分が暗闇に包まれたことに気づいた。
そして、二つになった世界は水晶からの復讐であり呪いであるとも直感した。
こうして彼は左目の視力を失った。
だが、星が生まれてから死ぬまでに似た時間の海を泳いできたチクローポは気が長かった。
彼は召命の意味を知るために、世界を理解しようとしはじめた。
そうしながらも、彼は外なる無ともいいうる場の感覚を忘れられず、宇宙船のなかを彷徨いては、ときどきその場を見つけ出して、永遠に得られないかもしれない内なる無を失った悲しみを癒していた。
こうしてチクローポは人でいわれる三十歳と呼ばれる年齢になった。
そしてある日、彼が生きてきた時間とは無縁の時間の海に浮かんだまま、ある決意をした。
まずは外なる無が固定されている場を探そうと。それが永続的でなくとも。
こうしてチクローポは宇宙映像撮影家になったのだった。




