#15 Calling――パヴリーン
「走れ!」
ガニメデの北軍基地エンキ・ドームの通路に野太い男の声が反響した。
北部条約機構、情報省長官シャッテンの怒りを買ったエイミーとチクローポは、スパイ容疑をかけられ、脱走兵となって道案内した北軍応召兵ティシアーとともに通路を駆けていた。
三人があと一歩で基地の出口に辿り着こうとしたとき、エイミーが転んだ。
ティシアーはそれに気づくと通路を引き返して、彼女を助け起こした。
「さあ、立って」
そのとき、応召兵の背中に銃弾が突き刺さった。
「走れ、パヴリーン!」
ひとあし先に出口に到達していたチクローポは、そこに置いた大きな荷物を弾除けにしながら、エイミーを励ました。
「どうしてよ、どうしてなのよ!」
彼女は銃弾に抗議の声をあげながら、恐怖に憑かれて出口へと走り出た。
チクローポはすぐにエイミーを抱えあげると、猛然と近くに止められていた、軽装四輪車を目指して疾駆した。
こうして二人のガニメデ逃走劇がはじまった。
しかし道は困難を極めた。
ドーム内は基地内より遥かに酸素濃度が薄く、ふつうに運動するだけで体力を激しく消耗したからだ。
それまで何度も薄い大気を経験してきたチクローポはよかった。だが、不慣れだったエイミーはすぐに体力が尽きて朦朧としはじめた。
だがドームの壁の向こう、比較的安全な宇宙は遠かった。
それでもエイミーはチクローポに背負われて、ドームの壁際にまでやってきた。
しかし、もはや彼女はどう見ても限界のようだった。
チクローポは彼女に水筒の水を飲ませ、残った水を頭から振りかけ、頬を軽く叩いて蒙昧を追い払おうとしたが、無駄だった。
じっとしていれば、いずれドームの壁まで銃殺隊が迫ってくるのは時間の問題だった。
(宇宙服を着させなければ……)
だが、彼にはそれができなかった。
エイミーに宇宙服を着せるためには、彼女が着ている服を脱がさなければならかったからだ。
そしてそれは、たとえ彼女が命の危機にあったとしても、チクローポからすれば暴力以外のなにものでもなかった。
パンタミーマは男女の営みのことを、
「あーあ、ままごとしてるみたいだ」
といったが、それはもちろん表面上の滑稽さを指してだった。
彼女にしてもチクローポにしてもそれは、決してままごとなどではなかった。
チクローポにとっての営みは、内なる無を作り出せる数少ない瞑想だった。
パンタミーマにとっては、内なる無と外なる無が合一してすべてが蕩ける境地だった。
どちらにせよ、お互いの意志の均衡があって成り立つ。彼らはそう感じ取っていた。
だから、彼はエイミーの命と暴力を天秤にかけるしかなかった。
それまでチクローポは、遭難者の救難救護で何度も宇宙服を切り裂いたりしてきたが、パンタミーマとの無の愛を知ってしまったいま、彼にとってそれはもはや暴力でしかなかった。
(すまない……)
チクローポは目に涙を溜めながらエイミーの服を剥ぎ取った。
無論、朦朧としたままの彼女から意思は確認したのだが、彼はそれでも自分が許せなかった。
(すまない……いつか償える日が……)
彼は、追い求めてきた無なるものを、自ら破壊する行為に及んだ。
こうして、チクローポは贖罪のためにエイミーから離れることを選んだ。
彼女を南軍のラハム地溝帯基地にいるシュド軍医に託すと、ガラクタ同然の《ピラータ号》に乗って、どこかへと去っていった。
(パヴリーンは呪いだったのだろうか……)
チクローポは真っ黒な宇宙を舷窓から眺めながらぽつりと呟いた。
彼にとって贖罪とは、パヴリーンが祝福であるか、あるいはナニモノでもないかを確かめることだった。




