第10話:世界が牙を剥く夜
夜は深く沈み、世界の輪郭がゆっくりと溶けていくような静けさが広がっていた。
朔弥の家の庭は、月明かりに照らされて淡く光り、その光はどこか頼りなく、触れれば崩れてしまいそうな儚さを帯びていた。
レオンは庭の中央に立ち、夜気を胸いっぱいに吸い込んだ。
冷たい風が頬を撫でる。
その風の奥に、微かに鉄の匂いが混じっていた。
戦場の匂い――
レオンが異世界で幾度も嗅いだ、あの匂い。
(……動く。敵は必ず動く。問題はいつではなく、どこでだ)
レオンは目を閉じ、周囲の気配をひとつひとつ拾い上げる。
家の外周に散らばる護衛の気配。
彼らは気配を消しているつもりだが、レオンには静かに燃える焚き火のように感じられた。
(七人……いや、八人。風間は配置を増やしたか)
守られている――
その事実が、レオンの胸に重くのしかかる。
(……俺のせいで、皆が動いている)
その痛みを押し込み、レオンは静かに息を吐いた。
そのとき、背後の縁側の戸がそっと開いた。
木の戸がわずかに軋む音が、静まり返った庭にやけに大きく響いた。
「……レオン」
朔弥の声だった。
普段よりも低く、硬い声。
振り返ると、朔弥、美咲、優斗の三人が立っていた。
三人とも、眠れなかったのだろう。
目の下に薄い影が落ちている。
朔弥が一歩踏み出す。
その足取りには迷いと恐れが混じっていた。
「……本当に、行くのか?」
問いというより願いに近い響きだった。
レオンは微笑んだ。
その微笑みは優しさと決意が混じり、どこか寂しげだった。
「大丈夫だ。俺は逃げない。お前たちを巻き込まないためにも、俺が動く」
静かな声。
だが、その奥には揺るぎない意志があった。
美咲が小さく息を呑む。
その肩が震え、握りしめた手が白くなるほど力が入っていた。
「やめようよ……レオンくん……危ないよ……」
優斗は拳を握りしめ、レオンを睨むように見つめた。
だがその目には怒りではなく、どうしようもない不安が滲んでいた。
「無茶すんなよ……お前がいなくなったら……俺ら……」
言葉の続きを言えず、優斗は唇を噛んだ。
レオンは首を振った。
その動きは静かで、しかし揺るぎない。
「俺は死なない。君たちを守るために、俺はここにいる」
その言葉は、三人の胸に深く突き刺さった。
三人は何も言えなくなり、ただレオンの背中を見つめるしかなかった。
その背中は、少年のものではなく――
戦士のものだった。
朝の光は弱く、まるで世界が夜の名残を引きずっているようだった。
玄関のチャイムが鳴り、朔弥の母が扉を開けると、そこには風間が立っていた。
昨日よりも疲れた顔。
だが、その目には強い決意が宿っていた。
「……おはようございます。少し、お時間をいただけますか」
声は低く、しかしどこか急いているようでもあった。
風間はリビングに通されると、レオンの前に座った。
「レオン君。昨日の話……本気なのか?」
問いかけというより、覚悟を確かめるような響き。
レオンは頷いた。
「敵は俺を狙う。なら、俺が単独で動く瞬間を作ればいい」
風間は眉をひそめ、深く息を吐いた。
「……正直危険すぎる。だが、確かに敵は食いつくだろう」
レオンは淡々と続ける。
「敵は俺を捕らえたい。なら、動く状況を作ればいい」
風間はしばらく沈黙した。
その沈黙は、言葉を探すためではなく――
覚悟を受け止めるための間だった。
やがて、風間はゆっくりと息を吐き、レオンを真正面から見据えた。
「……分かった。君の意志は、もう誰にも止められないだろう」
その声は、政治家の声ではなかった。
戦場で部下の覚悟を受け止める指揮官の声だった。
風間は続けた。
「だが――前にも言ったが、ひとつだけ私にも譲れないものがある」
レオンが静かに視線を向ける。
風間は言葉を選ぶように、ゆっくりと、しかし確かな声で言った。
「君を独りでは行かせない。影の中に潜む者が誰であれ……君を守る手は、必ず近くに置く」
それは命令ではなく誓いだった。
「姿は見せない。君の動きを縛ることもしない。だが――君が倒れたとき、支える者は必要だ」
レオンの瞳がわずかに揺れた。
それは拒絶ではなく理解の揺れだった。
風間は最後に、静かに、しかし強く言った。
「それが……私の条件だ」
レオンは短く息を吸い、そして深く頷いた。
「……それでいい」
二人の間に流れた沈黙は、もはや緊張ではなく――
戦士同士の信頼だった。
昼過ぎに家を出たレオンは、あえて人通りの少ない道を選び、ゆっくりと歩いた。
太陽は傾き、世界は橙から赤へと色を変えていく。
夕陽が沈みかけ、影が長く伸びる。
風が止まり、空気が重く沈む。
(……来るか)
レオンは人気のない公園へ足を踏み入れた。
夕暮れの光が、遊具の影を異様に長く引き伸ばしている。
その影が――揺れた。
影の中から何者かが現れる。
人間の姿。
だが、その目は笑っていない。
明らかに訓練された者だ。
男はゆっくりと歩み寄り、レオンの前で立ち止まった。
「……レオン・ウル・アラリウス、だな?」
声は低く、乾いていた。
レオンの瞳が鋭く光る。
「……誰だ?」
男は微笑む。
だがその笑みは、人間のものとは思えないほど冷たかった。
「君を迎えに来た。我々の国へ――」
その瞬間。
レオンの背後で、風が裂けた。
影が歪み、黒い靄が渦を巻くように立ち上がる。
白く光る目がレオンを捉えた。
(……同時か。狙いは俺を混乱させること)
男が懐から何かを取り出す。
影潜みが咆哮を上げる。
夕陽が完全に沈む直前、世界が赤と影に染まるその瞬間――
レオンは聖剣を構え、静かに息を吸った。
「――来い」
その声は、静かで、深く、揺るぎなかった。




