第9話:勇者の決断
翌朝。
薄い雲が空を覆い、光は地面に届く前に力を失っていた。
世界が夜の名残を引きずったまま、新しい一日を迎えることをためらっているような、そんな朝だった。
朔弥の家の周囲には、昨日までにはなかった静かなざわめきが漂っていた。
風が吹くたび、どこかで衣擦れの音がする。
それは生活音ではなく気配を消そうとする者の気配だった。
レオンは縁側に立ち、その気配をひとつひとつ丁寧に拾い上げるように目を細めた。
(……六人。いや、七人。配置が増えている。風間の判断は早いな)
家の中では、家族たちが落ち着かない様子で朝食を囲んでいた。
味噌汁の湯気がゆらゆらと揺れ、その揺れが、家族の不安を映し出しているようだった。
「……本当に、守ってくれてるのね」
朔弥の母が窓の外をちらりと見て呟く。
その声には、安心と不安が入り混じっていた。
守られているはずなのに、胸の奥がざわつく。
そんな感情が、家族全員の表情に滲んでいた。
朔弥は箸を止めたまま、落ち着かない表情を浮かべる。
「守られてるはずなのに……なんか、怖いな」
レオンは静かに席につき、家族の不安をひとつひとつ胸に刻むように目を閉じた。
(……俺のせいで、日常が壊れていく。でも――それでも、守らなければならない)
その痛みを抱えながらも、レオンの瞳には揺るぎない光が宿っていた。
通学路には、一見ただの通行人に見えるスーツ姿の男女が数人歩いていた。
だがレオンには分かる。
彼らは戦士だ。
歩き方、視線の動かし方、呼吸のリズム――
すべてが訓練された者のそれだった。
(……昨日より増えている。風間は本気だ)
優斗が苦笑しながら言う。
「……なんか、映画みたいだな。俺ら、そんな大事件の主人公だったっけ?」
美咲は不安げに周囲を見回す。
「全然落ち着かない……」
朔弥は小さく息を吐いた。
「守られてるはずなのに……なんか、怖いな」
レオンは三人の少し前を歩きながら、静かに言った。
「怖がる必要はない。彼らは……君たちを守るためにいる」
その声は落ち着いていたが、その奥には鋭い緊張が潜んでいた。
(俺を守る必要はない。守られるべきなのは三人の方だ。俺も朔弥たちを守る)
レオンの決意は、昨日よりもさらに強く、鋭くなっていた。
校内はざわついていた。
「昨日、黒塗りの車が来てたらしいぞ」
「誰かの家に偉い人が来たって」
「影の怪物の事件と関係あるのか?」
三人は廊下を歩くだけで視線が集まる。
その視線は好奇心と恐怖と疑念が入り混じった、複雑な色をしていた。
先生たちも妙に優しく、距離を測るような態度を見せた。
レオンは校内には入らず、校舎の影から三人を見守っていた。
その姿は、まるで影の守護者のようだった。
(……敵が動くなら、今日かもしれない)
レオンの視線は、校門の向こう、遠くの通りまで鋭く伸びていた。
朔弥のスマホが震えた。
画面には、風間大臣の名前。
「今日の放課後、話がある。状況が悪化した」
その短い文面だけで、胸の奥が冷たくなる。
三人は顔を見合わせ、レオンは静かに目を閉じた。
(……来たか。世界が、さらに一歩踏み込んできた)
学校の外。
風間は昨日よりも険しい表情で立っていた。
今日は護衛が見える形で同行している。
その姿は、まるで戦場に向かう指揮官のようだった。
「来てくれてありがとう。……状況が、さらに悪化した」
風間は短く息を吐き、重い言葉を落とした。
「複数の国が、レオン君の存在を正式に把握した。確保作戦を計画している国もある。国内で動くエージェントも増えた。SNSでは……レオン君の特徴が拡散され始めている」
三人は息を呑んだ。
「……そんな……」
美咲の声が震える。
「俺たち……どうなるんだよ……」
優斗が拳を握る。
朔弥は唇を噛んだ。
「……レオン……」
風間は続けた。
「影の魔物の出現頻度も上がっている。状況は、もう待ったなしだ」
風間は深く息を吸い、レオンをまっすぐ見つめた。
「……レオン君。君と三人を、一時的に安全な施設へ移したい」
その声には、政治家としての責任と、ひとりの大人としての焦りが混じっていた。
三人は驚き、レオンは静かに風間を見返した。
「防衛省の地下施設だ。一般人は入れない。魔物対策の研究班もいる。君たちを守るには、そこが最適だ」
風間の言葉が落ちた瞬間、空気がわずかに震えた。
それは誰の声でもなく、誰の動きでもなく――
場そのものが揺れたような感覚だった。
優斗が最初に反応した。
椅子を軋ませるほど勢いよく立ち上がり、声を張り上げる。
「避難って……俺らが?」
その声には怒りよりも理解が追いつかない焦りが滲んでいた。
優斗の拳が震える。
その震えは恐怖ではなく自分たちが守られる側に回ることへの悔しさだった。
美咲は唇を震わせ、声を絞り出すように言った。
「家族は……?」
その問いは、自分の身よりも家族を案じる少女の、切実な祈りのようだった。
美咲の指先は膝の上でぎゅっと絡み、爪が白くなるほど力が入っている。
朔弥は言葉を飲み込み、唇を噛んだまま視線を落とした。
「学校は……?」
その声は小さく、しかし重かった。
日常が壊れるという現実を、誰よりも敏感に感じ取っているのは朔弥だった。
風間は三人の視線を正面から受け止め、ゆっくりと頷いた。
「命が最優先だ」
その言葉は、政治家の言葉ではなく、子どもたちを守りたい大人の言葉だった。
しかし――
その瞬間、空気が変わった。
レオンが一歩、前に出た。
その動きは静かだった。
だが、静けさの中に刃があった。
空気がわずかに裂け、その場にいた全員が無意識に息を呑む。
「……行きません」
その声は低く、しかし揺るぎない。
拒絶ではなく決断の声だった。
風間の目が大きく見開かれる。
「……レオンくん?」
レオンは風間の視線を真正面から受け止め、一切の迷いなく言葉を続けた。
「俺が狙われているなら――好都合です」
三人の息が止まった。
その言葉はあまりにも静かで、あまりにも重かった。
レオンは続ける。
「俺が施設に入れば、敵は動きません。でも俺が外にいれば――必ず動く」
その声は淡々としていた。だが、その淡々さこそが覚悟の深さを物語っていた。
風間の表情が険しくなる。
「……まさか……」
レオンははっきりと言った。
「俺が囮になります。エージェントとやらをおびき出し敵の正体を掴むべきです」
その瞬間、部屋の空気が一段階重く沈んだ。
レオンの声は静かだった。
しかしその静けさの奥には勇者としての覚悟が燃えていた。
「レオン……危険すぎる!」
朔弥が叫んだ。
声が震えている。
叫びながらも止められない自分に怯えているようだった。
美咲は涙を浮かべ、レオンの袖を掴みかけて――
しかし触れることができず、その手を胸元で握りしめた。
「そんなの……絶対ダメ……!」
声は細く、今にも崩れそうだった。
優斗は拳を握りしめ、歯を食いしばった。
「一人でなんて行かせねえ……! そんなの……そんなの……!」
だが、レオンは首を振った。
「三人は巻き込めない。これは俺の戦いです」
その言葉は、三人の胸に深く突き刺さった。
レオンの言葉は、守られる側ではなく守る側の言葉だった。
風間はしばらく沈黙した。
その沈黙は、言葉を探している沈黙ではなく――
覚悟を測っている沈黙だった。
やがて風間は、政治家ではなく戦士の目でレオンを見た。
「……君は、本気で言っているのか?」
レオンは頷く。
「俺は勇者です。逃げるために来たわけじゃない」
その言葉は、異世界から来た少年ではなく戦場を知る者の言葉だった。
風間は深く息を吐いた。
「……危険すぎる。だが――君の言う通りでもある」
風間はレオンの覚悟を認めざるを得なかった。
「……分かった。だが一つ条件がある」
レオンが風間を見る。
「君を完全に一人にはしない。護衛はつける。ただし――君の動きを邪魔しない形でだ」
レオンは静かに頷いた。
「それでいい」
夕陽が沈み、空がゆっくりと夜へ変わっていく。
街灯が灯り、その光が地面に長い影を落とす。
レオンは空を見上げた。
雲の切れ間から覗く星が、どこか遠い世界を思わせた。
(……魔王の影も、必ず動く。なら――俺が先に動く)
風が吹き、レオンの髪が揺れる。
その瞳には勇者としての覚悟が静かに燃えていた。
その炎は、誰にも消せない――
レオン自身の意志そのものだった。




