第8話:家の扉を叩く世界
影事件から数日が経った。
その数日間は、まるで世界が静かに息を潜めながら、牙を研いでいるような時間だった。
朝のニュース番組は、どの局も同じ映像を繰り返し流していた。
画面の端には『緊急』や『速報』の文字が踊り、キャスターたちは不安を煽るような声で日本を批判している。
『日本政府は情報を隠蔽しているのでは?』
『影の怪物の正体は?』
『少年たちの安全は確保されているのか?』
海外のニュースキャスターは、まるで日本が世界の敵であるかのように声を荒げていた。
SNSでは、
日本は危険地帯だ。
怪物を国際機関に引き渡せ。
少年たちを保護しろ(=確保しろ)。
と、炎のような言葉が飛び交っていた。
そして――
各国の諜報機関が非公式ルートで動き始めたという情報が、水面下で静かに広がっていた。
世界は、確実に動き出していた。
防衛省の一室。
窓の外には夕陽が沈みかけ、長い影が床に伸びていた。
風間は机に広げられた資料を睨みつけていた。
その目は、政治家のそれではなく戦場を知る者の目だった。
「……もう動き出したか」
資料には、アメリカ、ロシア、中国、EU、その他複数国の非公式エージェント派遣の情報が並んでいる。
目的はただひとつ。
レオンの確保。
少年たちの拉致も視野に入れている可能性が高い。
風間は深く息を吐いた。
その吐息には、政治家としての苦悩と、ひとりの大人としての焦りが混じっていた。
(……官僚の会議なんて待っていられない。世界はもう、次の段階に進んでいる)
風間は立ち上がった。
その動きには迷いがなかった。
「……俺が行くしかない」
その日の夕方。
朔弥の家には、穏やかな空気が流れていた。
レオンは縁側で風に当たり、庭の木々が揺れる音を静かに聞いていた。
その横顔はどこか遠く、この世界に馴染みながらも、まだ異世界の影を背負っているように見えた。
朔弥は宿題を広げ、美咲と優斗は軽く雑談をしていた。
家の中には、夕飯の準備の匂いが漂い始めている。
そんなとき――
ピンポーン。
玄関のチャイムが鳴った。
朔弥の母が「はーい」と返事をしながら扉を開ける。
そして、驚きに息を呑んだ。
「……か、風間大臣……?」
玄関には、スーツ姿の風間がひとりで立っていた。
護衛も、車列もない。
ただ、風間ひとり。
しかし――
その背後には見えない護衛の気配が確かにあった。
風間は深く頭を下げる。
「急に押しかけて申し訳ありません。しかし……時間がありません」
その声は低く、しかし揺るぎない覚悟を帯びていた。
リビングに通された風間は、家族全員と向き合った。
朔弥の父母、優斗の父母、美咲と父母と雫。
そして三人とレオン。
優斗の姉は外出していて捕まらなかった。
風間は椅子に腰を下ろすと、しばらく沈黙した。
その沈黙はこれから語られる言葉の重さを予告しているようだった。
「……まず、謝らせてください。皆さんに伝えるべきことを、伝えられていませんでした」
家族たちは緊張した面持ちで風間を見つめる。
風間は資料を広げることなく、ただ言葉だけで説明を始めた。
「狭山市駅前でおきた影の怪物の件は、すでに世界中に広まっています。そして――日本は情報を隠していると非難されています」
家族たちの表情が強張る。
「さらに……複数の国が非公式エージェントを日本に送り込みました。目的は――レオン君との接触、もしくは確保です」
美咲の母が震える声で言う。
「……確保って……まさか……」
風間は静かに頷いた。
「はい。拉致の可能性もあります。少年たちも、家族の皆さんも、狙われる可能性がある」
雫が美咲の袖をぎゅっと握りしめた。
その小さな手の震えが、この状況の異常さを物語っていた。
風間は深く頭を下げた。
「お願いがあります。レオン君と、三人と、あなた方家族を――日本政府の保護下に置かせてください」
その声には、政治家の打算ではなく、ひとりの大人としての必死さが滲んでいた。
朔弥の父が慎重に問う。
「……保護とは、具体的に?」
風間は迷いなく答えた。
「家の周囲に護衛を配置します。通学路にも、学校にも、警備を置きます。皆さん全員を、24時間体制で守ります」
優斗の父が眉を寄せる。
「……監視ではなく?」
風間は即答した。
「違います。守るためです。利用するつもりはありません」
その言葉は、政治家の言い訳ではなく、覚悟を持った宣言だった。
風間はゆっくりとレオンのほうへ向き直った。
レオンもまた、静かに風間を見つめ返す。
二人の視線がぶつかった瞬間、リビングの空気がわずかに震えた。
風間は深く息を吸い、まるでひとりの戦士に向き合うように言った。
「……レオン君。初めまして。風間だ。君に会うのは、今日が初めてだな」
レオンは姿勢を正し、丁寧に頭を下げた。
「……レオンです。……三人を守ってくれたこと、感謝します」
風間は目を細めた。
「守ったのは君だ。私は……その事実に、ただ敬意を払いたい」
レオンの瞳がわずかに揺れる。
(……この人は、嘘をついていない)
風間は続けた。
「君を武器として扱うつもりはない。ただ……世界が君を狙っている。だから守りたい」
レオンは静かに息を吸い、そして言った。
「……分かりました。俺は逃げません。でも――三人と家族を守ってくれるなら、あなたを信じます」
風間は深く頷いた。
「約束しよう。君たちを守る。それが私の役目だ」
風間はスマホを取り出し、短く指示を出す。
「――配置を開始しろ。対象は四名とその家族。通学路、学校、家の周囲、全てだ」
外で複数の車が動き出す音がした。
その音は日常が終わり、世界が動き出したことを告げる合図のようだった。
家族たちはその音に震え、レオンは静かに息を吸う。
(……世界が、本気で動き始めた)
風間が帰ったあと、家の周囲には見えない護衛の気配が漂っていた。
レオンは窓の外を見つめる。
街灯の光が静かに揺れ、その向こうに世界の影が確かに迫っている気がした。
(……守られるだけじゃ、終われない)
静かな夜の中で、レオンの瞳には確かな決意が宿っていた。




