第5話:夕暮れに寄り添う影
(……そろそろ、三人が帰ってくる時間か)
縁側に座るレオンの耳に、キッチンから聞こえる包丁のリズムが心地よく響いていた。
まな板を叩く音は、どこか安心できる生活の音だ。
そのとき――
ガチャッ、と玄関の扉が勢いよく開いた。
「ただいまー!」
朔弥の声が、夕方の空気を一気に明るく染める。
続いて優斗、美咲の声が重なった。
「ただいま!」
「……帰ったよ」
三人の声はそれぞれ違うのに、どこか同じ疲れを帯びていた。
レオンは縁側から立ち上がり、自然と玄関へ向かう足が速くなる。
「おかえり」
声をかけると、三人は一斉にレオンのほうを向いた。
その瞬間――
三人の表情が、ふっと緩んだ。
「レオン!」
朔弥が駆け寄ってくる。
「大丈夫だったか? 一人で」
優斗が靴を脱ぎながら言う。
「……無理してない?」
美咲は心配そうにレオンの顔を覗き込む。
「大丈夫だ」
短い言葉なのに、三人の気遣いが胸にじんと染み込んでいく。
朔弥は靴を揃えながら、ちらりとレオンを見た。
「……レオン、顔色いいな。午前より落ち着いてる」
レオンは少し驚いた。
(……そんなに、変わったか?)
だが、雫の言葉、朔弥の父と母の声、静かな午前の時間――
それらが胸のざわつきを少しずつ溶かしていたのは確かだった。
「……みんなが帰ってきたから、安心したのかな」
その言葉に、三人は一瞬だけ目を合わせ――
同時に笑った。
「そりゃあ、帰ってくるに決まってんだろ」
優斗が肩を叩く。
「当たり前だよ」
朔弥が笑う。
「……うん。帰ってくるよ」
美咲は静かに、けれど強く言った。
夕方の光が四人の影を長く伸ばす。
その影は、どこかひとつに重なって見えた。
(……夜が来る)
レオンは胸の奥で小さく息を吸う。
このあと、家族たちが集まり、自分の正体を話す時間が来る。
だが――
三人の顔を見ていると、不安は少しだけ形を変えた。
(……大丈夫だ。みんながいる)
夕飯の匂いが、家の中にゆっくりと広がり始めていた。
その香りに気づく頃には、外の光はすでに傾き、夕方の色が静かに夜へと溶けていく。
家の中にも、少しずつ夜の気配が満ち始めていた。
リビングにはまだ夕飯の匂いが漂っていない。
その準備前の静けさが、どこか特別な時間のように感じられた。
四人は自然とテーブルの周りに集まっていた。
朔弥が学生カバンを片付け、優斗が椅子に腰を下ろし、美咲が髪を結び直しながら座る。
レオンも三人の間にそっと腰を下ろした。
誰も「話そう」と言ったわけではない。
ただここにいたいという気持ちが四人を集めていた。
「今日の体育、マジで地獄だったんだけど」
優斗が大げさに肩を回す。
「優斗くんが勝手に張り切っただけでしょ」
美咲が笑う。
「いやいや、あれは張り切らないと逆に死ぬやつだって!」
「死なないよ」
朔弥が呆れたように言う。
そのやり取りに、レオンは思わず口元を緩めた。
(……この空気、好きだな)
アルティリアでは、こんなくだらない話をする時間などなかった。
だからこそ、この何気ない会話が胸に沁みる。
ふと、朔弥がレオンのほうを見る。
「……レオン、今日はどうだった?」
レオンは少し考えてから答えた。
「静かだった。でも……悪くなかった」
「そっか」
朔弥は安心したように微笑む。
優斗が続ける。
「なんかあった? 午前中とか」
「いや……特には。ただ、午後になって雫が来てくれた」
「雫ちゃんが?」
美咲が目を丸くする。
「うん。昨日のこと、気になってたみたいだ」
美咲は胸に手を当て、ほっと息をついた。
「……あの子、敏感だから」
優斗が笑う。
「でも、雫が来るってすげえな。あいつ、レオンに懐いてんじゃん」
レオンは少し照れたように視線を逸らした。
「……そうなのか?」
「そうだよ」
朔弥が即答する。
「雫、レオンの話よくしてるし」
「えっ」
美咲が驚く。
「えっ」
レオンも驚く。
「えっ」
優斗だけが楽しそうだ。
三人の笑い声が重なり、レオンの胸のざわつきが少しずつ溶けていく。
笑いが落ち着いた頃、美咲が小さく呟いた。
「……ねえ、今日の夜のこと」
その言葉に、空気がわずかに揺れた。
優斗も朔弥も、自然と表情を引き締める。
レオンは息を吸い、三人の顔を順に見た。
「……大丈夫だ。俺が話す。逃げない」
その言葉は、自分に言い聞かせるようでもあり、三人に向けたものでもあった。
朔弥が静かに頷く。
「レオンが話したいことだけでいいよ」
優斗が拳を握る。
「なんかあったら、俺らが言うからな」
美咲が柔らかく微笑む。
「……一緒にいるよ」
レオンは胸の奥が熱くなるのを感じた。
(……俺は、一人じゃない)
その実感が、夜への不安を少しだけ軽くした。
そのとき、キッチンから朔弥の母の声がした。
「みんなー、ご飯できるわよー」
四人は顔を見合わせ、自然と笑みがこぼれた。
「行こっか」
朔弥が立ち上がる。
「腹減ったー!」
優斗が伸びをする。
「……ふふ」
美咲が小さく笑う。
レオンも立ち上がり、三人の後ろを歩いた。
(……この時間が、ずっと続けばいいのに)
そう思いながら、レオンはゆっくりと歩を進めた。
夕飯前の温かい空気が、四人を包み込んでいた。
夕食が終わり、食器の音が静かにキッチンへ消えていく。
そのとき――
玄関のチャイムが鳴った。
リビングの空気が、一瞬で張り詰める。
朔弥の父が立ち上がり、玄関へ向かう。
扉が開く音、短い挨拶、靴を脱ぐ気配。
優斗の父母。
美咲の父母と雫。
優斗の姉の沙耶は不在のようだ。
全員がリビングに揃ったとき、空気は一段と重く沈んだ。
雫は美咲の袖をぎゅっと握り、不安そうにレオンのほうを見ている。
朔弥の父が静かに言った。
「……始めようか」
三人とレオンは姿勢を正した。
夜が、静かに幕を開けた。




