第4話:静寂に揺れる心
玄関の扉が開いた瞬間、朝の光が細い帯となって廊下に差し込み、床に淡い影を落とした。
「行ってきます!」
朔弥の声は、いつもよりわずかに張りがある。
昨日の出来事を引きずっているのか、それとも今日の学校に気持ちを切り替えようとしているのか――
レオンには判断がつかなかった。
「気をつけて」
自然と返した声の奥に、小さなざわつきが残る。
扉が閉まる。
その音が、家の空気を一瞬で変えた。
(……静かだ)
アルティリアでは、仲間と離れてひとりで家に残るなどという状況はほとんどなかった。
常に誰かがそばにいて、常に危険があった。
だからこそ、この静けさはどこか落ち着かない。
「レオンくん」
キッチンから朔弥の母が顔を出した。
エプロンの紐を結び直しながら、柔らかく微笑む。
「今日はゆっくりしてていいのよ。お手伝いとかしなくて大丈夫だからね」
その声は、レオンの胸にそっと触れるように優しかった。
「……ありがとうございます」
母は「ふふ」と笑い、朝食の片付けに戻っていく。
皿が触れ合う小さな音が、家の静けさに溶けていった。
レオンはリビングに戻り、テーブルの上に残る朝の名残を見つめた。
食器はほとんど片付けられているのに、そこには確かに家族がいた温度が残っている。
(……こういうの、慣れないな)
温かいのに、胸が少し痛む。
懐かしさに似た感覚が、ゆっくりと胸の奥に広がっていった。
庭に出ると、朝の光が葉の上で揺れ、風が草を撫でていく音が静かに響いた。
レオンは木刀を手に取り、朝の鍛錬の続きをするべく素振りを始める。
ひゅっ――。
空気を切る音が、静かな庭に溶けていく。
(……夜のこと)
今日の夜、優斗、美咲、朔弥の家族に説明をする。
自分が何者なのか。
どこから来たのか。
どこまで話すべきなのか。
すべて話すべきだと分かっている。
だが、考えるたびに胸がざわつく。
「レオンくん」
背後から落ち着いた声がした。
振り返ると、朔弥の父が仕事部屋から出てきていた。
眼鏡を外し、軽くこめかみを押さえながら歩いてくる。
「朝は騒がしくてすまなかったね。慣れないだろう」
「いえ……その、賑やかで……」
父は微笑んだ。
「静かすぎる家より、少し騒がしいくらいがちょうどいいさ」
その言葉は、レオンの胸に静かに染み込んでいく。
父は縁側に腰を下ろし、庭を眺めながら続けた。
「今日の夜のことだが……話したくないことまで話す必要はない。大事なのは、君がどうしたいかだ」
レオンは木刀を握る手に力を込めた。
(……どうしたい、か)
答えはまだ出ない。
けれど、逃げたくはない。
「……ありがとうございます」
父は軽く肩を叩き、「無理はするなよ」とだけ言って仕事部屋へ戻っていった。
その背中は、レオンが知るどの大人よりも普通で、どこか安心できるものだった。
縁側に腰を下ろすと、庭を渡る風が頬を撫でた。
静かで、穏やかで、どこか不安で――
それでも悪くない時間だった。
レオンはゆっくりと目を閉じた。
朝の通学路は、いつもと変わらないざわめきに満ちていた。
自転車のブレーキ音、制服の擦れる音、友達同士の笑い声。
だが――
朔弥、優斗、美咲の三人にとって、そのいつも通りはどこか薄く、遠く感じられた。
三人は並んで歩いていたが、会話はほとんどなかった。
「……なんか、変な感じだな」
優斗がぽつりと呟く。
「何が?」
朔弥が聞き返すと、優斗は前を向いたまま肩をすくめた。
「いや……レオンがいないだけで、こんなに静かなんだなって」
美咲も小さく頷いた。
「うん……。昨日のこともあるし……なんか、胸がざわざわする」
三人はそのまま学校の門をくぐった。
教室に入ると、すぐにクラスメイトたちが声をかけてきた。
「おーい、朔弥!昨日三人とも休んでたけど、どうしたんだ?」
「風邪? それともなんかあった?」
「美咲ちゃんも優斗もいなかったし、珍しいよね」
三人は一瞬だけ顔を見合わせた。
(……どう答える?)
昨日のことをそのまま言えるわけがない。
ダンジョンに行ったなんて言えば、余計な騒ぎになる。
朔弥が苦笑しながら答えた。
「ちょっと……家のことでね。まあ、大丈夫だよ」
優斗は机に荷物を置きながら、わざとらしくため息をついた。
「聞くな。昨日はマジで疲れたんだよ……」
美咲は席に座りながら、小さく呟いた。
「……雫、泣かせちゃったし……」
その言葉に、朔弥と優斗は同時に顔をしかめた。
「……あー……」
「……それは……うん……」
三人の間に、気まずい沈黙が落ちる。
クラスメイトたちは興味津々だったが、三人の雰囲気を察して深くは聞いてこなかった。
授業が始まっても、三人の集中力はどこか上の空だった。
黒板に書かれる文字。
先生の声。
クラスメイトの笑い声。
すべてが日常のはずなのに、どこか薄く、遠く感じられる。
(……レオン、今何してるかな)
朔弥はふと、家に残してきたレオンの姿を思い浮かべた。
(……大丈夫かな)
優斗も、窓の外を見ながら思っていた。
(ちゃんと休めてるといいけどな)
美咲も、ノートを開いたまま手を止めていた。
(……今日の夜……大丈夫かな)
三人とも、心のどこかでレオンの不在を感じていた。
まるで、クラスの空気にぽっかりと穴が空いたようだった。
昼下がりの陽射しが、縁側の木目をゆっくりと温めていた。
レオンは庭を眺めながら、午前の素振りで少し火照った腕を休めていた。
そのとき――
コツ、コツ、と小さな靴の音が門の前で止まった。
レオンは顔を上げる。
「……レオンおにいちゃん」
門の影から現れたのは、ランドセルを背負った雫だった。
頬が少し赤く、髪が汗で額に貼りついている。
「雫……?」
雫はとことこと近づいてきた。
歩幅は小さいのに、迷いのない足取りだった。
「ただいま……じゃなくて……遊びに来たよ」
少し照れたように笑う。
「学園の帰り?」
「うん」
雫はこくりと頷き、靴のつま先で地面をこつんと蹴った。
「……昨日ね、おねえちゃんが帰ってきたとき……なんか、怖かったの」
レオンは息を呑む。
雫は視線を落とし、ランドセルの肩紐をぎゅっと握った。
「おねえちゃん……すごく疲れてて……いつもと違ってて……なんか胸がざわざわして……」
言葉を探すように、雫は小さく息を吸った。
「だから……みんな、大丈夫かなって思ったの」
その声は震えていない。
けれど、昨日の空気を子どもなりに感じ取った影が滲んでいた。
レオンの胸がじんと熱くなる。
「……心配してくれたんだな」
雫はこくりと頷いた。
「うん……。今日、レオンおにいちゃんがここにいて……ちょっと安心したの」
その言葉は、誰か一人に偏らない、雫らしい素直な安心だった。
レオンは自然と微笑んだ。
「俺も……会えてよかったよ」
雫は照れたように頬を赤くし、足元で靴をこつんと鳴らした。
「えへへ……」
風が吹き、雫の髪がふわりと揺れた。
(……雫の声が、こんなに安心するなんて)
アルティリアでは、子どもの声を聞くことなどほとんどなかった。
だからこそ、この小さな存在がくれる日常の温度が、胸に深く染み込んでいく。
「ねえ、レオンおにいちゃん」
雫が顔を上げる。
「また……来てもいい?」
その問いは、まるでここにいていい? と尋ねるような、小さな勇気のかたまりだった。
レオンは迷わず頷いた。
「もちろんだ。いつでも来ていい」
雫の顔がぱっと明るくなる。
「ほんと!? じゃあ……また来るね!」
小さな手を振りながら、雫は走り去っていった。
その背中を見送りながら、レオンは胸のざわつきが少しだけ和らいでいくのを感じた。
(……俺は、一人じゃない)
夕方の光が傾き、庭の影がゆっくりと伸びていく。
レオンは縁側に座り、雫が帰っていった門のほうをぼんやりと眺めていた。
午後の風は少し冷たく、昼間の温度を静かに奪っていく。




