第7話:静寂を破る羽音
休憩を終え、四人は再び霧の奥へと足を踏み入れた。
霧は薄い。
だが、視界の奥は妙に暗く、光が吸い込まれていくような錯覚すら覚える。
耳に届くのは、自分たちの呼吸と足音だけ。
静寂が、逆に不気味だった。
レオンは後方から静かに告げる。
「魔力感知をしたところ、この階層は魔物密度が高い。……ここまでの成果を見せてみろ。俺は後ろで見ている」
淡々とした声。
だが、その奥には試す意図が確かにあった。
優斗、朔弥、美咲の三人は自然と背筋を伸ばす。
緊張と、ほんの少しの期待が胸に灯る。
そのとき――
カツ……カツ……カツ……
岩盤を叩く硬い爪音が、霧の奥から近づいてきた。
規則的で、獲物を狙う捕食者の歩調。
優斗が刀を抜き、朔弥が魔力を練り、美咲が光を構える。
霧の向こうで、影が揺れた。
次の瞬間――
黒い獣が霧を裂いて飛び出した。
――影猟犬
影狼より一回り大きく、筋肉の動きが鋭い。
黒い毛並みは霧に溶け、瞳だけがぎらりと光る。
その姿は、影が形を得たかのようだった。
一体、二体……さらに三体。
合計五体が、音もなく包囲を形成する。
「五体……」
朔弥が息を呑む。
レオンは聖剣を抜かず、後方で腕を組んだまま言った。
「優斗、前衛はお前だ。朔弥は左右の牽制、美咲は後方で援護。……さぁ、やってみろ」
優斗は喉を鳴らし、乾いた唾をひとつ飲み込むと、足裏に力を込めて一歩前へ踏み出した。
「行くぞ……!」
その声が霧に吸い込まれると同時に、影猟犬たちが一斉に散開した。
左右へ滑るように広がり、まるで獲物を囲い込むような円を描いて走り出す。
その動きは野生というより、訓練された猟犬のように無駄がない。
(速い……!)
優斗は最も近い一体の突進を刀で受け止めた。
ガキィッ!
金属と牙がぶつかり合い、衝撃が腕を痺れさせる。
足元の岩盤がわずかに滑り、体勢が崩れかけた。
影猟犬はその隙を逃さない。
体をひねり、霧へ溶けるように姿を消す――
次の瞬間には優斗の側面へ回り込んでいた。
「優斗くん、左!」
美咲の声が鋭く飛ぶ。
優斗は反射的に身をひねり、迫る牙を紙一重で避けた。
ザッ!
爪が頬をかすめ、黒い軌跡が霧の中に溶けていく。
(危ねぇ……! 一瞬でも気を抜いたら終わる……!)
だが、影猟犬は止まらない。
二体が左右から同時に襲いかかり、優斗の逃げ道を完全に塞いだ。
「俺が援護する! 行くぞ……! 《火球》!」
朔弥の火球が霧を裂き、赤い軌跡を描いて影猟犬へ飛ぶ。
しかし影猟犬は体を低く沈め、地を滑るようにして回避した。
「避けた!? こいつら、影狼より賢い……!」
優斗は歯を食いしばり、二体の攻撃を刀で受け流しながら後退する。
だが、後退した先にも影があった。
背後の霧が揺れ、もう一体が音もなく迫っていた。
(囲まれた……!)
その瞬間、レオンの声が霧を震わせた。
「優斗、焦るな。下がりながら誘導しろ。朔弥、美咲、2人で挟み込め」
焦りのない声。
戦況を完全に読み切っている者の響きだった。
優斗はレオンの意図を理解し、影猟犬を引きつけながら後退する。
朔弥が左から魔力を放つ。
「《火弾》!」
火の弾丸が影猟犬の足元を撃ち抜き、動きを一瞬だけ止める。
美咲が右から光を放つ。
「《聖なる矢》!」
光の矢が霧を貫き、影猟犬の動きを牽制する。
その一瞬――
優斗の前に、確かな隙が生まれた。
「今だ……!」
優斗が踏み込み、刀を大きく振り抜く。
ザシュッ!
一体が黒い霧となって散った。
だが、残りの影猟犬は怯まない。
むしろ仲間が倒れたことで、獣の本能が刺激されたように動きが鋭くなる。
「優斗くん、後ろ!」
美咲の声が飛ぶ。
優斗は振り返りざまに刀を構えるが――
影猟犬の跳躍の方が速い。
(間に合わねぇ……!)
その瞬間、朔弥の魔力が爆ぜた。
空気が一気に熱を帯び、霧が揺らぐ。
「《火槍》!!」
炎の槍が一直線に走り、影猟犬の横腹をかすめるように通過した。
ギャンッ!
影猟犬の動きが一瞬止まる。
その刹那――
優斗は迷わなかった。
ザンッ!
刀が黒い体を断ち割り、影猟犬は霧のように崩れ落ちた。
残る二体が霧の奥へ逃げようと、低い姿勢で素早く方向転換する。
「逃がさない……! 《聖なる矢》!」
美咲の光矢が霧を貫き、影猟犬の足元を射抜いた。
ギッ……!
影猟犬の動きが止まる。
「朔弥くん、今!」
「任せろ! 《火弾》!」
連続する火の弾丸が影猟犬を包み込み、優斗が最後の一体を斬り伏せた。
黒い霧がふわりと舞い散り、静寂がゆっくりと戻ってくる。
優斗は肩で息をしながら呟いた。
「……はぁ……はぁ……なんとか……倒せた……」
朔弥も膝に手をつき、汗を拭いながら安堵の笑みを浮かべる。
「連携……うまくいった……よな……?」
美咲は胸に手を当て、震える息を整えながら小さく頷いた。
その瞳には、恐怖と達成感が入り混じっている。
レオンは後方から歩み寄り、三人を見渡して静かに言った。
「悪くない。……今のは、お前たちの力で勝った戦いだ」
その言葉は、霧の冷たさを溶かすように三人の胸へ染み込んだ。
ようやく静寂が戻った――
そう思った矢先だった。
ブーン……ブブーン……ブブブブブブ……
耳障りな羽音が、霧の天井から降り注ぐ。
低く、湿ったような振動音。
影猟犬の咆哮とは違う、刺すための生き物が持つ独特の音色。
美咲が顔を上げ、息を呑む。
「……なに、この音……?」
レオンの表情がわずかに険しくなる。
「上だ。気をつけろ」
霧の天井がざわりと揺れた。
まるで黒い雨が降るように――
無数の影が、音もなく降下してくる。
――黒紋バチ
黒い甲殻に紫の紋様。
毒を帯びた針が、霧の中で不気味に光る。
朔弥が思わず後ずさる。
「うわっ……! 多い……!」
影猟犬の五体よりも、この群れの圧力の方がはるかに強い。
優斗は刀を構え直し、霧の中で羽音の位置を探る。
「犬の後にこれかよ……! 休む暇もねぇ……!」
黒紋バチが一斉に散開し、四人を包囲するように旋回を始めた。
レオンが短く指示を飛ばす。
「優斗は前。朔弥は範囲で牽制。美咲は後衛から守れ。刺されるなよ、こいつは毒が強いぞ」
その声は冷静で、しかし明確に危険を告げていた。
黒紋バチが一体、優斗めがけて急降下してくる。
「きた……!」
優斗は刀を振り上げ、迫る影を弾き飛ばす。
キィンッ!
金属のような甲殻が火花を散らす。
だが黒紋バチは怯まず、すぐに体勢を立て直して再び襲いかかる。
「ちっ、しつけぇ……!」
優斗が斬り払うが、黒紋バチは小さく、動きが速い。
影猟犬とは違う厄介さがあった。
朔弥が魔力を練り、両手を前に突き出す。
「まとめて倒してやる! 《火球》!」
火球が霧の中で爆ぜ、数体の黒紋バチが焼け落ちる。
だが――
「まだ来るよー!」
美咲の声が震える。
霧の奥から、さらに群れが押し寄せてきた。
黒紋バチは影猟犬と違い、数で押してくる。
優斗が一体を斬り落とした瞬間――
別の一体が死角から滑り込んできた。
「優斗くん、右!」
美咲の声が飛ぶ。
優斗は反射的に身をひねるが――
黒紋バチの針の方が速かった。
ブスッ
「くっ……!」
鋭い痛みが肩に走る。
黒紋バチの針が深く刺さっていた。
美咲が悲鳴に近い声を上げる。
「優斗くん!!」
優斗の顔色がみるみる青ざめ、足元がふらつく。
「く……そ……なんだ……これ……体が……重……っ……」
レオンが即座に判断する。
「美咲、解毒だ。落ち着け、優斗はまだ大丈夫だ」
「う、うん……!」
美咲は震える手で優斗の肩に触れ、深呼吸して魔力を集中させる。
「キ、キュアー……!」
だが――
霧の濁りが魔力を乱す。
光が揺れ、形が崩れそうになる。
「美咲、焦るな。魔力を一点に集めろ毒を押し出すイメージだ」
レオンの声が、霧の中で静かに響く。
美咲は目を閉じ、もう一度深く息を吸った。
(大丈夫……できる……優斗くんを……助ける……!)
「《解毒》!」
光が安定し、優斗の肩から黒い毒がじわりと押し出されていく。
「……っ、は……」
優斗の呼吸が落ち着き、顔色が少しずつ戻っていく。
美咲は安堵のあまり、涙をこぼした。
「よかった……ほんとに……よかった……」
優斗は照れくさそうに笑う。
「助かった……美咲。ありがとな……」
レオンは静かに頷いた。
「よくやった、美咲。実戦で成功させたのは大きい」
朔弥も胸を撫で下ろす。
「ほんと……焦った……」
だが、レオンはすぐに表情を引き締めた。
「黒紋バチがこれだけいるということは……この先に巣がある。魔物密度はさらに上がるぞ」
優斗は刀を握り直し、朔弥は魔力を整え、美咲は涙を拭いて立ち上がる。
レオンが霧の奥を見据え、静かに言った。
「……行くぞ。五階層は、この先だ」
四人は再び陣形を整え、影の巣の奥へと進んでいった。
霧の向こうで、黒紋バチの羽音が不気味に響き続けていた。




