第10話:束の間の安らぎ
家の門をくぐった瞬間、張り詰めていた糸がぷつりと切れた。
「……つ、疲れたぁぁぁ……」
朔弥が門柱に背中を預けて、そのままズルズルと座り込む。
「おいおい、家に着いた途端これかよ」
優斗が苦笑しながら肩を叩く。
「だ、大丈夫……? 朔弥くん……」
美咲が心配そうに覗き込む。
レオンは三人を見下ろし、呆れたように息を吐いた。
「……戦いより、帰り道のほうが騒がしいな」
三人は同時に笑った。
その笑いは、緊張が解けた証拠だった。
「んじゃ、俺ん家こっちだから。……おつかれ、朔弥」
優斗が右手をヒラヒラさせながら帰っていく。
「うん……ありがと。優斗もおつかれー」
「朔弥くん、今日は本当に……お疲れさま」
美咲が左隣の家へ向かいながら微笑む。
「美咲もな。……無事でよかったよ」
「うん。また明日ね」
美咲が左隣の家へ歩いていくと、玄関が開き、雫が飛び出してきた。
「おねえちゃーーーん!!」
「ひゃっ……!? し、雫……!」
「心配したんだからぁぁぁ!!」
美咲は抱きつかれながら、「ごめんね……」と苦笑して家に入っていく。
優斗が右隣の家へ向かうと、玄関が勢いよく開いた。
「優斗ーーー!!」
「うわっ、やべっ……!」
母に首根っこを掴まれ、そのまま家の中へ連行されていった。
レオンはその光景を見て、胸の奥がじんわりと温かくなる。
(……これが、この世界の日常……)
朔弥が玄関の扉に手を伸ばした、その瞬間。
ガチャッ!
勢いよく扉が開いた。
「朔弥!!」
「無事だったのか!?」
母と父が飛び出してきた。
二人とも顔が真っ青で、今にも泣き出しそうだった。
「ただいま……」
朔弥は苦笑しながら抱きしめられる。
「ただいま、じゃないわよ! 駅前が大変だったって……!」
「お前が帰ってこないから……!」
母は朔弥を抱きしめ、父は肩を掴んで無事を確かめるように揺らす。
そして――
レオンに気づく。
「……あなたも無事でよかった。朔弥と一緒に帰ってこないから……心配したのよ」
父も深く頷く。
「君も大変だっただろう。怪我はないか?」
レオンは言葉を失った。
胸の奥が熱くなる。
(……俺のことも……心配してくれた……? まるで……家族みたいに……)
母がふっと表情を緩めた。
「……さ、立ち話もなんだし。中に入りましょう。今日は二人とも疲れたでしょう?」
父も頷く。
「まずは手を洗って、少し落ち着きなさい。夕飯、もうすぐできるからな」
朔弥がレオンの腕を軽く引く。
「行こう、レオン。……うちのいつもの夜だよ」
レオンは小さく息を吸い、その温かい空気に包まれるように玄関へ足を踏み入れた。
靴を脱ぎ、廊下を進む。
家の匂い――
木の香りと夕飯の湯気が混ざった、どこか懐かしいような温かさが胸に広がる。
(……これが……帰ってきたって感覚なのか……)
洗面所で手を洗い、朔弥と並んでリビングへ向かうと――
食卓には湯気の立つ料理が並んでいた。
夕食の席。
温かい味噌汁、焼き魚、煮物、サラダ。
どれも家庭の味だった。
「レオンくん、遠慮しないでね」
「たくさん食べなさい」
レオンは箸を手に取る――
が、まだぎこちない。
魚をつまもうとして滑らせる。
「……む。やはり難しいな……これ」
朔弥が笑いながら手を伸ばす。
「こうだよ。ほら、指の位置……」
「お、おう……」
レオンは真剣な顔で箸を握り直す。
魔王を倒した勇者が、箸に苦戦している。
その光景に、家族は思わず笑った。
「レオンくん、かわいいわねぇ」
「うちで練習すればいいさ」
レオンは耳まで赤くなった。
(……こんな温かい食卓……俺は……)
食後、湯気の立つお茶を飲みながら、朔弥の母がふと呟いた。
「……本当に、今日は怖かったわ。街があんなことになるなんて思わなかった」
父も頷く。
「家族が無事に帰ってくることが……どれだけ大事か、思い知らされたよ」
その言葉に、レオンの手が止まった。
朔弥が気づいて、そっと声をかける。
「レオン……お前の家族は、どんな感じだったんだ?」
レオンは少しだけ目を伏せた。
「俺は……大国の王子として生まれた。物心ついた頃には、国は魔王の脅威に晒されててな。剣、魔法、政治……王子としての務めを叩き込まれる毎日だった」
声は弱くない。
ただ、遠い記憶を掘り起こすような静けさがあった。
「父上も母上も……立派な人だ。だが、国を守るために忙しくて……俺が甘える時間なんて、ほとんどなかった」
朔弥は息を呑む。
「十歳の頃には……魔王討伐の旅に出た。国の未来はお前にかかっているってな」
その言葉に、朔弥の胸が痛んだ。
「……十歳で……そんな……」
「だから……家族の温かさってやつを、俺はほとんど知らないまま育ったんだ」
朔弥の母は、そっとレオンの手を握った。
「……辛かったわね」
父も静かに言う。
「ここでは、無理に強がらなくていい。君はもう……うちの子みたいなものだ」
レオンは言葉を失った。
胸の奥が熱くなり、視界が少し滲んだ。
(……こんな温かさ……知らなかった……)
―朔弥の部屋―
二つの布団が並べられ、窓の外では救急車のサイレンが遠くで鳴っていた。
戦いの余韻がまだ街に残っている。
だが、この部屋だけは別世界のように静かだった。
二人は布団に横になり、天井をぼんやりと見つめていた。
しばらくは、誰も口を開かなかった。
今日一日の出来事が、頭の中でゆっくりと整理されていく。
やがて――
朔弥がぽつりと呟いた。
「なぁ、レオン……今日のリザード、やばかったよな」
レオンは目だけを動かして朔弥を見る。
その表情には、戦いを見守っていた者の静かな重みがあった。
「……ああ。俺はあの戦いに参加しなかったが……見ていた。お前たち、よくあれに立ち向かったな」
朔弥は苦笑しながら天井に手を伸ばす。
その手は少し震えていた。
「いや……正直、怖かったよ。あいつ、影をまとってて動きが見えづらいし……突っ込んでくるスピードも、尾の一撃も重すぎて……魔法を撃つタイミング、何度も外しそうになった」
レオンは静かに頷く。
「影属性の魔物は、動きがぶれるように見える。恐怖を煽るのが得意だ。あれに正面から挑んだだけで……十分すごいことだ」
朔弥は照れくさそうに笑った。
「……そっか。なら、ちょっとは胸張っていいのかな」
「胸を張れ。あの状況で逃げずに立っていた時点で……勇気がある」
朔弥は布団に顔を半分埋めて、「へへ……」と小さく笑った。
「でもさ……レオン」
「ん?」
「……俺の爆裂……あれ、ちょっとやりすぎだったよな……?」
レオンはわずかに眉をひそめた。
「ちょっとではない。あれは危険だ。魔力の制御が甘いまま、あの規模を撃つのは本来ありえない」
「だよなぁ……撃った瞬間、自分でも(あ、これやばい)って思ったし……」
「俺も見ていて肝が冷えた。あれは魔法というより……災害だ」
「うっ……やっぱりそう思う……?」
「だが――」
レオンは少しだけ声を柔らかくした。
「……あれでリザードを倒したのも事実だ。結果として、お前たちは生き残った。それは誇っていい」
朔弥は布団をぎゅっと握りしめた。
「……ありがとな」
ふと、部屋の空気が落ち着いた。
布団の柔らかさ。
家の匂い。
遠くのサイレン。
隣にいる友の気配。
そのすべてが、レオンには新鮮だった。
異世界での旅路では、夜は常に次の戦いへの準備だった。
焚き火の明かりの中で剣を磨き、魔物の気配に耳を澄ませ、眠りは浅く、夢はなかった。
だが――
この世界の夜は違う。
温かくて、柔らかくて、まるで守られているようだった。
レオンは小さく息を吸い、ぽつりと呟いた。
「なぁ、朔弥」
「ん?」
「……この世界の夜は……温かいな」
朔弥は少し笑って、布団をかぶりながら答えた。
「そりゃあ……家だからな」
その言葉は、レオンの胸に静かに染み込んだ。
家。
家族。
温かい夜。
レオンが知らなかったものが、この家には全部あった。
レオンは目を閉じる。
(……こんな夜が……ずっと続けばいい……)
静かに、二人は眠りへ落ちていった。




