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第8話:折れない意志

 夕暮れの狭山市駅前。

 シャドーゴーレムの巨体が、街の影をさらに濃く染めていた。

 レオンはその巨影を見据え、静かに言った。


「シャドーゴーレムは俺がやる――お前たちは、シャドーリザードを倒せ」


 その言葉に、三人の心臓が跳ねた。


「え……三人だけで……?」


 朔弥の声が震える。


「無茶だよ……あれ、どうみても強そうだよ……」


 美咲の手が杖を握りしめる。


 優斗も唾を飲み込んだ。

 シャドーリザードは、ただの魔物ではない。

 影属性の中位魔物――

 アーマーオーク幼体とは格が違う。


 だが。

 レオンの背中は、迷いなくゴーレムへ向かっていた。


「大丈夫だ。お前たちなら、できる」


 その一言が、三人の胸に火を灯した。


(……やるしかない……!)

(逃げない……!)

(守る……!)


 三人は同時に頷いた。


 シャドーリザードが長い尾をゆらりと揺らした。

 その動きは、ただの揺れではなかった。


 空気が震える。

 まるで尾の軌跡そのものがこの場の支配者は誰かを告げているようだった。


 アスファルトに落ちた影が生き物のようにうねり、三人の足元へじわりと迫る。

 赤い双眸が、ゆっくりと三人を舐めるように見下ろしている。


 その目には、恐怖も警戒も怒りもない。

 あるのは――

 獲物を前にした捕食者の余裕。


「シャアアアアア……」


 低く湿った唸り声が響く。

 その音は耳ではなく、背骨に直接触れるようだった。


 美咲が息を呑む。

 朔弥の指先が震える。

 優斗の喉が、ごくりと鳴った。


 ――強い。


 言葉にしなくても、三人は理解していた。

 この魔物は、今までの敵とは格が違う。


 シャドーリザードが一歩踏み出す。

 その一歩だけで、地面がわずかに沈んだ。


 筋肉の密度が違う。

 影の魔力の濃度が違う。

 存在そのものが脅威だった。


 優斗は刀を構えるが、手のひらに汗が滲む。

 だが、目は逸らさない。


「……来いよ。俺が前に出る!」


 声は震えていない。

 だが、その裏にある緊張は隠せなかった。


 優斗の背中を、朔弥と美咲が見つめる。

 怖い。

 でも――

 逃げない。


 三人の胸の奥で、小さな炎が静かに燃え始めていた。


 優斗が地面を蹴る。


「《武威解放》ッ!!」


 爆ぜる気迫。

 空気が震え、砂埃が舞い上がる。

 続けて――


「《心技一体》!」


 優斗の瞳が鋭く細まり、世界のノイズがすべて消えたように静まり返る。

 シャドーリザードの筋肉の収縮、尾のわずかな揺れ、呼吸のリズム――

 すべてが見えた。


「優斗くん、行って!! 《聖励ブレッシング》!」


 美咲の光が優斗を包む。

 その光は祈りのように優しく、しかし確かな力を宿していた。


 朔弥が詠唱を始める。


「《雷槍サンダースピア》!!」


 青白い雷が槍の形を成し、空気を裂いて一直線に走る。

 雷槍がリザードの胴を貫いた瞬間、優斗がその隙を逃さず踏み込む。


「――《一閃斬》ッ!!」


 紅牙が閃光のように走り、シャドーリザードの胸を斬り裂いた。

 黒い霧が爆ぜる。


(……決まった……!?)


 美咲の胸に、一瞬だけ希望が灯る。

 その光は、胸の奥で小さく揺れる蝋燭の火のように頼りなかった。


 だが――


 シャドーリザードは、ほとんど怯んでいなかった。


「シャアアアアアッ!!」


 尾が唸り、優斗の腹に直撃する。


「ぐっ……!!」


 優斗の身体が宙を舞い、アスファルトに叩きつけられた。

 その音が、美咲の心臓を直接殴ったように響く。

 胸の奥がぎゅっと縮み、呼吸が止まる。


「優斗くん!!」


 美咲は駆け寄る。

 足が震えているのに、止まらない。

 膝が笑っているのに、それでも前へ進む。


「《上位治癒ハイヒール》!!」


 光が優斗の傷を塞ぐ。

 だが、その光を維持する手が震えていた。

 ――その瞬間。


「うわっ……!!」


 朔弥が吹き飛ばされた。


 美咲の胸の奥で、何かが崩れた。

 それは、心の支えが一気に砕け散るような感覚だった。


「朔弥くん!!」


 叫んだ声が震える。

 喉がひりつき、呼吸が浅くなる。

 肺が空気を求めているのに吸えない。


 視界が揺れる。

 耳鳴りがする。

 心臓が痛いほど速く打つ。

 頭の中が真っ白になり、思考が霧の中に沈んでいく。


(どうしよう……どうしよう……! 二人とも……死んじゃう……! 私……私が……守らなきゃ……! でも……怖い……!)


 足元がふらつき、杖を握る手が汗で滑りそうになる。


 シャドーリザードがゆっくりと首をもたげ、赤い双眸で美咲を見下ろす。

 その目は、完全な嘲笑だった。

 まるでお前たちでは勝てないと告げているように。


 美咲の喉が詰まり、涙が滲む。

 胸の奥で恐怖が膨れ上がり、心が押し潰されそうになる。


(……無理……こんなの……勝てるわけ……)


 美咲の世界は、恐怖に飲まれかけていた。

 視界の端が暗くなり、足元がふらつき、胸の奥がぎゅっと縮む。

 呼吸が浅く、心臓は暴れ馬のように跳ね続け、頭の中が真っ白になっていく。


 ――もう、立っていられない。

 そんな絶望が、美咲の心を覆い尽くそうとしたその時。


「……美咲……!」


 優斗の声が届いた。

 弱々しい声。

 でも、確かに前を向こうとする声。

 その声が美咲の耳に届いた瞬間、世界の色が少しだけ戻った気がした。


 美咲はハッと顔を上げる。

 優斗が、血を流しながらも、必死に身体を起こしていた。


 その姿は痛々しいほどボロボロなのに――

 その目だけは、まだ戦う意志を失っていなかった。

 その目が、美咲をまっすぐ見ていた。


「……美咲……落ち着け……!」


 優斗が美咲の肩を掴む。

 その手は震えていた。

 でも、確かに温かかった。

 その温もりが、美咲の心の奥にまで染み込んでいく。


「俺は大丈夫だ……朔弥を……頼む……!」


 その言葉が、美咲の胸の奥にまっすぐ届いた。

 まるで暗闇の中に差し込んだ一筋の光のように。


(……優斗くん……こんなにボロボロなのに……まだ……戦おうとしてる……)


 胸の奥で、何かがカチッと噛み合った。

 恐怖で固まっていた心が、ゆっくりと動き出す。


 涙がこぼれそうになる。

 でも、今は泣いている場合じゃない。

 美咲は震える手をぎゅっと握りしめ、朔弥のもとへ駆け寄る。


 その足取りはまだ不安定だったが――

 確かに前へ進んでいた。


 上位治癒ハイヒールの光が朔弥を包む。

 その光は、さっきまでの震えを含んだものではなかった。

 守りたいという強い意志を宿していた。


 朔弥はゆっくりと身体を起こす。

 胸がまだ痛む。

 でも、それ以上に――

 悔しさがあった。


「……ごめん、美咲……ありがとう……」


 美咲は涙を拭い、震えを押し殺して頷く。


「ううん……! まだ……まだ戦えるよ……!」


 優斗も立ち上がり、紅牙を握り直した。

 呼吸は荒い。

 身体は痛む。

 それでも――

 目は死んでいない。


「……行くぞ。今度は……絶対に倒す……!」


 三人の視線が交わる。

 その瞬間、胸の奥で同じ炎が燃え上がった。


「もう一度いく!!」


 優斗が踏み込む。

 美咲が聖励ブレッシングを重ね、朔弥が雷の魔力を練り始める。


 だが――

 シャドーリザードは、完全に三人の動きを読んでいた。


 優斗が踏み込んだ瞬間、尾がカウンターのように振り下ろされる。


 速い。

 さっきよりも速い。

 まるで三人の癖を理解したかのような動き。


(まずい……! このままじゃ優斗が――)


 朔弥の心臓が跳ねる。

 叫ぼうとした瞬間――

 朔弥の脳裏に、突然ひとつの魔法陣が浮かんだ。


 見たことがある。

 練習したこともある。

 でも――

 戦闘で使ったことは一度もない。


(……これだ……! これなら……優斗を守れる……!)


 考えるより先に、口が動いていた。


「《炎壁ファイアウォール》ッ!!」


 優斗とシャドーリザードの間に、炎が一気に立ち上がった。


 ゴゴウッ!!


 炎の壁が尾撃を真正面から受け止める。

 衝撃で炎が揺れ、火花が散り、空気が焼ける匂いが広がる。


 だが――

 尾は、炎壁を貫けなかった。


「……助かった……!!」


 優斗が息を吐く。

 その声には、驚きと安堵が混じっていた。


「い、今の……俺……? 俺が……出したの……?」


 朔弥自身が一番驚いていた。

 手が震えている。

 でも、その震えは恐怖ではない。


 仲間を守れたという実感。

 胸の奥が熱くなる。


「朔弥くん……すごい……!」


「ナイスだ、朔弥!!」


 二人の声が、朔弥の背中を押した。


(……俺……やれる……! 俺だって……戦える……!)


 炎壁の残光が、朔弥の決意を照らしていた。

 炎壁が消えた後も、シャドーリザードは三人を嘲笑うように尾を揺らしていた。

 その余裕が、逆に三人の胸に火をつける。


「……行くぞ。今度こそ、倒す……!」


 優斗が紅牙を構え直す。

 その背中には、もう迷いがなかった。

 美咲が深く息を吸い、震えを押し殺して詠唱する。


「優斗くん……! 《聖護プロテクション》……! 《聖励ブレッシング》……!!」


 光が優斗を包み、その身体に守りと力が宿る。


 朔弥も魔力を練り始める。

 雷と火が指先で脈打ち、空気がビリビリと震えた。


「……行くよ……!」


 三人は同時に踏み込んだ。


「《武威解放》ッ!!」


 優斗の身体から熱が噴き上がる。

 筋肉が軋み、血流が加速し、視界が鮮やかに色づく。


「《心技一体》……!」


 心が静まり、

 世界が戦いの色に染まる。

 シャドーリザードの動きが、まるでスローモーションのように見えた。


(……見える……! 今なら……斬れる……!!)


 優斗が踏み込む。

 その動きは、まるで風が形を持ったかのように滑らかだった。


「《聖なる矢(ホーリーアロー)》!!」


 光の矢がシャドーリザードの顔面へ飛ぶ。

 リザードが反射的に顔をそらし、優斗への注意が一瞬だけ逸れる。


 その一瞬が、優斗にとっては十分だった。

 紅牙が閃光のように走り、シャドーリザードの胸を深く斬り裂いた。

 黒い霧が爆ぜ、リザードが苦悶の声を上げる。


「シャアアアアアッ!!」


 だが――

 まだ倒れない。

 その鱗は硬く、影の魔力が傷を塞ぎ始めていた。


(……くそ……! まだ……足りない……!!)


 優斗が歯を食いしばる。

 呼吸は荒く、胸が焼けるように痛む。

 それでも、前へ出る足は止まらない。


「次は俺の番だ!」


 朔弥が追撃に移ろうとした――

 その瞬間だった。

 朔弥の魔力が、突然暴れ始めた。


「……あれ……? なんか……魔力が……おかしい……!」


 指先が熱い。

 胸の奥が燃えるように熱い。

 火の魔力が何かと混ざり合い、まるで外へ出たがっているように暴れ回る。


(……火槍ファイアランスを撃つつもりだったのに……これ……違う……! もっと……もっと強い……!)


 朔弥の脳裏に、見たことのない魔法陣が浮かんだ。

 それは、火槍よりも遥かに巨大で、複雑で、危険な魔法陣。


(……これ……撃ったら……どうなる……!?)


 怖い。

 でも――

 仲間を守りたい気持ちが、恐怖を押し返した。


「優斗……美咲……どいて……!!」


 二人が朔弥の声に反応して飛び退く。

 朔弥は叫んだ。


「――《爆裂エクスプロージョン》ッッ!!」


 朔弥の叫びと同時に、炎の塊がシャドーリザードへ一直線に飛ぶ。

 着弾した瞬間――

 世界が光に呑まれた。


 ズッドドドドドドドドドーーーーン!!


 凄まじい轟音が空気を裂き、爆風が地面をえぐり、炎の奔流がシャドーリザードを包み込む。


 視界が白く染まり、耳鳴りが世界のすべてを支配した。

 爆発の中心で、シャドーリザードの巨体が影の鱗ごと吹き飛び、黒い霧となって空へ散っていく。

 その衝撃は、三人の身体すら容赦なく巻き込んだ。


「うわああああ!!」

「きゃああああ!!」

「ぎゃああああ!!」


 アスファルトの上を転がり、砂埃と熱風にまみれながら、三人はどうにか転がり止まった。


 耳がキーンと鳴り、肺が焼けるように熱い。

 身体のあちこちが痛む。

 それでも――

 生きていた。


 炎の渦がゆっくりと消えていく。

 熱気が風に流され、焦げた匂いだけが残る。


 やがて、爆心地にあったはずのシャドーリザードの姿は、どこにもなかった。

 黒い霧が風に散り、影の残滓だけが地面に落ちている。


 ――倒した。


 三人はアスファルトの上で仰向けになったまま、しばらく動けなかった。


 静寂。

 熱気。

 焦げた匂い。

 そして胸の奥に残る、あの爆発の余韻。


 耳鳴りがまだ消えず、世界が少しだけ遠く感じる。

 それでも、三人は空を見上げていた。


 夕暮れの空は、爆裂の光を受けてまだ赤く染まっている。

 まるで、さっきの戦いの名残が空に焼き付いているようだった。

 その空を見つめながら、優斗がぽつりと呟く。


「……勝った……?」


 その声は、確信よりも驚きに近かった。

 美咲が息を整えながら答える。


「……勝った……よね……?」


 胸に手を当て、鼓動を確かめるように。

 震えがまだ残っている。

 でも、その震えは恐怖ではなく安堵に変わりつつあった。


 朔弥は腕をだらんと投げ出し、天を仰いだまま、力の抜けた声で言った。


「……爆発しすぎ……!!」


 一瞬の静寂。


 そして――

 三人は同時に笑い出した。


 腹筋が痛いほど笑い、涙が出るほど笑い、呼吸が苦しくなるほど笑った。

 爆風で転がった痛みすら、今は笑いの種にしかならない。


「なんだよー、今の魔法はーー」


 優斗は仰向けのまま朔弥を問い詰める。


「すごかったねー」


 美咲が髪と服を整えながら言う。

 爆風でボサボサになった前髪を押さえつつ、その表情はどこか嬉しそうだった。


「いや、俺にも良く分からないよー」


 朔弥も笑いながら答える。

 自分の魔力が暴走したはずなのに、今はその恐怖よりもやり遂げたという実感が勝っていた。


 ――その時。


 朔弥がふと、美咲の方へ身を起こした。

 笑ってはいるが、目だけが真剣だった。


「……美咲、大丈夫? どこか痛くない?」


 その声は、爆発の余韻に揺れる空気の中で、妙に優しく響いた。

 美咲は一瞬きょとんとして、すぐにふわっと笑った。


「うん、大丈夫だよ。ありがとう、朔弥くん。」


 その笑顔に、朔弥は胸を撫で下ろす。

 安堵が表情に滲むのを隠しきれない。

 優斗はその様子を横目で見て、にやりと笑ったが――

 何も言わなかった。


 恐怖も、痛みも、全部吹き飛ぶほどに。


 夕暮れの狭山市駅前に、三人の笑い声が響き渡る。


 その笑い声は、確かに勝利の音だった。

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