第2話:日常崩壊
放課後。
夕焼けが校舎を赤く染め、いつもなら部活動の声が響く時間帯だった。
だが、この日の光野朔弥は、朝から続く胸のざわつきがさらに強まっているのを感じていた。
(……なんだよ、これ。
ずっと胸が熱い……)
靴箱で靴を履き替えながら、朔弥は胸を押さえる。
その瞬間――
ドォォォン!!
校舎全体が揺れた。
「うわっ!?」
ロッカーが震え、窓ガラスがビリビリと鳴る。
朔弥は反射的に壁に手をついた。
「な、なんだ……地震……?」
だが違った。地鳴りのような振動は一度きりで、すぐに静寂が戻る。
廊下の窓から外を見ると――
空に黒い穴が開いていた。
空間そのものが破れたような、黒い渦。
ゆっくりと回転しながら、周囲の光を吸い込んでいる。
「……嘘だろ……?」
朔弥が呟いた瞬間、廊下の奥から悲鳴が響いた。
「ぎゃああああああ!!」
「逃げろ!! 化け物だ!!」
朔弥は反射的に走り出した。
角を曲がった瞬間――
それがいた。
緑色の肌。黄色い目。錆びた短剣。ゲームでしか見たことのない存在。
「……ゴブリン……?」
現実感が追いつかない。
だがゴブリンは朔弥を見つけると、ギャアッと叫び、一直線に襲いかかってきた。
「うわああああああ!!」
朔弥は全力で逃げた。
廊下を駆け抜けたところで、前方から優斗が飛び出してくる。
「朔弥!! 無事か!!」
廊下の向こうから優斗が駆け込んできた。
息を荒げ、額には汗が滲んでいる。
その表情には、剣道部主将としての冷静さよりも、幼馴染を案じる焦りが勝っていた。
「優斗!! 魔物が……!」
「見た! あれ……ゴブリンだろ!?
ゲームでしか見ねぇやつだ!!」
二人は肩を並べて走り出す。
靴音が廊下に響き、揺れる蛍光灯の光が床に乱れた影を落とす。
「美咲は!? 美咲はどこだ!?」
「家庭科室! まだ残ってるはずだ!!」
優斗の声は震えていた。
普段はどんな相手にも動じない彼が、今はただ“友を守る”ためだけに走っている。
家庭科室の前にたどり着いた瞬間――
中から、鋭い悲鳴が響いた。
「きゃあああああ!!」
その声は、幼い頃から聞き慣れた美咲の声だった。
だが今は、優しさの欠片もない。
恐怖に引き裂かれた、助けを求める悲鳴。
朔弥の心臓が跳ね上がった。
胸のざわつきが一気に熱へと変わり、全身を駆け巡る。
「美咲!!」
二人は同時に扉へ手を伸ばし、勢いよく開け放った。
――その瞬間、日常は完全に崩壊した。
家庭科室は荒れ果てていた。
倒れた机、散乱した布や糸、割れたガラス。
その中心で、美咲が後ずさりながら壁に追い詰められていた。
彼女の前に立つのは――
緑色の肌、黄色い目、錆びた短剣を握るゴブリン。
ゲームの中の存在が、現実の教室で息をし、獲物を狙っている。
ゴブリンが短剣を振り上げた。
朔弥は咄嗟に手を伸ばす。
その刹那――胸の奥が灼けるように熱くなり、視界が白く弾けた。
「やめろおおおお!!」
叫んだ瞬間、朔弥の手のひらから火球が放たれた。
ボッ!!
火球は一直線に飛び、ゴブリンの胸に直撃した。
悲鳴。焦げた匂い。ゴブリンは床に崩れ落ち、動かなくなった。
美咲は震える手で口元を押さえ、朔弥を見つめた。
「さ、朔弥くん……今の……魔法……?」
優斗も目を見開き、言葉を失っていた。
「お前……
いつからそんなチート覚えたんだよ……」
朔弥自身が一番驚いていた。手のひらがまだ熱い。
心臓が早鐘のように鳴っている。
「わ、わかんない……
勝手に……身体が……」
だが、考えている暇はなかった。
廊下の奥から、複数の魔物の声が響く。
「ギャアアアア!!」
「グルルルル!!」
「うわああああああ!! 助けて!!」
悲鳴と咆哮が混ざり合い、校舎は完全にパニックへと沈んでいく。
「とにかく逃げるぞ!!
校庭まで行けば……!」
優斗が叫び、三人は走り出した。
家庭科室を飛び出し、廊下を走り抜ける。
階段を駆け下り、校舎の出口を抜け――
夕焼けの空。黒い穴。地面に走る亀裂。
そして――
空から光の柱が落ちてきた。
眩い白光が地面を焼き、爆発のような風が校庭を吹き荒れる。
砂埃が舞い上がり、木々が悲鳴を上げるように揺れた。
その中心に――誰かが立っていた。
優斗は腕で顔を覆いながら、震える声を漏らした。
「な、なんだよこれ……!」
美咲は恐怖に耐えきれず、朔弥の背中にしがみつく。
朔弥の胸のざわつきは、もはや痛みに近いほど激しく脈打っていた。
(……誰だ……?
いや……知ってる……?
この感じ……なんだ……?)
光がゆっくりと収まっていく。
白光の残滓が風に溶け、輪郭が浮かび上がる。
そこにいたのは――
金色の髪。
それは戦場の血を浴びてもなお輝く、太陽のような光。
銀色の鎧。
アルティリアの鍛冶技術で鍛えられた、神聖なる勇者の装備。
白いペリースマント。
風に揺れ、まるで天から降り立った使者のように翻る。
そして――
血に染まった聖剣を握りしめた少年。
その姿は、朔弥の胸の奥に眠る何かを強く揺さぶった。
この少年こそ、アルティリアの勇者――
レオン・ウル・アラリウスだった。




