第15話:深淵の手前
──20階層主を倒してから、どれだけ時間が経ったんだろう。
朔弥は焼けつく肺を押さえながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。
視界の端で影が揺れ、空気は重く沈んでいる。
呼吸をするたび、胸の奥が軋んだ。
(……20階層主の時も死ぬかと思ったけど……)
あれから先は、ずっと戦いっぱなしだった。
階層をひとつ降りるたびに敵の質が変わり、気を抜けば一瞬で命を奪われるような戦闘ばかり。
(……気づけば40階層……)
足が震えているのは疲労か、それとも恐怖か。
自分でも判別がつかない。
(……俺、何回死にかけたんだ……)
それでもここまで来られたのは──
仲間がいたからだ。
レオンが前に立ち、優斗が道を切り開き、美咲が支えてくれた。
自分ひとりでは、絶対に辿り着けなかった場所。
(……でも、こいつは……)
目の前の虚影竜は、今までの敵とは格が違った。
影が渦を巻き、空間そのものが歪んで見える。
竜の吐息だけで肌が粟立つ。
(……やべぇ……これ、本気で終わるやつ……)
その瞬間、背後から低い声が落ちた。
「朔弥、集中しろ」
振り返らずとも分かる。
レオンはいつも通り前を見据えている。
揺るがない背中。その存在が、朔弥の心臓を強く打たせた。
(……ああ、そうだ。今は──)
逃げる時じゃない。怯える時でもない。
戦う時だ。
朔弥は震える指先を握りしめた。
影霧が渦を巻き、虚影竜の咆哮が空洞全体を震わせる。
『グォォォォォォォォ──ッ!!』
耳の奥が痺れ、空気が押しつぶされるように重くなる。
床石が細かく震え、砂粒が跳ねた。
美咲が一歩、前へ踏み出す。
「──《光祝福陣》!」
床一面に光の紋が走り、淡い金色の波紋が四人を包む。
影の圧が薄れ、空気が澄んだように変わった。
朔弥が魔法を放つ。
「行けぇぇっ!! 《炎雷衝》!」
火と雷が絡み合い、魔力が火花を散らす。
──一瞬の静止。
ドガァァァァンッ!!
爆ぜる火炎。
雷光が影霧を裂き、虚影竜の胸奥に潜む影核が露出する。
熱風が頬を叩き、朔弥の腕が震えた。
その瞬間、虚影竜の影が揺らぎ、床に落ちた黒がにじむように広がる。
影が形を持ち、いくつもの影分身が立ち上がった。
優斗が地を蹴る。
「任せろッ!!」
ドンッ!!
床石が砕け、破片が跳ねる。
光祝福陣の加護を受けた身体が、空気を裂くように前へ飛んだ。
ヒュッ──ッ! ヒュバッ! ヒュンッ!
──スパァンッ!
残像が三つ、四つと重なり、そのすべてが影分身へ斬り込む。
――《嵐舞斬》
連撃の軌跡が白い線となって空間を走り、影の残像が霧散していく。
影分身がすべて霧散し、虚影竜の本体だけが姿を残した。
レオンが低く息を吸う。
ドクン──
ドクン──
胸の奥で光が脈打つ。
その光が全身へ駆け巡り、空気が震えた。
「《英雄心臓》!」
光がレオンの胸から溢れ、筋肉がわずかに膨張し、空気が震えるほどの圧が生まれる。
虚影竜が影ブレスを吐いた。
──ボォォォォッ!!
黒い奔流が迫る。
だがレオンは一歩も退かない。
美咲の光が、レオンの剣に細い光の道を繋ぐ。
影の干渉が剥がれ、剣が通る軌道が生まれた。
レオンが踏み込む。
ドガンッ!!
砕けた床石が四方へ飛び散る。
影ブレスを肩で受け流しながら、一直線に竜の胸奥へ。
「──終わりだッ!! 《聖光破断》!」
ズバァァァァァァッ!!
光の刃が虚影竜の胸奥へ吸い込まれるように走り──
朔弥が露出させた影核を、寸分の狂いもなく断ち割った。
バキィィィィィンッ!!
影が弾け、竜の咆哮が空間に溶けていく。
「グ……ガァァァァァ……ッ……!」
巨体がゆっくりと傾き──
ドサァァァァ……ッ。
虚影竜は、光の中で崩れ落ちた。
影霧が風に散るように消え、空洞に静寂が戻る。
黒い霧が薄れ、重かった空気がゆっくりと軽くなっていく。
レオンは聖剣を下ろし、深く息を吐いた。
「……ふぅ」
その吐息は、戦いの終わりを告げる鐘の音のように静かだった。
優斗は肩で息をしながら膝に手をつき、笑う。
「……っはぁ……やった……やったな、これ……!」
疲労と興奮が混ざった、優斗らしい笑い方だった。
虚影竜が崩れ落ちたあと、空洞の中央に静かに階段が姿を現す。
その光景を見た瞬間、四人の肩から一気に力が抜けた。
朔弥は腰を落とし、石床の冷たさに背中を預ける。
張り詰めていた筋肉が一気に緩んだ。
「……座る……」
声に力が入らない。
本当に限界だった。
優斗も隣に腰を下ろし、水筒で喉を潤す。
飲み終えたあと、息を吐きながら笑った。
「……いやマジで……生きてるって最高だな……」
朔弥は横目で優斗を見る。
汗と疲労でぐしゃぐしゃの顔。
「お前、さっきまで死にかけてたもんな……」
優斗は肩をすくめる。
「お前もだろ。俺ら二人、今日だけで寿命30年は減ったわ」
「いや俺は10年で済ませたい……」
「無理だろ。お前の顔、今めっちゃ死んでるし」
「うるせぇ……」
美咲は胸に手を当て、静かに息を整えた。
戦闘中の緊張がようやく解けたのだろう。
その表情には安堵と疲労が入り混じっていた。
「……ほんとに……無事でよかった……」
震えていない声。
あの頃のように怯えてもいない。
ただ仲間を想う気持ちだけが真っ直ぐに乗っていた。
少し離れた場所で、レオンが静かに水を飲んでいた。
背筋は相変わらず伸びていて、疲れを見せないようにしているのが逆に分かる。
朔弥はレオンをちらりと見て、ぼそっと呟いた。
「……レオン、笑ってくれたら……俺、ちょっと元気出るんだけど……」
レオンは短く返す。
「……今は休め。魔力が回復しないぞ」
淡々とした声。
表情は変わらない──ように見える。
だが朔弥が俯いた一瞬、レオンの口元がわずかに緩んだ。
優斗は気づかず、呆れたように笑う。
「いや絶対、笑ってくれないだろ」
美咲は小さく笑った。
彼女だけが、その一瞬の笑みを見ていた。
朔弥は石床に背中を預け、長い息を吐く。
「……俺、もう帰って布団入りたい……」
優斗がすぐに返す。
「いや帰っても寝れねぇだろ。絶対悪夢見るタイプだし」
「お前もだろ……」
「俺は寝る前に牛乳飲むから悪夢来ねぇんだよ。牛乳バリアってやつ」
「根拠どこだよ……」
美咲は二人のやり取りに、ほっとしたように微笑んだ。
「ふふ……二人とも、元気だね……」
空洞の静けさが、四人の呼吸を包み込むように落ち着いていく。
しばらくして、レオンがゆっくりと立ち上がった。
疲労を押し隠すように静かで、しかし確かな意志を帯びた動き。
階段の方へ視線を向けたまま、短く言葉を落とす。
「……休んだら行くぞ。次は五十階層を目指す」
その声は大きくない。
けれど空洞の静けさの中で、まるで鐘の音のように響いた。
優斗が水筒を閉じ、立ち上がりながら肩を回す。
「よし……行くか」
疲労の奥にある戦士の芯が滲んでいた。
朔弥は石床に手をつき、重い身体をなんとか起こす。
足に力が入らず、少しふらついた。
「……はぁ……行くのか……行くんだよな……一体どこまで深いんだ、このダンジョンは……」
弱音のようで、しかしその足は確かに前へ向いていた。
美咲が朔弥の腕をそっと支え、柔らかく微笑む。
「うん。行こう、みんなで」
その一言が、朔弥の背中を静かに押した。
四人は階段の前に並ぶ。
影霧が晴れた空洞は静まり返り、その静寂が逆に深層の気配を濃くしていた。
レオンが一歩、階段へ足をかける。
その背中に、三人の視線が自然と集まる。
誰も言葉を足さない。
もう必要なことは、全部伝わっている。
光の差さない深層へ──
まだ誰も知らない異常へ──
四人は静かに、階段を降り始めた。




